十二国記シリーズ 黄昏の岸 暁の天 小野不由美 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例) :ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例) [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例) /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例) *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ (例) アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください http://aozora.gr.jp/accent_separation.html ------------------------------------------------------- [#表紙(img/ホワイトハート版表紙09-1.jpg)] [#表紙(img/ホワイトハート版表紙09-2.jpg)] [#表紙(img/講談社文庫版表紙09.jpg)] [#地図(img/地図1.jpg)] [#地図(img/地図7.jpg)] [#ページの左右中央]    黄昏の岸 暁の天 [#改ページ] 序 章  その日、大陸北東に位置する戴《たい》国は、まだ浅い春の中にあった。山野を覆《おお》った雪は融《と》けやらず、草木の芽も降り積もった雪の下で眠っている。  雲海の上も、また例外ではなかった。下界ほどの雪はないものの、園林《ていえん》に立ち並ぶ樹木の多くは、未だ固い眠りの中にある。戴国首都、鴻基《こうき》。白圭宮《はっけいきゅう》の西の一郭。  白圭宮は、湾を抱き込むようにして馬蹄形《ばていけい》に広がる。その北西に延びた一端の、湾に面した一帯は広大な園林だった。そこには戴の宰輔《さいほ》が住まう仁重殿《じんじゅうでん》が接し、さらにはその台輔が州侯として政務を執る広徳殿《こうとくでん》に接している。  園林は冬枯《ふゆが》れていたが、美しく配された奇岩や閣亭《たてもの》は凛《りん》とした姿を見せていた。寒さの中でも緑を失うことのない樹木が深い色を添えて、ようやく咲き揃《そろ》い始めた梅の花が、微《かす》かな芳香を放っていた。その路亭《あずまや》の一つに、子供の影がある。白い石の柱に凭《もた》れ、項垂《うなだ》れた背には鋼色《はがねいろ》の髪がかかっていた。  この子供を、泰麒《たいき》という。彼は戴国の麒麟《きりん》、新王を選び玉座に就《つ》けて宰輔となり、同時に鴻基のある瑞州《ずいしゅう》の州侯に就いてはいたものの、まだ十一にしかならなかった。王を選ぶという大役を果たして半年、戴国《たいこく》の重鎮であるはずの子供は、だが、このときただ一人で園林《ていえん》にいた。  泰麒《たいき》が選んだ王は鴻基《こうき》にいない。半月前、遠く文州《ぶんしゅう》へと旅立っていった。不安で心細くてならないのは、泰麒の主《あるじ》──泰王《たいおう》驍宗《ぎょうそう》が乱の鎮圧のために出ていったからだった。  泰麒は戦に馴染《なじ》まない。麒麟《きりん》という獣の本性《ほんせい》がそれを忌避《きひ》するばかりではなく、幼い泰麒には戦乱の経験がなかった。知識でしか知らない惨《むご》い場所へ、泰麒の主は出掛けていった。しかも──驍宗が旅立った直後から、宮中には良くない噂が広がっている。  文州の乱は王を弑逆《しいぎゃく》しようという企みで、驍宗は誘《おび》き出されてしまったのだ、という。  文州は瑞州の北、両州の間には峨々《がが》たる山脈が聳《そび》えている。山腹を割って這《は》う細い山道を、驍宗は越えていかねばならなかった。その細い道の彼方《かなた》、文州の中央部へと抜ける隘所《あいしょ》に逆賊は控え、驍宗を待ち受けているのだと囁《ささや》かれていた。そして昨日、実際に驍宗は伏兵《ふくへい》に急襲を受け、地の利を得られず苦戦している──そう、報《しら》せてくれた者があった。泰麒は不安で恐ろしく、胸の潰《つぶ》れる思いがする。  ──どうぞ、御無事で。  ひたすら祈るより他に、泰麒にできることはなかった。真っ黒く胸を蝕《むしば》む不安を、打ち明ける相手も持てなかった。泰麒の周囲にいる大人たちは、泰麒を怯えさせまいとして良くない報《しら》せ悉《ことごと》く隠す。弑逆の噂さえ、単なる風説にすぎない、心配する必要はないのだと言い張った。だから、この日の早朝、人を介しこっそりと耳打ちされたその凶報について、周囲の大人と話すことはできなかった。したところで例によって、そんなものは嘘《うそ》だ、何かの間違いだと言われるに決まっている。  公務の間を掠《かす》め、周囲から人の絶えたのを見計《みはか》らって人気《ひとけ》のない場所に逃げ出してこなければ、無事を祈ることさえできない。そんなにも幼い──幼い者としてしか扱ってもらえない自分が、泰麒は情けなく腹立たしかった。  嫌《いや》がる使令《しれい》を説得して、泰麒は彼らを文州へと向かわせた。せめて驍宗が無事なのかどうか、それだけでも知りたい。もしも苦戦を強《し》いられているのなら、助けて欲しい。  麒麟はその性、仁にして、流血を嫌い、争いを厭《いと》うと言う。剣を以て身を守ることはできないゆえに、妖魔を使令として下し、それを自らの戈剣《ぶき》として使う。だが、その使令を泰麒はただの二しか持ってはいなかった。汕子《さんし》と傲濫《ごうらん》と──その二者に行け、と命じると、それで驍宗のためにできることは終わりだった。せめてもっと使令がいれば。あるいは、泰麒がもっと大人で、周囲の大人たちと手を携《たずさ》え、驍宗を守るために何かをすることができれば。胸の中で繰り返しながら、その実、泰麒はこうして園林の片隅でひたすら祈っているしかないのだった。あまりに無力な自分が悔《くや》しい。  どうぞ、御無事で。  何度目かに祈ったとき、背後で微《かす》かな足音がした。振り返ると、その者[#「その者」に傍点]が立っていた。泰麒は安堵《あんど》した。傅相《ふしょう》でも大僕《たいぼく》でもなかった。それは泰麒に驍宗の窮地を報《しら》せてくれた者だから、無理に何も心配事などない貌《かお》をする必要はないのだ。 「驍宗様は御無事なんでしょうか。何か連絡はありましたか?」  泰麒は駆け寄りながら訊いた。その者は首を横に振る。 「僕、やっぱり使令を行かせました。ごめんなさい」  知らせがあれば包み隠さず伝えるから、使令を驍宗の傍《そば》に向かわせようなどという短慮を決して起こさないように、と以前、その者は言った。相手は約束を守ってくれたのに、泰麒には同じように約束を守ることができなかった。 「でも、どうしても何もしないでただ報せを待ってるなんて、できなかったんです」  その者はうなずき、そして、すらりと腰に帯びた剣を抜いた。  泰麒は足を止めたが、別段、怖《こわ》かったわけではない。泰麒はその者を信頼していた。だからただ、怪訝《けげん》に思っただけだった。 「……どうしたの?」  泰麒は急に不安になった。その者が、ついぞ見せたことのない恐ろしげな気配を発していることに、やっと気づいたからだった。 「驍宗は死んだ」  その者は言った。無意識のうちに怖《お》じ気《け》て後退《あとじさ》ろうとした泰麒の足が凍《こお》りついた。 「……嘘《うそ》」  仰ぎ見た相手は、抜いた剣を振り翳《かざ》した。泰麒は目を見開いた。あまりのことに全身が硬直し、声を出すこともできず、棒立ちになっているしかなかった。 「使令がただの二とは身の不運」  白く氷のように輝《かがや》く刃が、流れるように振り下ろされた。 「……驍宗を選んだ貴方《あなた》が悪い」  白刃が当たるのが先だったのか、あるいは泰麒が身を捩《よじ》り、本能的にその場を逃げ出そうと──彼にできる最善の手段で逃げ出そうとしたのが先だったのか、それを判じることは当事者にも難しかったろう。  いずれにしても、その凶刃は泰麒の──獣としての泰麒が持つ角を深々と抉《えぐ》った。泰麒は無意識のうちに悲鳴を上げた。それは、痛みだけではなく、裏切りという名の痛みに対する叫び、同時にかけがえのない主の喪失を聞いた苦しみ、そして生命の危機を瀕《ひん》する獣としての悲鳴だった。最大級の叫びと、その場を逃れようとする本能的な意志、泰麒はいきなりその場で溶解した。 「──泰麒!?」  汕子《さんし》は激烈な衝撃に高く悲鳴を上げた。汕子の足元《あしもと》には白く凍った山野があった。文州はもう目の前、位置を確認するために、小峰に登ろうとしていたところだった。  ──何かが、起こった。 「泰麒《たいき》──」  この痛みは何だろう。恐ろしい痛みと、未だ全身を駆けめぐる痺《しび》れは。  汕子《さんし》は呻《うめ》き、衝撃から立ち直るや否や、すぐさま身体を溶かして土中に滑り込んだ。それは「我」という形を地中に想起することによって起きる。  地中には道がある。汕子にはそれが分かる。道に己を移して形のないまま、その何もない道を駆ける。──いや、駆けるという言葉はあてはまらないかもしれない。深海のように暗く、全《すべ》てが朧《おぼろ》に混沌とする中、ただ身体を取り巻く何かの圧力だけがある。汕子は強く前へ、と念じる。遙《はる》か彼方、鮮明に明るい金の光を目指して。  地脈を突き進み、海面へ浮上するようにして龍穴から一気に風脈《ふうみゃく》に乗る。飛び出すと同時に高く舞い上がり、地上が霞《かす》み、形状を見失うほどの速度で突き進んでいく。金の明かりは強くなる。煌《こう》と輝いたそれがより鮮やかになり、強く視界を照らすほどになって、すぐに視野の全てを覆った。  黄昏《たそがれ》の金の色。薄暗い鬱金《うこん》の闇の中に潜りこもうとした刹那《せつな》、汕子はしたたかにそれから拒絶された。  ──泰麒の影が。  それは泰麒自身の気脈だ。それが恐ろしい勢いで捻《ねじ》れ、この世の気脈から|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取られようとしている。  ぞっと総毛立った。それは遙か以前、白銀の枝から目の前で※[#「てへん+宛」、unicode6365]ぎ取られていった金の実の姿にあまりによく似ていた。  ──泰麒。  また、失ってしまう。  それは不安より先に絶望となって汕子に襲いかかってきた。汕子は気脈から飛び出した。目の前は白圭宮《はっけいきゅう》、その甍宇《いらか》が波打って見えるほどに大気は歪《ゆが》んで、その彼方に陰鬱な色をした空が見えた。  ──異界。  蝕《しょく》だ、それも鳴蝕《めいしょく》。麒麟《きりん》の悲鳴が招く極小の蝕。  揺《ゆ》らぎの中心に投げこまれたようにして遠ざかる影が見えた。漆黒《しっこく》の獣の影。鬣《たてがみ》が僅《わず》か、鋭利な色に光った。 「──泰麒!!」  揺らいだ王宮、陽炎の立った園林《ていえん》。捻れた路亭《あずまや》、その傍らに傾き歪んだ影。  ──誰。  視線で薙《な》いで、汕子はすでに閉じようとしている「門」を見据える。迷わず飛び込み、姿を溶かして追い縋《すが》った。  腕が──意識の上での腕が伸びる。指先が追う。──もう少し。  背後でいきなり気脈が絶たれた。取り巻く気脈の色が、匂いが、肌触りが変わった。異界に出たのだ。  全身全霊で腕を伸べ、汕子は逃げる鬱金《うこん》の影に爪を立てる。爪が掛かった。──そのように感じた。  揺らいだ屋根、陽炎《かげろう》の立った道、捻《ねじ》れた樹木《じゅもく》。大きく波打ったそれらが一気に形を整える。と同時に汕子は辛うじて鬱金の影の中に滑り込んでいた。  ──泰麒──!  それは見る者があれば、目を疑うような光景だったに違いない。小さな畑の間に古い建物が並ぶ、小さな集落だった。その中を緩《ゆる》やかに蛇行しながら貫《つらぬ》いたアスファルトの細い道。四月の鮮やかな陽光が降り注いで、アスファルトの表面に小さく陽炎《かげろう》を生じていた。  その陽炎が大きく揺らいだ。文字通り炎がいきなり勢いを増したように膨《ふく》れ上がり、濃く凝《こご》った。その大きさは大人の背丈ほど。そこに薄く影が浮かび、するりと人影がはき出された。まるで小さな段差に躓《つまず》いたようにしてまろび出た子供の影は、二、三歩つんのめって、はたりと止まる。  アスファルトの上に立った子供の、背後で陽炎が融け落ちた。後には長閑《のどか》な春の景色があるばかり。  空は明るい薄青。絹雲が青を滲《にじ》ませている。どこか高いところで雲雀《ひばり》が鳴いていた。渡る風は弱く温《ぬる》い。畑の菜の花を揺らし、畦《あぜ》の薺《なずな》を揺らしてアスファルトの表面を撫《な》で、子供の肩を超えるほどに伸びた髪を軽く散らした。  子供は、ぼんやりと佇《たたず》んでいた。──いや、何も見ていず、感じていないのかもしれなかった。瞬《まばた》きすらない目が正面に向けられたまま、背後からの緩い風に押されたように足が動いた。一歩を踏み出すと、次の一歩が前に出る。彼は機械的に足を動かし始め、やがてそれが滑らかな歩みになった。  ほんの僅かあるいて、彼はいきなり瞬いた。ふと我に返った、というふうだった。足が止まる。彼は周囲を見渡して、激しく瞬く。  小さく整えられた畑や田圃と、点在する古い建物。間には真新しい家も見える。どこにでもある田舎じみた小さな集落。  彼は一つ首を傾げた。まだどこか、夢現《ゆめうつつ》の貌《かお》をしていた。彼の行く手、小道が道路と交わったすぐそこに白と黒の鯨幕《くじらまく》が見えていた。  ──彼は虚海《きょかい》を越えてしまった。 [#改ページ] 一 章       1  大陸東部、慶東国《けいとうこく》の首都、堯天《ぎょうてん》の上空に黒い翼が現れたのは、慶国の国歴で三年、夏の初めのことだった。  その日、街は気怠《けだる》い熱気の中に沈んでいた。堯天の街の北には、巨大な山が柱のように聳《そび》えている。その山の麓《ふもと》、南へと裳裾《もすそ》を引くように下《くだ》る斜面に、街は広がっていた。階段状に連なる市街、蝟集《いしゅう》した鋼色《はがねいろ》の甍宇《いらか》、縦横に延びる街路は陽脚《ひざし》に照らされて白く、そこにとろりと湿気を含んだ暑気が澱《よど》んでいる。  どの建物の窓も涼を求めて開かれていたが、あいにくこの日は、午《ひる》からぴたりと風が熄《や》んでいた。窓も戸口も開け放したところで、流れ込んでくるのは白茶けた照り返しと熱を持った空気、そして、眠気を誘うような静かな騒《ざわ》めきだけだった。  この暑気に倦《う》んだのか、夏空には鳥の姿もなかった。陽脚を避け、方々の木陰に逃げ込んでいる。犬が一匹、古びた民居《みんか》の軒先に落ちた短く黒い影の中に腹這《はらば》っていた。微睡《まどろ》む彼の傍らに据えられた椅子では、老人が一人眠っている。無防備に寝入った老人の手から団扇《うちわ》が落ちて、彼は鼻先だけを上げ、大儀《たいぎ》そうに主人を見上げた。──その時だった。  陽が翳《かげ》った。彼が期待を込めて振り仰ぐと、夏空は東から流れてきた雲に浸食されようとしていた。湿った風の匂いが彼の鼻先に届き、遠雷が聞こえた。空が完全に雲に覆われ、辺《あた》りが暗くなるまでには、いくらの時間もかからなかった。  黒い影がぽつりと堯天上空に現れたのは、その頃のことだった。それは鉛色の雲に追い立てられるようにして東から現れ、大きく弧を描きながら凌雲山《りょううんざん》へと接近していた。街の方々で雨を待ち、空を見上げていた人々のうち幾人かが、それを認めた。  その翼は痛々しいほど弱っていた。白い翼を覆った羽毛は汚れて逆立ち、黒い風切羽のあちこちが欠け、裂けていた。滑空することもままならず、懸命に湿気を含んだ空気を掻《か》く。萎《な》えたように下降しては羽搏《はばた》き、凌雲山へと近づいていく。  その影を打ち落とそうとするかのように、雨滴が落下し始めた。みるみるうちに驟雨《しゅうう》となって翼を襲い。すぐに雨脚《あまあし》の中にその姿を呑《の》み込んでしまった。それを何気なく見守った人々は、水煙の中に消え去る直前、その翼が凌雲山の高所に吸いこまれていくのを見たように思った。  杜真《としん》は巨大な門前に佇《たたず》んでいた。堯天山《ぎょうてんざん》の中腹、雲海にほど近い断崖の上に、その門はある。身の丈の数倍はあろうかという壁龕《へきがん》の奥に閉ざされ門扉、その門前はかなりの広さの岩棚になっている。これが禁門《きんもん》、堯天山に置かれた金波宮《きんぱきゅう》の最上層、雲海の上に広がる燕朝《えんちょう》に直結する唯一の門戸だった。  午過ぎ、杜真が門を守る同輩と交代して門前に着いたとき、岩棚の下には熱気に揺らめく堯天の街が広がっていた。これほどの高所にあっても風はなく、蒸《む》すような暑気が立ち込めていた。やがて頭上に雲が集まり始めた。雲は東から雲海の底を舐めるようにして這い寄ってきた。遠雷が聞こえる。時を措《お》かず、周囲に靄《もや》が漂い始めた。厚みを増した雲が雲海から禁門にまで降りてきたのだ。  完全に陽が翳《かげ》り、霧雨のような霞に岩棚が閉ざされてしまうまでには、いくらもかからなかった。今や、杜真の目の前、岩棚の先は灰色に塗り込められている。足元から濡れた涼気とともに、微かな地響きが流れ込んできた。 「振ってきたようですね」  杜真は何となく息をついて、すぐ傍の凱之《がいし》に声を掛けた。  そうだな、と凱之もまた深呼吸して、皓《しろ》い歯を零《こぼ》す。 「これで少しは、凌《しの》ぎやすくなるといいんだが。こうも暑くちゃ、皮甲《よろい》の中が蒸《む》れていけない」  そう言って笑った凱之《がいし》は、杜真ら禁軍|兵卒《へいそつ》五人を束ねる伍長《ごちょう》だった。長と言っても、一伍五人の中で最も経験があり、腕が立つ者がとりあえず取り纏《まと》め役として任じられる程度のものだから、凱之も長の立場を振り翳すようなことはない。堅苦しいところも高圧的なところもなかったが、そもそも伍長とはそういうものなのか、それとも凱之だからこそそうなのか、経験の浅い杜真には、よく分からなかった。  杜真はこの慶国の新王が即位した翌年、兵卒として軍に入った。一年の訓練を終え左軍に配属され、正式に軍務に就《つ》いて半年、凱之以外の伍長の下で働いた経験が杜真にはない。禁門を守るのは一|両《りょう》二十五人、一両は五伍で編成されている。他の伍長も、そして五伍を纏める両司馬《りょうしば》も、凱之のように親しみやすい者が多かったが、人の噂に聞く限り、他の両伍《ぶたい》ではそうはいかないものらしかった。 「瑛州《えいしゅう》は暑いな。麦州《ばくしゅう》のほうがましだった」 「伍長は麦州の御出身ですか?」  杜真が訊《き》くと、凱之は頷《うなず》く。 「生まれも育ちも麦州だ。今の主上が即位なさる前には、麦州師にいた」  へえ、と杜真は声を上げた。もと麦州師の兵卒は選卒《せいえい》だという意識が杜真にはある。事実、禁軍の筆頭、左軍将軍は麦州師から抜擢されている。 「じゃあ、伍長は青《せい》将軍を──」  ご存じですか、と杜真《としん》が問おうとしたときだった。断崖の先に垂れこめた灰色の幕の向こうから、唐突に黒い影が躍り出てきたのだった。  杜真が声を上げる間もなく、それは濃霧の中から飛び出してきて、禁門の脇の岩壁に激突した。短くくぐもった声を上げ、足掻《あが》きながら岩棚に滑り落ちる。何事だ、と凱之《がいし》の緊張した声が上がった。露台に転倒したそれは、痙攣《けいれん》するように二、三度|羽搏《はばた》き、悲しげな声を上げてその場に倒れた。同時にその背から人影が一つ、転がり落ちる。  杜真は槍を構える凱之に続き、その場を駆け出していた。禁門を通行できるのは、王と宰輔《さいほ》、王によって特に許された人々のみに限られている。そして眼前に横倒しになった騎獣は、それらの人々の誰の者でもなかった。王宮の最深部へと直結する門、どんな事情があろうとも、余人が軽々しく乗騎を寄せて許される場所ではない。  騎獣の傍に殺到する同輩たちは、杜真と同じく殺気めいた緊張感を漂わせていた。杜真もまた、鳩尾《みぞおち》に痼《しこ》りを抱える気分で駆けつけた。禁門脇の兵舎に控えていた兵卒も飛び出してきて、騎獣とその騎手の周囲に槍《やり》で壁を築いた。その段になって、ようやく杜真は騎獣と騎手を観察する余裕を得て、目を見張ったのだった。  巨《おお》きな犬に似た騎獣だった。銀灰色に近い白の身体に黒い頭、だが、身体を覆った毛並みは煤色《すすいろ》に汚れて毳立《けばだ》ち、しかも方々に赤黒い斑《まだら》を作っていた。頭部の黒い毛も、あちこちが毟《むし》られたように剥《は》げている。短めの翼を覆ったのは汚れ果てた白い羽毛、黒い風切羽も破れ、欠けてしまっている。騎獣は横倒しになったまま、その翼で力なく地を叩いていたが、それは羽搏《はばた》くと呼ぶには、あまりに弱々しい動きだった。その脇には、翼に庇《かば》われるようにして倒れた人影。人のほうも哀れな有様では乗騎と大差なかった。傷つき、汚れ、力尽きている。  杜真は困惑して、凱之の姿を探した。先頭に立った凱之もまた、槍を突きつけたまま驚いたような眼差しを騎獣と人に向けていた。戸惑いを含んだ騒《ざわ》めきが流れる。凱之は周囲を押しとどめるように片手を挙げてみせると、槍を下ろし、人影の脇に片膝をついた。 「大丈夫か」  凱之の声に、倒れた人影が顔を上げた。それでようやく、杜真はそれが女だと分かった。長身の、しっかりした体つきで、しかも皮甲《よろい》を着けている。いや、皮甲の残骸と呼んだほうが良いのかもしれない。汚れているばかりでなく、あちこちが裂け、欠けている──乗騎の翼と同様に。 「俺の声が聞こえるか? これはどうしたことなんだ?」  女は呻《うめ》きながら身を起こそうとした。その動きで、杜真は女が片腕に深手《ふかで》を負っていることを悟《さと》った。凱之が躊躇《ためら》いがちに槍を上げる。 「動くな──悪いが、動かないでくれ。ここは禁門だ。素性の明らかでない人間を寄せつけるわけにはいかないんだ」  女は目を眇《すが》めるようにして凱之《がいし》を見上げ、小さく頷いた。凱之は、女が腰に帯びた剣を空いた手で抜き取る。それを背後の杜真《としん》に寄越して、ようやく構えた槍《やり》を再び下げた。女がまた呻きながら身を起こそうとしたが、今度はそれを止めなかった。 「……お騒がせして申し訳ない」  女は肩で息をしながら呟いて、辛《かろ》うじて跪《ひざまず》く。 「私は戴《たい》国に将軍を拝命している、劉《りゅう》と申す」 「……戴国?」  目を丸くして呟き返した凱之を縋《すが》るように見てから、女はその場に平伏した。 「畏《おそ》れ多くも不遜なるは重々の承知なれど、慶東《けいとう》国国主景王に奏上申しあげたい!」       2  すぐさま禁門の脇にある閨門《くぐりど》から|※[#「門<昏」、unicode95BD]人《こんじん》が呼ばれた。※[#「門<昏」、unicode95BD]人は宮中の諸事を掌握する天官の一、門の傍に控えて通行する者を記録し、身元を検《あらた》め、取次を行う。両司馬《りょうしば》と共に駆け出してきた※[#「門<昏」、unicode95BD]人はしかし、女と乗騎に目を留めるなり、叩き出せ、と上擦《うわず》った声で叫んだ。 「しかし、こんな怪我人《けがにん》を──」  両司馬が取りなそうとするのを遮《さえぎ》り、※[#「門<昏」、unicode95BD]人は居丈高《いたけだか》な声を張り上げる。 「戴国将軍だと言うが、これが将軍の形《なり》に見えるか。第一、他国の将軍が訪ねてくる理由があるまい」 「ですが」  黙れ、と※[#「門<昏」、unicode95BD]人は一喝した。杜真ら兵卒は禁軍から※[#「門<昏」、unicode95BD]人に貸与されている格好になる。所属こそは夏官《かかん》の範疇にはいるが、この場の指揮権は※[#「門<昏」、unicode95BD]人にあった。 「そんなことより、禁門を汚させるな」  ※[#「門<昏」、unicode95BD]人は跪いた女に向き直り、顔を顰《しか》めて言い放つ。 「お前も戴国将軍だというなら、衣服を改め、身分を明らかにしてから礼節に従って国府を訪ねてくるがいい」  杜真はその瞬間、女が肩を震わせるのを見た。弾《はじ》かれたように上げた顔には、その無惨な有様にもかかわらず威厳のようなものが顕《あらわ》れていた。 「無礼は重々承知している。礼節を尽くす余裕があれば、勿論そうしていた」  女は感情を押し殺したように言ったが、※[#「門<昏」、unicode95BD]人は冷たい一瞥《いちべつ》を投げただけで、返答をしなかった。なおも取りなそうとする両司馬を遮り、背を向ける。その刹那、女が腕を伸ばして杜真の手から槍を|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取った。杜真が声を上げる間もあらばこそ、女は周囲の兵卒を突き倒し、禁門に向かって疾走し始めたのだった。  ※[#「門<昏」、unicode95BD]人は勿論、杜真も凱之も他の兵卒たちも驚きのあまり気を呑《の》まれ、行動を起こすのが遅れた。我に返った兵卒が血相《けっそう》を変えて女の後を追ったが、槍《やり》の穂先《ほさき》が女の背に達する前に黒い翼が降り立って割って入った。騎獣の背後に庇《かば》われて、女は閨門《くぐりど》の内側に転がり込んでしまった。  追え、と声が交錯した。杜真《としん》は先陣を切って走り、閨門の中に滑り込んでいった騎獣の後を追った。真っ先に脳裏を占めたのは、自分が犯した失態だった。片手に凱之《がいし》から預かった剣を持っていたとはいえ、迂闊《うかつ》にも女に槍を奪われてしまった。その責任を問われるだろうか、懲罰があるだろうか。  容易《たやす》く──と、杜真は自責の念に駆られて思う。女の計略に引っかかって。  勿論、女は深手を負ったふりをしていたのだし、騎獣にも息も絶え絶えに振る舞うよう、仕込んでいたに違いない。戴国の将軍などと言うのも真っ赤な嘘。その虚言を真に受けたばかりではなく、下手な芝居を鵜呑《うの》みにしてみすみす隙を作った。 (──下手な芝居?)  禁門の内側には一旅《ぶたい》が布陣できるほど広大な広間がある。女と騎獣はその奥にある階段へと向かって突進していた。騒ぎを聞きつけたのか、広間に隣り合う宿舎から、待機していた兵卒や官吏が飛び出してきた。  ──下手どころではない、と女の後を追いながら、杜真は思う。芝居には見えなかった。女も騎獣も、本当に瀕死の状態に見えた。血糊は赤土でも擦《なす》りつければそれらしく見えようが、傷ばかりはそうもいくまい。特に女の右腕は、真実|深手《ふかで》を負っているように思えた。  現に──と、杜真は蹌踉《よろ》めきながら階段に足を乗せた女を凝視する。今も女の右腕は動いていない。杜真の目の前で女が転んだ。やはり彼女の右腕は動かなかった。駆け寄った騎獣が助け起こそうとするように首を差し出したが、それに縋《すが》りついたのも、槍を握った左腕だった。  杜真は思わず、周囲に凱之の顔を探した。すぐ背後から駆けつけてきた凱之は杜真に頷く。 「いいから追え。捕らえるんだ。──殺すなよ」  しかし、と杜真は凱之に目で訴える。広間の入り口のほうから、殺せ、と|※[#「門<昏」、unicode95BD]人《こんじん》の甲高い声が響いていた。 「殺すな。賊だとしても問い質《ただ》さねばならないことがある」  杜真は首肯《しゅこう》し、改めて女を追う。騎獣の背にしがみついた女は、一息に最上部へと達しようとしていた。前方を遮《さえぎ》るのは巨大な門扉、あの内側はすでに雲海の上、王宮の深部になる。その外にも一両の兵卒が待機しているが、果たしてこの騒ぎに気づいているかどうか。  ──いや、下手に気づいて様子を窺《うかが》おうと門を開ければ、みすみす女を宮中に入れことになりかねない。  だが、杜真が危惧したその瞬間、閨門が動いた。騎獣は女を乗せたままそれに体当たりして門の内側に転がり出ていった。  周囲であがった狼狽する声、上方から聞こえてくる驚愕したような声と叱咤する叫び。それらを聞きながら階段を駆け上がった杜真が閨門《くぐりど》に辿《たど》り着いたちょうどそのとき、悲鳴のような獣の鳴き声が聞こえた。杜真《としん》は胃の腑に拳を叩き込まれたような気がした。禁門の内側に控えた者たちに、女が討ち取られてしまったのだろうか。  鉛を呑《の》み込んだような気分で杜真は閨門を転がり出る。外は王宮内部の路寝《ろしん》、広々とした露台の前方には、高い隔壁を隔て、王の居所である正寝《せいしん》の建物が聳《そび》えている。杜真ら兵卒は勿論、重臣である高官たちでさえ無断で立ち入ってはならない禁域。そこに続く石畳の上に、騎獣は横倒しになっている。騎獣を取り押さえるための鉤策《かぎ》が、いくつもその身体に掛かっていた。 「いかん! 殺すな!!」  凱之《がいし》の声がした。騎獣を包囲していた兵卒が、驚いたように振り返った。杜真が包囲網の傍に駆け寄ったとき、いましも女の首に槍の穂先が突きつけられたところだった。槍を向けた兵士が咄嗟《とっさ》に得物を引く。同時に女が藻掻《もが》いた。包囲網から怒声があがる。禁門のほうからは※[#「門<昏」、unicode95BD]人の癇性《かんしょう》の声がしていた。殺せ、と金切り声で叫んでいる。殺せという声と、殺すなという声、なおも逃げようとする女と騎獣、取り押さえようと狼狽《ろうばい》する兵卒──混乱も極まったところで朗々とした声がした。 「何の騒ぎだ」  包囲網に近づいてくる姿を見て、杜真は安堵の息をついた。片手に大刀《だいとう》を携えた大男は、夏官|大僕《だいぼく》だった。王や貴人の身辺護衛にあたる射人《しゃじん》の所属、中でも大僕は平時に王の側近くに控え、その警護を行う。位で言えば下大夫《げだいぶ》にすぎないが、この大僕は王の信任が特に篤《あつ》かった。私的な場所では、常時王の側近くに控え、小臣《しょうしん》の指揮を行う。今も、大僕の周囲には小臣が三人、従っていた。  侵入者だ、と※[#「門<昏」、unicode95BD]人が叫んだ。対して凱之が、来訪者だ、と声を上げた。大僕は瞬きながらその場を見渡した。 「賊か客か、どっちなんだ?」  客ではない、と金切り声を上げたのは、やはり※[#「門<昏」、unicode95BD]人だった。 「客を騙《かた》って切り込んできたのだ!」  ※[#「門<昏」、unicode95BD]人は事態の経緯をまくし立てる。その最中で大僕は言を遮るように手を振った。 「本人に訊いたほうが早そうだ」  言って大僕は、まっすぐ女に近づいた。困惑したように道を開ける兵卒の間を縫って、杜真は女の傍に忍び寄り、女の手を離れた槍を取り戻した。その際に、杜真は見て取る。  ──嘘や芝居なんかじゃない。  汚れ破れた衣服を奇妙な形に固めているのは、間違いなく血糊《ちのり》だろう。相当に前のものらしく、鉄の色に変じている。そこに辛《かろ》うじて纏《まと》わりついた皮甲《よろい》の残骸、動かない右の上腕には固く紐《ひも》が結ばれ、裂けた袖の下に見えるその先の腕は、黒く縮んでいる。──壊死《えし》しているのだ。  人ではないだろう。仙《せん》でなければ、命があるはずがない。 「……あの人なら大丈夫だ」  杜真《としん》はそっと女に声を掛けた。石畳に身を伏せた女は蓬髪《ほうはつ》の下から杜真を振り仰いだ。 「主上の信の篤《あつ》い人だから」  女が感謝するように頷いた。呻《うめ》きながら身を起こし、大僕に向き直る。※[#「門<昏」、unicode95BD]人は未だに何かを叫んでいたが、大僕はそれに構わず石畳に膝《ひざ》をついた。 「あんた──この形《なり》はいったい」 「押し入るような真似をして申し訳なく存ずる。狼藉《ろうぜき》は幾重にもお詫《わ》び申し上げるが、決して害意あってのことではないことをご理解いただきたい」  女の言に、大僕は頷いた。女はほっとしたように気配を緩《ゆる》め、深く頭を下げた。 「私は戴《たい》国|瑞《ずい》州師の将軍で劉李斎《りゅうりさい》と申す──」  驚いたように口を開けた大僕を、李斎は真摯《しんし》な目で見上げた。 「景王に是非ともお聞きいただきたい儀があって参上した。不遜は重々承知しているが、何とか燕見《えんけん》を賜《たまわ》りたい」  言って李斎は平伏する。 「伏してお願い申し上げる。……なにとぞ、景王に」  大僕は李斎を見つめ、そしてはっきりと頷《うなず》いた。杜真のほうを見る。 「とにかく、肩を貸してやれ。どこかそのへんで休ませて──」  言いかけた声を、当の李斎が遮《さえぎ》った。 「休んでいる暇はない!」 「別に捕《と》らえようってわけじゃない。あんたには休息と手当が必要だ」  言って大僕が笑う。 「俺は大僕で虎嘯《こしょう》という。──あんたの頼みは確かに俺が引き受けたから、とにかく休め。今、瘍医《いしゃ》を呼んでくる」  ならん、と※[#「門<昏」、unicode95BD]人が声を張り上げた。 「いったい何を考えているのか! この者は許しもなく禁門に近づき、あろうことか兵卒を蹴散《けちら》らしてここまで侵入したのだ。宮城を汚し、主上の威信に傷をつけた。さっさと引っ立てて処分せよ!」  虎嘯は呆れたように※[#「門<昏」、unicode95BD]人を見た。 「そんな乱暴な。仮にも他国の将軍さんに、そんな無礼ができるかい」 「将軍などと! これのどこが将軍に見える。騙《かた》っただけに決まっている!」 「しかしだな」 「大僕は何か勘違いしておられないか。来訪者の素性を検《あらた》め処遇を決するのは|※[#「門<昏」、unicode95BD]人《こんじん》の職分である。主上に目を掛けられているからと言って、他官の職務にまで口を差《さ》し挟《はさ》まないでもらいたい!」 「素性がどうこうという問題か!」  虎嘯《こしょう》に一喝され、※[#「門<昏」、unicode95BD]人が怯《ひる》んだ。 「これを見捨てて、主上がそんなことを許すと思うのか!?」  吐き捨てるように言って、虎嘯は杜真《としん》を促した。 「急げ。──その騎獣もな。手当てして休ませてやるよう、手配しろ」  杜真は頷き、李斎の肩に手を掛けた。引き起こそうとした杜真の手を、李斎《りさい》はしかし、やんわりと押し戻した。 「駄目です、とにかく休んで」  李斎は頭《かぶり》を振って、足早に立ち去る虎嘯を追おうとする。 「これ以上の無茶をしちゃ駄目だ。大僕が来なかったら、あんた──」  分かっている、と李斎は言って杜真を見た。 「御厚情には感謝の言葉もないが、景王が王宮を汚されることをさほどにお怒りにならないのであれば、大僕と一緒に連れて行ってはもらえないだろうか」 「けど──」 「頼む。……ここで休んだら、もう景王にお会いすることはできないと思う……」  縋《すが》るように言われて、杜真は息を呑んだ。李斎の顔には血の気がない。唇も青紫に変わっていた。喘《あえ》ぐように息をついているが、その合間に弱く笛の音のように喘鳴《ぜんめい》が混じる。杜真が抱えた肩も二の腕も冷たかった。  ──確かにこの女には、いくらも時間が残されていない。 「──大僕!」  杜真は声を上げた。李斎の腕の下に身体を入れて支える。 「一緒に連れて行ってあげてください」 「でないとこの人は、目を閉じることもできないんです」  言外に時間のないことを告げたのが伝わったのか、虎嘯は頷き、小臣の一人に大刀を渡すと腕を伸ばした。縋《すが》るような貌をした女を自らの手に受け取ったのだった。       3  王の私室にあたる正寝《せいしん》は、その正殿──長楽《ちょうらく》殿を中心とする幾多の建物群によって構成されている。国によって王宮によって、それぞれに個性はあるものの、その基本的な構造は変わらなかった。ゆえに李斎《りさい》には、自分が通されたのが正寝のどう言った場所なのか大凡《おおよそ》、分かった。なぜなら李斎は戴《たい》国で、臣下には本来入れないはずの正寝に入る特免を賜《たまわ》っていたから。  李斎は虎嘯《こしょう》と名乗った大僕に背負われ、禁門からまっすぐに正寝へと入った。端々の建物を過ぎ、大きな廊屋《ろうか》を通り抜けて、正面に華やかな楼閣を臨《のぞ》む建物へと連れて行かれた。李斎にはそこが、王の自室である長楽殿から園林《にわ》を隔てた花殿《かでん》の、その控えの建物だと見当がついた。建物が面する園林は広大で、しかも途中に正殿と花殿を区切るための擁壁《へい》が築かれているものだった。正殿から花殿へとやってくるためには、その園林を迂回《うかい》しなければならない。  それに一体、どれだけの時間が掛かるか──李斎は絶望的な気分で思った。  どれほど厚遇されても、李斎が正殿にまで立ち入ることは許されないと理解していた。ここまで招き入れられただけでも、破格の処遇なのだと分かっている。だが、李斎の足は力を失いつつあった。虎嘯に支えられ、辛《かろ》うじて立ってはいるものの、今にもその場に頽《くずお》れそうだった。それを察したのか、 「座っちゃどうだ?」  虎嘯がそう声を掛けてきたが、李斎は首を横に振った。このうえ、そこまでの無礼はできない。自分の身なりが、およそ一国の王に対面を許されるようなものでないことは、重々承知している。李斎にとって已むを得ないことだったとはいえ、禁門を力ずくで突破してきたのも、本来なら刑死に値することだ。これ以上は増長できない。──してはならない、と李斎は了解していた。最低限の威儀だけは整えておかなければ、こうしてやってきたことの、一切が意味を失う。  懸命に床を踏みしめていると、虎嘯が先へとやった小臣が戻ってきた。彼は虎嘯に何やら耳打ちしたが──そして、当の虎嘯は李斎の身体を支えて至近の距離にいたのだが──李斎にはその言葉を聞き取ることができなかった。先ほどから低く耳鳴りがしている。耳に入る音の全てが荒れてささくれ、ひどく聞き取り難《にく》かった。  景王は今、どこにいるのだろう。正殿を出たのか、あるいは李斎と会うために衣服を着替えているのだろうか。ここに辿《たど》り着くまでに、一体どれだけの時間がかかる。  灼《や》けつくような気分で思っていると、虎嘯らが戸口のほうに目をやるのが見えた。開け放したままの扉の向こう、庭院《なかにわ》に面した回廊に、小臣や女官らの集団が見えた。室内で待ちかまえていた小臣らが、戸口の道を開け、拱手《えしゃく》するのを見て取って、李斎は僅かに期待したが、やってきた集団の中に貴人の姿は見あたらず、貴人を先導してきた様子もなかった。集団の先頭に立ち、足早に室内に入ってきたのは、官吏が平素に着ける朝服《ちょうふく》を着込んだ若い娘、彼女の背後には、およそ先触《さきぶ》れの姿さえ見えない。虎嘯の肩に縋《すが》って爪先立《つまさきだ》ち、李斎はさらにその集団の後ろを探した。  ……もう、目が霞む。  左腕一本にある限りの力を託し、男の肩に爪を立てても、膝《ひざ》が崩れそうな気がした。景王がこの場に辿《たど》り着くまであと何歩か。もはや距離ではなく、その歩数が時を争う。  ……ここまで、来て。  その若い女官吏は、李斎《りさい》の身体に手を触れた。振り返ると、緋色《ひいろ》の髪が目を射るほどに鮮やかで、しかも驚愕したような翠《みどり》の目がさらに脳裏に際立《きわだ》った。 「虎嘯《こしょう》、なぜ休ませない」  彼女は言って、李斎の僅かに残った右腕の下に肩を入れた。 「私が景王|陽子《ようし》という」  李斎は明快な声に驚いて傍らの娘を見た。 「どんな事情があってのことか、必ず聞く。だから、今はとにかく床《とこ》へ」  腕から力が抜けた。李斎は崩れ落ち、そのままそこに辛うじて叩頭した。 「景王にお願いしたい儀があって参上いたしました」 「──いけない、今は」  傍らに膝をついた景王を、李斎は見上げた。 「どうか──どうか、お願いです。戴国をお救いください……!」  驚いたように碧《あお》い眼差《まなざ》しが李斎の顔に注がれた。 「慶国国主の主上に、かようなお願いをすることが条理《じょうり》に外《はず》れた振る舞いであることは、もとより承知しております。ですが、もはや我々には──」  李斎は言葉を詰《つ》まらせた。  大陸北東、虚海の直中《ただなか》に孤立した戴国。冬には全てが凍りつく極寒の地。そこに残された戴国の民。六年前──新王登極から年が明けて僅か、戴国は王を失った。  王の庇護《ひご》を失い、天の加護を失い、災厄と妖魔が蹂躙《じゅうりん》する牢獄になった。 「戴の民には、自らを救う術《すべ》がございません。沿岸には妖魔が溢《あふ》れ、戴を逃れ出ることもままならず、戴の中ではなおのこと生き延びることができません」  憤《いきどおり》りと苦しみ。李斎の胸の内で長い間、蓋《ふた》されてきたそれが一気に解き放たれて呼気を詰まらせる。気道《きどう》に硬く冷えた固まりが凝《こご》っている。 「泰王におかれましては、兇賊《きょうぞく》の謀反《むほん》あって、宮城を追われておしまいになりました。台輔共々、御在所も知れず、どうしておられるのかも──なれど」  李斎はその場に身体を投げ出す。床に額をつけ、叫んだ。 「未だ白雉《はくち》が、落ちては、おりません!」  王は死んでいない。戴の命運は尽きていない。 「どうか──」  吐く息が尽きた。李斎《りさい》は息を吸い込もうとしたが、喉《のど》は徒《いたずら》に鳴って、それを拒《こば》んだ。視野に禍々《まがまが》しく暗い斑紋《はんもん》が生じ、それが膨《ふく》れ上がって完全に闇に閉ざされた。もはや聞こえるのは、鋭利な耳鳴りだけだった。  助力を、と言ったつもりだったが、果たしてそれが本当に声音になったかどうか。       4  ──耳鳴りがしている。  いや、あれは風の音だと、李斎は思う。戴《たい》の冬、戸外に吹き荒れる凍《こご》えた風音《かざおと》だ。現にひどく寒かった。  強い風が巻いている。身を切るほど鋭利に冷えた風。木立も山も川も、唸《うなり》りを上げる風に曝《さら》され、白く凍《い》てついている。川の表面は凍りに覆われ、雪が厚く降り積もる。大地もまた凍結した雪の下、街路の至る所には雪が吹き溜《だ》まり、強い風が表面を浚《さら》って白く冷たい雪片を巻き上げていく。  戴は大陸から切り離され、大海の中に孤立する。冬には北の海から刺さるような風が吹きつけてきた。里櫨《まちまち》は雪の中に蹲《うずくま》り、家々は扉を閉ざし、窓を閉ざす。──だが、そうやって何重にも外界から切り離された小さな空間の中には、温《あたた》かな灯が点《とも》っている。人々はそこで肩を寄せ合い、ささやかな──外界に比べればあまりにもささやかな温《ぬく》もりを分け合う。  炉に点《とも》された炎、取り囲んだ人々の体温、火炉《ひばち》に載《の》せられた大鍋からは湯気が立ち昇り、それは雪道に凍えた見ず知らずの来訪者にも振る舞われた。戴の冬は厳しいが、同時に温もりにも満ちている。時にそれは色鮮やかな花の形を取ることもあるのだと、李斎は飛びこんできた子供の姿を見て思った。 「──李斎、これを」  そう言って差し出されたのは、赤や黄の色暖かな色をした花々だった。弱い陽脚《ひざし》が辛うじて射しこむ冷えた室内に、明るい温もりが点ったようだった。外では滲《し》み入るような風の音がしていた。戴は冬に入ったばかり、なのにもう山野をうっすらと雪が覆い始めていた。  この季節に、これだけ鮮やかな花の咲こうはずもない。李斎は驚いて、それを差し出した客人を見た。自分の顔よりも大きな花の束を抱えた子供の笑みは、花の色よりもいっそう明るく、温かかった。 「お祝いなんです。李斎が州師の将軍になったって聞いて、それで、嬉しくて」  そう言って輝くように笑ったのは、泰麒《たいき》だった。年は当時、まだ十。 「私に下さるのですか?」 「勿論です。そのために驍宗《ぎょうそう》様──主上にお願いして、いただいてきたんです」  言ってからその幼い宰輔は、含羞《はにか》んだように俯《うつむ》く。 「あのね、僕の生まれた蓬莱《ほうらい》では、お祝いにお花をあげるんです。こちらでは、そういうことは、あまりしないんだって言われたんだけど、僕、どうしても李斎《りさい》には花束をあげたかったんです。引っ越したばかりのお家《うち》だから、お花があると余計に立派に見えるんじゃないかと思って」  まあ、と李斎は笑った。賜《たまわ》ったばかりの官邸、その客庁《きゃくま》だった。新王|驍宗《ぎょうそう》の登極から一月余り、李斎は瑞州師《ずいしゅうし》中軍の将軍に任ぜられ、住居を白圭宮《はっけいきゅう》にある官邸に移したばかりだった。宰輔《さいほ》と言えば、王に次ぐ国の柱、同時に李斎の所属する瑞州師を束《たば》ねる瑞州州侯でもある。その宰輔が直々に官邸を訪ね、こうして花を贈ってくれる、それが勿体《もったい》なくも嬉《うれ》しく、同時に誇らしかった。  下官に花を生《い》けさせ、それを客庁の供案《かざりだな》に置くと、それだけで室内が数段明るく、温かくなったように思われた。入ったばかりで馴染《なじ》みが薄く、どこか余所余所《よそよそ》しい官邸に、自分の居場所ができたように思えた。 「まことにありがとうございます。台輔にこんなに目を掛けていただけるなんて、李斎は本当に幸せ者です」 「僕こそ、とっても嬉しいんです。僕はまだこんなだし、政《まつりごと》のことも軍のことも、ちっとも分からないし、だから李斎が州師の将軍になってくれて、すごく心強いです」  言ってから、大きな椅子にちょこんと座った宰輔は頭を下げる。 「ええと、これから宜《よろ》しくお願いします」 「そんな──宰輔が頭をお下げになるなんて」  宰輔に位で先んずるものは、ただ王師しかいない。勿論、州師将軍にすぎない李斎が頭を下げられるなど、普通ではありえないことだった。 「これは叩頭《こうとう》じゃなくて、会釈《えしゃく》だから大丈夫なんです。本当はいけないんだけど、僕、癖でついやってしまうんです。そしたら驍宗様が、仕方ないっていってくださったんで、だからええと──李斎も仕方ないって思ってくださいね」  そうします、と李斎は笑いを噛み殺した。この小さな宰輔は、異国で生まれた。伝説で、東の果てにあるという蓬莱《ほうらい》──そこで生まれ、育ってきたのだ。だから一風変わったところがあったけれども、総じてそれは李斎にとって心地良いものだった。好ましく柔らかく、そして温かい。 「本当はね、もっといっぱいあるんですよ」  泰麒は上気した笑顔を李斎に向けた。 「お花だけじゃあ、あんまりだって、正頼《せいらい》がお祝いをたくさん用意してくれたんです。でも僕にはとても持ちきれないから、それはちゃんと運んでくれるんですって」  正頼は、もと驍宗軍の軍吏で、革命に当たって泰麒の傅相《ふしょう》に任じられ、同時に瑞州|令尹《れいいん》を兼ねる。人当たりの良い好人物だが、驍宗配下の文官の中でも、逸材中の逸材として名高かった。 「正頼と二人で、すごく頭を捻《ひね》ったんです。何がいいかって。驍宗《ぎょうそう》様が、宝庫の中のものを好きに持っていっていいって言ってくださったから、かえって大変だったんです。なにしろ目が回るほどいろんなものがあるんですから」 「そんな──勿体《もったい》ない」 「驍宗様が構わないって。驍宗様の分も、お祝いを選ぶように言われたんです。驍宗様と僕と、正頼と。三人分だからどっさりあります。驚かないでくださいね」  李斎《りさい》は喜色をいっぱいに浮かべた小さな麒麟に、感謝の眼差しを向けた。 「本当に、李斎は果報者《かほうもの》です。心からお礼を申し上げます」  李斎は真実、幸福だった。王と宰輔からここまで目を掛けられ、李斎の将来は洋々として拓《ひら》けていた。朝廷は急速に整い、民は新王を歓迎している。民の未来もまた、明るいものに思われた。国も民も幸せになる──李斎はその時、心底そう思っていた。  まさかその僅か数ヶ月の後に、全てが崩れ去ろうとは、夢にも思っていなかった。  貴賓を迎え、官邸の一室には温かな光が点っていた。だが──戸外には寒々しい風が吹いていたのだ。李斎の周囲は光に満ち、何の翳りもなかったが、それでも戸外で吹き荒れる風のあることを失念すべきではなかった。  それは全てを凍らせる。国も、山野も、街も、人も。  確かにあの日も、外では風音がしていた。しんしんとした冷気を乗せ、何もかもを凍えさせる機会を窺《うかが》っていたのだ。禍々《まがまが》しい風音が耳朶《じだ》の奥に滲み入り、不穏《ふおん》な耳鳴《みみな》りを奏《かな》でていた。輝かしい気分に包まれ、李斎はそうと意識していなかったが、邸内のそこここに寒気が貼《は》りつき、足先は凍え、指先は冷え切っていた。寒く、四肢は重く、感覚は遠く、刺すような冷気だけが生々しく──今のように。  ……とても、寒い。  凍えて死に絶えてしまう、自分も、国も──民も。 (……寒い) 「……お気がつかれましたか?」  おずおずとした声が聞こえた。──聞こえたように李斎は思った。  凍りついたように重い瞼《まぶた》、眉間《みけん》に力を込めて、ようやく目を薄く開いた。睫《まつげ》に遮《さえぎ》られて暗い視野に、心配そうな娘の顔が見えた。 「良かった……!」  娘は言って、顔に冷たいものを当てた。芯から寒く、悪寒《おかん》が走った。──ひやりとしたその刺激は、自分の顔に当てられている。そう、自分は……。 「──景王」  我に返った。李斎《りさい》は咄嗟《とっさ》に呟《つぶや》いたが、それはおよそ自分の耳にも音としては聞こえなかった。目を見開き、娘の顔を探る。赤い色が見えない。 「ああ、どうぞ、休んでください。駄目です、まだ起きては駄目」  言われて、李斎は自分が起きあがろうとしていたことにやっと気づいた。  ──では、まだ命があったのだ。  冷たい掌《てのひら》が、李斎の手を包んだ。その冷ややかさは李斎をひどく安堵《あんど》させた。こんなに寒く、凍えているのに、娘の氷のような手が快い。 「ここは、慶《けい》国、堯天《ぎょうてん》の金波宮《きんぱきゅう》です」  娘は大きな目を李斎に据《す》え、ゆっくりと噛んで含めるように言う。 「貴女《あなた》は、辿《たど》り着いたの。いつでも主上がお会いになります。だから、安心して目を閉じてください」 「……私……は」 「もう、大丈夫ですから、眠ってください、ね?」  言って娘は李斎の手を取って、喉元に触れさせた。李斎の手を包むようにして、喉《のど》の下の窪《くぼ》みにある丸いものを握《にぎ》らせる。それは娘の手よりいっそう冷ややかで、さらに李斎を安堵させた。身体が燃えるようで、それで悪寒《おかん》がして苦しいのだと、やっと分かった。 「まだ眠らないといけないわ。……大丈夫、陽子は貴女《あなた》を見捨てたりしない」  陽子、と口の中で繰り返したが、下は膠《にかわ》で口腔に貼り合わされたようだった。 「今はいないけど、何度も様子を見にきたの。貴女のことは、とても心配しているから、今は眠っても大丈夫。もう、大丈夫なの」  李斎は頷《うなず》く代わりに眉根の力を抜いた。自然に瞼《まぶた》が落ちてきた。風音が聞こえる。寒々しいこの音は、戸外で吹き荒れる寒風なのだろうか、それとも単なる耳鳴りなのだろうか。  眠っては駄目だ、と李斎は心の中で呟く。 (……景王に……会わなければ……)  ──李斎、それだけは駄目。  風音の合間に聞こえる声は、悲痛な声音をしている。思い浮かぶ彼女の貌《かお》は今にも泣き出しそうな表情をしていた。  ──なんて浅ましい、恐ろしいことを。  そうだな、と李斎は虚空《こくう》に向かって頷いた。 (非道だと言うことは、分かっているんだ……花影《かえい》)       5 「戴《たい》に新王が登極したのは、今から七年前の秋のことです。──新王の名は乍驍宗《さくぎょうそう》」  淡々とした声が室内に響いた。  積翠台《せきすいだい》と呼ばれる建物だった。内殿の最奥に設けられた書房《しょさい》の一郭、こぢんまりとした室内には、下界ほどではないものの、やはり夏に独特のとろりとした暑気《しょき》が澱《よど》んでいた。裏に面した窓の向こうには苔《こけ》と羊歯《しだ》に覆われた翠《みどり》の岩肌が迫り、そこに白く細い滝が落ちて、翠の木漏《こもれ》れ日と共に、露台の下に小さく広がる澄んだ池へと注ぎ込んでいる。開け放した窓からは夏鳥の声と重なり、その水音と涼気が流れ込んでいた。 「先王の時代にあっては禁軍の左軍将軍を務め、王の信任も篤《あつ》く、軍兵からも領地の民からも慕《した》われ、その名声は他国にも鳴り響くほどだったとか。このため、次の王は乍《さく》将軍ではないか、という風評が、先王が斃《たお》れた直後からあったようです」 「傑物《けつぶつ》だったんだな……」  陽子は感嘆と──半ば羨望《せんぼう》を込めて呟《つぶや》いた。そのようですね、とさらりと答えたのは、六官の長、冢宰《ちょうさい》の浩瀚《こうかん》だった。 「先王亡き後もよく朝廷を支え、周囲の期待も高かった。その期待を受けて、黄旗《こうき》が揚《あ》がるや否や黄海《こうかい》に入って東岳|蓬山《ほうざん》に向かい、昇山《しょうざん》して泰麒《たいき》の選定を受け、登極《とうきょく》しています。いわゆる、飄風《ひょうふう》の王ですね。 「飄風の王?」 「最初の昇山者の中から出た王のことです」  王は麒麟《きりん》が選ぶ──麒麟を通じて天が選び、天命を下すのだと言われている。麒麟は世界中央、黄海にある蓬山で生まれ、育つ。王を選定できる年齢に達すれば、国中の祠廟《しびょう》にそれを示す旗が掲げられ、それを見て王たらんとする者は黄海に入り、蓬山へと向かう。そこで麒麟に対面して天意を諮《はか》ることを昇山と言った。 「疾風《しっぷう》のように登極した王、ということなのですが、同時に飄風は朝《ちょう》を終えず、とも申しまして、勢いの強いものはすぐに衰えるもの。飄風の王というものは、傑物かその逆かのどちらかしかない、と言われます」 「ふうん……」 「もっとも泰王の場合は、それまでに十年以上の歳月がかかっておりますから、飄風の王とは言えないのですが。何でも、泰|台輔《たいほ》は主上の御同胞《ごどうほう》だとか」  ああ、と陽子は頷いた。 「胎果《たいか》なんだ、私と同じく。そう延《えん》王に聞いたことがある」  陽子は東の海の彼方《かなた》、蓬莱《ほうらい》で生まれた。ただし、蓬莱とは東の海上、遙か遠くにあるとされる伝説にのみ言う楽園だから、陽子の出自《しゅつじ》が本当にそこにあるわけではない。こちらとあちら──そのように呼ぶしかないような気が、陽子にはしている。どらちにとっても、互いは夢幻の国、実在はしない世界だ。だが、稀にその両者が交わることがある。  陽子は、その稀《まれ》な接触の中であちらに流れ、こちらに戻ってきた。──そういうことになっている。納得はしているが、実感はなかった。なぜなら、陽子があちらに流されたとき、陽子はまだ卵の中にいたからだ。こちらの世界においては、人は卵果《らんか》と呼ばれる木の実から生まれる。あちらとこちらが交わった折《おり》、陽子の入った卵果があちらへと流されたのだ、ということになっていた。陽子の生命は存在したが、まだ誕生はしていなかった。身出生の生命は、誕生すべく女の胎内に辿《たど》り着いた。そしてそこで出産された。ゆえにこれを胎果《たいか》と呼ぶのだが、もちろん陽子には卵果の中にあった記憶などありはしない。ごく普通に父母の子として生まれ、育ったとしか思えなかった。──それが実は違っていた。本当はこちらに生まれるはずだった、そして実はお前こそが王なのだ、と言われて連れ戻されても、御伽噺《おとぎばなし》の中に拉致《らち》されたとしか思えなかった。  実感などまるでない。──けれども、そもそも「誕生」とは、そういうものなのかもしれなかった。今ここに自分がいるのだから、そうなのだろう、と納得するしかない。そのように陽子も納得するしかなかった。あちらから戻り、景王《けいおう》として立って二年、今ではあちらのほうが夢幻のように思える。日本という奇妙な国で、生まれ育った──そんな夢を見ていたのだ、と。 「泰麒《たいき》は幾つなんだっけ……」  陽子が呟くと、これには背後にいた景麒《けいき》が答えた。陽子をこちらに連れ戻し、玉座に押し上げた慶《けい》の麒麟《きりん》。 「泰王が登極された当時、十歳でいらしたと思いますが」 「泰王即位が七年前……ということは、ちょうど私と同じくらいの歳なんだ……」  ひどく奇妙に感じがした。陽子の見ていた夢──それを共有する者がいる。あの幻の国、ひょっとしたら幻の都市のどこか。陽子が幼い子供だった頃に、同じく幼い子供として、泰麒がそこに存在していた、という不思議。夢の中で出会った子供が、陽子の現実の中に現れ、冢宰《ちょうさい》と宰輔《さいほ》の口を通して事実として語られているような。  世界には、少なくとも二人、他にも胎果がいることを陽子は知っている。慶の北にある大国、雁《えん》の王と宰輔がそれだった。五百年にも及ぶ大王朝、それを築いた延王と延麒《えんき》。二人は共に胎果だったが、彼らの語る故国は陽子にとって夢の中で見た夢に等しい。歴史の授業で、あるいは物語の中で幻想として知っていた古い「日本」。それは、同じ夢幻ではあっても、別の夢だ。陽子は延王、延麒の後《うし》ろ盾《だて》を得て登極し、そこまでの波乱の中、ずっと二人の世話になっていたが、そのときに同じ夢の中から現れたのだ、というこの奇妙な感覚を感じたことは一度もなかった。  ……あの夢の中の街角で、ひょっとしたらすれ違ったかもしれない彼。  その彼が戴《たい》国の麒麟で……と陽子は思う。泰王を選び、王朝を築き、そして李斎《りさい》──あの満身創痍《まんしんそうい》の女将軍は、彼らのために生命を賭して金波宮《きんぱきゅう》へとやってきた。 「どうかなさいましたか?」  景麒が眉を顰《ひそ》め、陽子はそれで我に返った。 「ああ……いや、何でもない。すごく変な感じだな、と思って」  陽子は苦笑する。浩瀚《こうかん》もまた、どうしたことか、という貌《かお》で陽子を見ていた。 「済《す》まない、浩瀚。──それで?」  泰麒《たいき》は、と浩瀚は陽子のほうを見ながら言って、そして書面に目を落とした。 「蝕《しょく》によって蓬莱《ほうらい》に流されておしまいになりました。胎果《たいか》としてお生まれになり、その後、蓬山にお戻りになったのですが、それが十年後のことです」 「十年後? 十年後で十歳?」 「ですが?」  浩瀚に問い返され、陽子は首を振った。──では、泰果《たいか》が流されたとき、流れ着いた胎の中には、すでに生命が存在していたのだ、と内心で驚いていた。泰麒の器はその時、もうすでに母親の胎内に存在していた。心音を刻み、動いていたのだ。そこへ泰果が流れ着き、宿った。では、それまで胎内にあったはずの生命はどこへ行ったのだろう?  泰麒に弾き飛ばされてしまったのだろうか。そうやって居場所を奪うことで、誕生したのだろうか──自分も。そう思うとひどく奇妙で後ろめたい気分がした。それとも、そこにあった生命と胎果とを別物のように考えること自体が、そもそも間違いなのだろうか。この問いばかりは、この世界の人々に言っても答えてはもらえまい。  なおも不思議そうに陽子を見ている浩瀚に、陽子は改めて首を振った。 「いいんだ。続けて」 「……泰麒がお戻りになると同時に戴《たい》では黄旗が揚げられ、昇山が開始されて、すぐさま泰王が登極なさいました。その当時の記録が慶にも残っています。鳳《ほう》が戴国|一声《いっせい》を鳴いて、新王が登極したことを伝えている。記録によれば、その後、台輔が非公式に慶賀《けいが》のため戴をお訪ねになったとか」  驚いて陽子が振り返ると、景麒は無言でこれを肯定《こうてい》した。 「じゃあ、戴と国交があったんだ……」  国交というわけでは、と景麒は呟く。 「蓬山に胎果があった頃、私もまだ蓬山におりましたのです。泰麒が流された蝕の時にも、蓬山におりました。後に、泰麒が蓬山に戻られてから私も蓬山に戻ることがあって、その時に泰麒とはお会いしました。……その御縁で」  へえ、と陽子は不思議な気分で呟いた。──夢の中の子供が、目の前の麒麟と会っている。 「それで彼女──李斎は慶を訪ねてきたんだろうか。泰麒と面識のある景麒を頼って?」  これには景麒も首を傾げた。 「それは──どうなのでしょう。私自身は、劉《りゅう》将軍にお会いしたことはありませんが」 「泰王とは?」 「お会いしました。確かに尋常の方ではないとお見受けしましたが」  浩瀚《こうかん》も軽く首を傾《かし》げる。 「台輔が個人的に二度お訪ねになった以外には、これと言った交流はなかったようです。事実、慶《けい》も以後はいささか波乱がございましたから、台輔は泰王の即位礼にもいらしていない。官の間で慶賀の使節を送るかどうかが審議された様子もございません。公式に使節を差し上げるほどの国交はなかった、ということでしょう」  肯定するように景麒《けいき》は頷いた。 「ともかくも、新王は即位なされた。──ところが、半年ほど経って戴から勅使がございました。泰王は亡くなられた、と」  陽子は瞬く。 「勅使なのか? ……鳳《ほう》は? 王が位を退けば、鳳は戴の末声《まっせい》を鳴くはずだろう?」 「左様です。王が即位すれば白雉《はくち》が一声《いっせい》を鳴き、王が位を退けば末声を鳴く。鳳はこれを伝えて鳴くはずなのですが、鳳はこのとき鳴いていないのです。現在に至るまで、鳳が戴国末声を鳴いたことはございません。つまり、どう考えても泰王が亡くなられ、あるいは位を退かれたとは思えないのです」  陽子は組んだ膝《ひざ》に頬杖《ほおづえ》をつく。 「似たような話を、以前、延王から聞いたな……。泰麒は死んだと伝えられる、けれども死んだとは思えない、と。泰麒が死ねば蓬山に次の麒麟が実るはずだが、その麒麟の入った果実──泰果《たいか》が実った様子がないとか」 「はい。勅使の書状によれば、亡くなったのは泰王だけ、泰台輔については触れられておりません。ですが、これを境に、泰台輔に対する風聞は、ぱったり聞こえなくなりました。同時に戴から荒民《なんみん》が流れてくるようになった。泰台輔は亡くなったという風説もございますが、鳳が台輔の登霞《とうか》を鳴かない以上、これは誤りだと考えるべきでしょう。後に、新王即位という噂が流れてきました。これに際しては、勅使は勿論、鳳の告知もございません」 「荒民は何と言っている」 「諸説あるようです。偽王《ぎおう》が立った、と言う者もいれば泰台輔が次王を選ばれた、と言う者もあります。単に泰王が亡くなられ、空位になったと申す者もいるのですが、最も多いのは、宮中で謀反《むほん》あって、泰王は弑《しい》され、泰台輔もまた兇賊の手に掛かった、と」  自国のことであっても、王宮内部のことはなかなか外部に伝わりにくい。全ては風聞で広がっていくしかなく、ために正確な情報が民に伝わることは滅多になかった。  陽子は息を吐いた。 「どう考えても、泰王と泰麒が死んだとは思えないな。李斎は、泰王は宮城を追われた、と言っていた。きっとそう言うことなんだろう。つまりは偽王が立ったという。偽王が謀反を起こし、泰王、泰麒は、共に宮城を追われた。 「だと思われます。もっとも、偽王とは正当な王がいない──空位《くうい》の場合に、天命を得たと偽って立つ者ですから、この場合、厳密には偽王とは言えないのですが」 「ああ、そうか。正当な王はいるわけだから」 「そういうことですね。ともかくも、劉《りゅう》将軍は瑞州師《ずいしゅうし》の将軍だったわけですし、瑞州は戴国の首都州です。劉将軍は王宮の中枢にいたことになりますから、戴の内情について最も正確な情報をお持ちであることは確かでしょう。集めた情報との食い違いもございませんから、将軍が虚偽を申し立てたとは考え難《にく》いようですし」  陽子はちらりと、浩瀚《こうかん》をねめつけた。 「それは、李斎《りさい》の言を疑っていた、ということか?」 「確認してみただけでございますが?」  さらりと返され、陽子は一つ溜め息をついた。 「まあ、いい。李斎は助けて欲しいと言っていたが、具体的には何をどうすればいいのか分からないな。単に偽王が立ったというだけでは……」 「左様でございますね。泰王がどうなさっておられるのか、泰麒はどうなさったのか、せめてそのくらいのことは分かりませんと」 「李斎に訊くのが一番早いんだが。……瘍医《いしゃ》は何と言っている?」  浩瀚は軽く眉を顰《ひそ》めた。 「それが、まだ何とも言えない、と」 「そうか……」 「台輔にお聞きしたところでは、泰王、泰台輔は、延王、延台輔と御縁がおありだとか。しかも雁《えん》には、戴からの荒民《なんみん》が最も多く流れ込んでいます。とりあえず劉将軍の件を報《しら》せて、何か分かることがあれば教えて欲しい旨の親書を、雁国の夏官、秋官に向けて送っておきましたから、近々、返答があるでしょう」  陽子が頷いたとき、側仕《そばづか》えの書記官である女史《じょし》が積翠台に入ってきた。李斎が目を開けた、と言う。慌《あわ》てて陽子は花殿へと向かったが、その時には李斎は再び目を瞑《つむ》ってしまっていた。同じく呼ばれ、駆けつけた瘍医は、とりあえず李斎の容態に希望が持てることを告げた。 「宝重《ほうちょう》の碧双珠《へきそうじゅ》もございますから、近々好転するやもしれません」 「そうか……」  陽子は頷き、病み衰えた女将軍の顔を見下ろす。 「こんな姿になってまで……」  国を救うために、満身創痍になりながらやってきた彼女。  ──何とかしてやりたい。  自分に何ができるかは、分からないけれども。  救ってやりたい。この将軍も、戴も──そして、泰麒も。       6  李斎《りさい》は眉間《みけん》に力を込めた。再び眠りに滑落していきそうな自分を鼓舞して、ようよう瞼《まぶた》を持ち上げると、男の横顔が間近《まぢか》にあった。 「なんか譫言《うわごと》を──」  男は耳を寄せていた動きを止めて李斎のほうを見、そして大きく笑む。 「ああ、目を開けた」  その顔には見覚えがあったが、どこで見た顔なのか、李斎は思い出せなかった。男の肩越し、娘が駆け寄ってきて顔を覗かせたが、やはりこれも見覚えがあるような気がするばかり。  誰だろう、こんな顔が白圭宮《はっけいきゅう》の中にあっただろうか。  思い出そうとしたが、眩暈《めまい》がした。息苦しかった。ひどく身体が熱を帯びていて、全身のどこもかしこも痛んだ。 「大丈夫か? 俺が分かるか?」  本当に心配そうに言われ、李斎は思い出した。  ──そう、ここは戴ではない。ここは慶。自分は辿り着いたのだ。 「虎嘯《こしょう》だ。……分かるか?」  李斎は頷《うなず》いた。徐々に視野が広がり、澄んできた。天井の高い牀榻《ねま》の中にいるのだと分かった。天井が高いだけでなく、広い。枕辺には黒塗りの卓子《つくえ》があり、男はその脇に座って李斎の顔を覗き込んでいる。 「虎嘯……殿」 「うん。大したもんだ。……よく頑張ったな」  男は瞬く。感極まっているように見えた。虎嘯の背後に立って李斎を覗き込んでいた娘も袖《そで》を目許《めもと》に当てた。  驚いた。生きている。  李斎は軽く両手を翳《かざ》した。左手はそれに応《こた》えて視野の中に現れたが、右手は現れなかった。目線をやると、夜着の袖が厚みもなく衾《ふとん》の上に投げ出されていた。  虎嘯はなぜだか申し訳なさそうな表情を浮かべた。 「さすがに右腕は駄目だった。……命があっただけでも、嘘のような話だ。辛いだろうが、失望せんでくれ」  李斎は頷く。右腕は失ったのだ。妖魔に襲われて深手を負い、縛《しば》り上げて止血しているうちに腐《くさ》っていった。──勿論、そこに腕があるはずもない。堯天に辿《たど》り着いたとき、すでに触れれば|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》げて落ちそうになっていた。そのまま落ちたか、あるいは手当のために切り落としたのだろう。  だが、別段、心は動かなかった。利き腕を失えばもはや将軍職は務《つと》まらないが主を救うことのできなかった将軍がどうして臣下を名乗れるだろう。もう、必要ないのだ。  虎嘯《こしょう》は李斎《りさい》の首の下に手を入れて、頭を軽く持ち上げる。娘が口許《くちもと》に湯呑《ゆのみ》を宛《あて》がった。何かが口の中に僅《わず》かに流れ込んできた。それほど甘く、馨《かぐわ》しいものを初めて口にしたように思ったが、すぐにそれは舌に馴染《なじ》んで、水に過ぎないと分かった。  湯呑を離して、男は笑う。 「もう、大丈夫だな。本当に良かった」 「……私は……」 「お前さんがどうしてあんな無茶をしたのか、それはようく分かった。あんたは言って、倒れたんだ。よくぞ陽子がいてくれた」 「景王は──」 「瘍医《いしゃ》が許せば、すぐにでも連れて来てやる」  李斎が頷くと、虎嘯は手を離して立ち上がる。 「鈴《すず》、この人を頼むな。瘍医を呼んでくるついでに、陽子に耳打ちしてこよう」 「うん。早くしてあげてね」  枕辺を去っていく虎嘯を目線で見送り、李斎は牀榻《ねま》の天井を見上げた。 「私は……どれくらい時を無駄にしたのだろう……」 「そんな言い方をするものじゃないわ。たくさん眠るのが必要だったんだから。──前に一度、目を開けてから三日よ。倒れてから、もう十日近くになるわ」 「……そんなに……」  目を閉じただけのつもりだったのに、そんなに眠っていたのか。それほどの時間を無駄にしてしまったのか。  その時間が胸に苦しくて、李斎は喉に手を当てた。その指先に丸く滑《なめ》らかなものが触れる。目をやって握ると、首に丸い珠が掛けられている。 「それは、本当は主上しか使ってはいけないものなの。陽子ったら──」  言いかけ、娘はくすりと笑った。 「主上ったら、冬官を脅《おど》して、貴女《あなた》のために使わせたのよ」 「私の……ため?」 「慶国秘蔵の宝重《ほうちょう》なんですって。本当に、貴女はいろいろと運が良かったの。倒れたのが他の場所や他の王宮なら、助からなかったかもしれないわ」 「そうか……」  李斎《りさい》には、それを喜んだものなのかどうか分からなかった。  ──花影《かえい》。  目を閉じると風の音ばかりが聞こえる。指先に珠の手触りが冷たく、その寒さが別れた友人の貌《かお》を思い起こさせた。  ──花影、辿《たど》り着いてしまった……。  李斎よりも十ばかり年上の、穏やかな面差《おもざ》しをした女官吏。明晰だが優しく、恐がりに見えるほど慎重だった。最後に姿を見たのは、戴国南部の垂《すい》州。そこで李斎は花影と別れ、ただ一人で慶を目指した。  ──李斎、それだけは駄目。  花影は風の中、身を震わせながら、李斎に言った。柔らかな声だったが、毅然とした調子だった。花影の顔にも声音にも、断固とした拒絶が漂っていた。李斎は悲しかった。花影にだけはせめて理解してもらいたかった。 「なんて浅ましい、恐ろしいことを」  垂州の丘、李斎と花影は追っ手を逃れ、垂州候を訪ねようとしていた。垂州首都、紫泉《しせん》。その紫泉に聳《そび》える凌雲山《りょううんざん》を目前にした丘の上には、春とは名ばかりの冷たい風が強く吹いていた。振り返れば、丘の麓《ふもと》には小さな廬《むら》が見える。廬を取り巻いた農地は荒れ果て、そこに悲しく二、三の冢墓《はか》が作られ、供養を受けることもなく放置されていた。  丘を登る前、李斎と花影が立ち寄ったその廬には、すでに住人が残っていないようだった。その代わりに、荒れ果てた故郷を捨て、少しでも他国に近い場所へと逃げだそうとやってきた旅人が僅《わず》かに数人、崩れかけた家の中で暖を取っていた。李斎と花影はそこで旅人に白湯《さゆ》を恵んでもらい──そして、その噂を聞いたのだった。  慶国に胎果《たいか》の王が立った、と。 「まだ、お若い女王だそうです。港町にいた親戚の若いのに、去年だったかに聞いたんですけどね。年の頃は台輔と同じくらいとか……」  力なく言った女は、満身創痍だった。垂州は妖魔の巣窟《そうくつ》だった。戴の全土を覆った粛正の風も、垂州だけは避けて通る、と言われていた。実際のところ、彼女らは里《まち》を捨て、一丸となって逃げてきたのだが、わすが半月の行程で、これだけしか残らなかった、と言っていた。彼女の腕の中には襤褸布《ぼろぬの》で包まれた子供がいたが、その子供は、李斎らが最初に見て以来、ぴくりとも動かない。 「もしも台輔が御無事だったら、あのくらいの年頃だろうという話ですよ」  李斎は白湯の礼を言ってその廬家を出たが、一縷《いちる》の希望を見つけていた。 「御歳十数の女王、……胎果《たいか》」  表に繋《つな》いだ乗騎の手綱《たづな》を取りながら李斎が呟くと、花影が怪訝《けげん》そうに振り返った。 「それがどうかしましたか?」 「花影、どう思う? 景王はさぞ故郷が懐かしいだろうな?」 「李斎《りさい》?」 「故郷の蓬莱《ほうらい》が懐かしく、故郷に縁あるものが慕《した》わしいだろう。そう思わないか?」  李斎の声は弾んでいたかもしれない。花影は何を言いたいのか分からない、という貌《かお》をしていた。 「台輔《たいほ》も胎果《たいか》であらせられた。お歳の頃も近い。景王が台輔のことをお聞きになれば、ぜひとも会ってみたい、助けたいとは思われないだろうか。しかも慶には、雁《えん》の後《うし》ろ盾《だて》があると、さっきの女が言ってたじゃないか」  花影《かえい》はぽかんとした。 「まさか、慶に助力を願うと? ……そんな」 「なぜ、いけない」 「だって李斎──王は国境を越えられません。武をもって国境を越えることは即ち、覿面《てきめん》の罪を意味します。他国のために兵を割《さ》くなど、ありえません」 「けれどさっき、花影だって聞いただろう? 延王は慶に手を貸した。景王は雁の兵を借りて乱れた国に入ったと言っていた」 「それは事情が異なります。雁には景王がおいでだったわけでしょう。延王が国境を越えられたわけではないと思います。あくまでも景王が、雁の王師《おうし》をお借りになって、自国にお戻りになった。……けれども戴には、主上がおられないのですよ」 「しかし」 「才《さい》国|遵帝《じゅんてい》の故事をご存じないのですか」 「遵帝の故事?」 「才国遵帝はその昔、範《はん》に荒廃あることを憂えて、範の民を救済するため王師をお出しになりました。その結果の、非業《ひごう》の登霞《とうか》です。天は、たとえ民を救うためであろうと、王師をもって国境を越えることをお許しにはならなかったのだ、と言われています。だのに遵帝の轍《てつ》を踏《ふ》む王がおられましょうか」  李斎はうつむき、そしてふと顔を上げた。 「そうだ……景王は胎果だ。ひょっとしたら遵帝の故事を知らないかも」 「なんて浅ましい、恐ろしいことを」  花影は白く窶《やつ》れた顔を驚愕と嫌悪に歪《ゆが》めた。 「戴のために慶を沈めるというのですか? 今、貴女はそう言ったも同然なのですよ」 「それは……」 「駄目です。李斎、それだけは駄目」  では、と李斎は吐き出した。 「どうするんだ、この国を」  李斎《りさい》は握りしめた手綱で丘の麓を示した。 「あの廬《むら》を見ただろう。あそこにいた人々を見ただろう。あれが戴《たい》の現状なんだ。主上の行方が知れない、台輔《たいほ》の行方が知れない、泰を救ってくれるお方が、この国のどこにもおられない!」  李斎は探した──この数年間。反逆者と呼ばれて追い立てられながら、その行方を捜し続けた。だが、泰麒《たいき》は勿論、驍宗《ぎょうそう》の姿を発見することもできなかった。その足跡を辿《たど》ることさえ。 「春が来たというのに、耕されている農地がどれだけあった。この秋に収穫が得られなければ、民は飢えて死ぬしかないんだ。早く実りを得なければ、また冬がやってくる。冬が来る度に三廬《ろ》は二廬に、二廬は一廬にと減ってきたんだ。今度の冬が過ぎて、どれだけの民が生き残る。あと何度、戴は冬を越えられると思う!」 「けれども……だからといって、慶《けい》に罪を唆《そそのか》して良いということにはなりません」 「戴には誰かの助けが必要なんだ」  花影《かえい》は拒むように顔を逸《そ》らした。 「……私は堯天《ぎょうてん》に行く」  李斎が呟《つぶや》くと、花影は悼《いた》むような眼差しで李斎を見返してきた。 「お願いだから、それだけはやめて」 「垂《すい》州候のところに逃げ込んでも、自分たちの安全が買えるだけだ。それすらも確かじゃない。これまでと同じように、垂州も病んでいるかもしれず、今後病んでしまうのかもしれない。また、逃げ出すだけの結果になるかも」 「李斎」 「……これしか道がないんだ……」 「では──ここでお別れです、李斎」  花影の胸の前で組まれた指が震えていた。今にも泣き出しそうな花影の顔を見つめ、李斎は頷く。 「……仕方ない」  李斎は王宮で花影と巡り会った。そこで友誼《ゆうぎ》を得て、共に宮城を追われた。数年を経て、やっと再会したのはこの冬のこと、花影の出身地、藍《らん》州でのことだった。藍州で一冬を何とか凌《しの》ぎ、さらに追っ手を逃れ、南に隣接する垂州へと二人、辿り着いた。  花影はじっと李斎を見つめる。やがて、袖で顔を押さえ、微《かす》かな嗚咽《おえつ》を漏《も》らした。 「垂州は妖魔の巣窟です。南に向かい、沿岸に近づくほど酷くなる一方だと……」 「分かっている」  花影は袖で顔を覆ったまま頷いた。再び顔を上げたときには、気丈な表情が浮かんでいた。藍州の州宰《しゅうさい》を経て、六官の一、秋官|長大司寇《だいしこう》にまで登り詰めた能吏の貌《かお》だった。その貌で一礼し、花影は李斎に背を向けた。  ──確かに浅ましいことだ、と李斎も思う。  景王が遵帝《じゅんてい》の故事を知らなければいい、故郷に縁あるものを懐《なつ》かしみ、情に流されて戴《たい》を救おうと起《た》ってくれることを期待している。起てば、慶《けい》は沈む。王師が国境を越えた途端に景王は遵帝の轍《てつ》を辿《たど》るのかもしれなかった。だが、それでも慶の王師は残される。せめて一軍なりとも李斎の手の中にあれば。  酷《ひど》いことをしようとしている。  花影はあくまでも李斎を拒《こば》もうとするかのように、背を向けたまま丘を紫泉《しせん》に向けて下っていった。振り返ることも、歩みを緩めることもしない。それを見送り、李斎は乗騎の手綱を取った。心細げに李斎と花影の後ろ姿を見比べる飛燕《ひえん》の顔を覗き込む。 「泰を救おうと足掻《あが》く愚《おろ》か者は、私だけになったな……」  李斎はその艶やかな黒い首の毛並みを撫《な》でた。 「お前はあの方を覚えているだろう?」  飛燕の鼻先に当てた額の中に甦《よみがえ》る声。  ──李斎、と高く嬉しげな声で。まろぶように李斎を目掛けて掛けてきて、そうして必ず、飛燕を撫《な》でてもいいか、と。 「お小さい御手を覚えているな? お前は大層、台輔が好きだった……」  くうん、と小さく飛燕が鳴いた。 「私と一緒に、戴で最後の愚か者になってくれるだろう? ……行ってくれるか、飛燕」  飛燕はその漆黒《しっこく》の目で李斎を見返し、そして何の声も漏《も》らさずに、ただ身を屈《かが》めて乗騎を促した。李斎は飛燕の首筋に顔を埋め、そして鞍《くら》に飛び乗る。手綱を握って紫泉《しせん》のほうを見ると、人影がひとつ、心細げに立って李斎のほうを見つめていた。 (……花影)  ──戴のために慶を沈めるというのですか?  李斎は牀榻《ねま》の天井にむなしく視線を漂わせた。そこに思い描く貌《かお》には、嫌悪感と李斎に対する侮蔑《ぶべつ》が濃く浮かんでいる。 (……けれども私は、そのために来たんだ)  そして辿《たど》り着いたばかりか、生きながらえてしまった──当の景王に救われて。  李斎は堪《たま》らず、目を閉じた。 (だからこれは、きっと運命なんだろう……) [#改ページ]       ※  汕子《さんし》は深く息を吐いた。辺《あた》りに立ち込めた鬱金《うこん》の闇《やみ》。狭いようでいて果てがないようでもある「どこか」。  ──間に合った。  今度は離れずに済んだ。失わずにいられた。朦朧《もうろう》とするほどの焦燥《しょうそう》が通り過ぎて息を吐くと、安堵《あんど》のあまり呆然としてしまった。  我に返ったのは、いきなり鬱金の闇のどこからか、声がしたからだった。 「──これは」  僅《わず》かに驚いた調子の声に、汕子は我に返った。 「檻《おり》だ」 「──傲濫《ごうらん》」  蹤《つ》いてきていたのか、あの混乱の中を。感嘆半ば、檻、と問い返そうとして、汕子もそれに気づいた。  馴染んだ泰麒の影の中だ。それが実際にはどこにあるのか、汕子にも分からない。鬱金の闇の落ちたどこか。上もなく下もなく果てがあるようでないようで。  汕子ら妖は獣や人のようには眠らない。だから知らないが、知っていれば夢の中のようだ、と思っただろう。漠然と「どこか」だと分かる。実際にどこで、どんな場所なのかは分からない。鬱金の闇が落ちているのか、それとも弱い鬱金の光が射しているのだろうか──それさえも。  だが、その「どこか」が狭い。明らかに狭いと感じる。何か恐ろしく硬いもので閉ざされているのを感じる。それはあながち金の光がいつもに比べ、恐ろしく弱いせいばかりではない。  ──檻だ、確かに。閉じ込められている。 「これは……」  呟《つぶや》いたが、喉《のど》を呼気が通った感触はない。ただ思っているだけ、呟いているつもりになっただけかもしれなかった。 「この殻《から》は何だ」  傲濫の声──これまた、声のような気がしているだけなのかもしれない──は困惑を滲《にじ》ませている。 「殻……」  泰麒《たいき》だ、と直感した。泰麒であるものが、ひどく頑《かたく》な印象を与えるもので包まれているのだ。汕子は試しに意識を外に向けてみる。普段なら「どこか」を抜けた汕子の意識は泰麒を取り巻いた気脈に触れるはずだが、それは粘《ねば》るような抵抗に遮《さえぎ》られた。 「影から出られない……?」  いや、不可能ではない。強く強く念じれば、なんとか抵抗を突破できるだろう。だが、ひどく消耗しそうな予感はした。それは並大抵ではない気力を要することで、しかもかなりの苦痛を伴うに違いない。  しかも、と汕子は周囲を見渡した──つもりになった。  光が薄い。泰麒《たいき》の気が小さい。眩しい輝きは感じられず、どこからか雨降るように降り注いでくる気脈の糸が恐ろしく細い。 「閉ざされている……」  傲濫《ごうらん》の声に、汕子は背筋を粟立《あわだ》てた。  麒麟は妖の一種だ。妖たちの、獣や人の範疇《はんちゅう》を超えた力を支えるのは、天地から恵まれる気力だ。その、注ぎ込んでくる気力が細い。使令は気力を食う。なのにそれがこんなにも頼りない。  注ぎ込んでくる入り口が細いのだ。泰麒をとりまく気脈が弱いというよりも、泰麒がそれを取り込むことができない。──角が、欠けている。  ──身喰《みぐ》いだ。  汕子たちが泰麒の気力を食えば、その分泰麒が損《そこ》なわれる。注ぎ込まれる気力だけでは、汕子らの命脈を保つには足りない。  ──敵がいるのに。  泰麒を襲った敵だ。突然の泰麒の転変《てんぺん》。そして、鳴蝕《めいしょく》。鳴蝕の起こし方など、泰麒は知らないだろう。それは麒麟に天与の物だが、泰麒は麒麟の力をよく理解できていない。本能的に鳴蝕を起こすほどのことがあったのだ。それが角が大きく損なわれていることと無関係であるはずがなく、その重大事が選りに選って汕子と傲濫が驍宗《ぎょうそう》の許へと向かっている最中に起こったことである以上、それ自体も仕組まれたことに違いなかった。  何者かが故意に汕子を泰麒の側から引き離したのだ。そうしてその隙に泰麒を襲った。麒麟が死ねば王もまた斃《たお》れる。謀反だ、と汕子は呟いた。  ──しかし、誰が?  汕子は確かに蝕の最中、ひとつの人影を見ていたが、それが誰かを見て取ることはできなかった。あれが襲撃者だったのだろうか。あの者が謀反の首謀者だったのだろうか。噂通り驍宗を文州に誘《おび》き出し、さらには泰麒を唆《そそのか》して汕子らに驍宗の許へと向かわせた。結果、汕子らが離れて無防備になった隙を突き、泰麒を襲ったと言うことか。だが、敵は泰麒の襲撃に失敗したのだ。少なくとも泰麒を弑《しい》すことはできなかった。敵はそれを察して再び泰麒を襲撃しに来るかもしれない。なのに、汕子らは存分に動くことができない。  どうする、と鬱金《うこん》の闇の中から傲濫《ごうらん》の声がした。 「眠っていなさい」  眠っているのが最も気力を食わない。無防備にはならない、獣の眠りだ。意識を解放して周囲の刺激を感じながら、身体を休めている。 「決して注意を怠らないように。──敵が追ってくるかもしれない」  彼は朦朧《もうろう》としたまま、鯨幕《くじらまく》に導かれて一軒の家に辿り着いた。門の周囲から玄関先にかけては、黒衣に身を包んだ人々が集まっていた。菊の匂いと抹香《まっこう》の匂いが立ち込めている。それらの人々が彼に気づいた。驚いたような声、駆けつける大人たち、その人垣の向こうから、やはり黒衣に身を包んだ一人の女と男が現れた。泣き崩れる女の背後、菊に縁取られた老婆の写真が見え、そして彼はようやく祭壇の置かれたその建物がなんなのかを理解した。それが自分の「家」であることを。  ──今までどこに。  ──どうしたの、何があったの。  ──一年も経って。  大勢が一時に上げる声が、波のように打ち寄せてきた。危うく溺れそうになった彼を岸辺に引き戻したのは、強い爪の痛みだった。彼の前に膝をつき、泣き縋《すが》る女の爪が両の腕に食い込んでいる。 「……お母さん?」  彼は瞬いた。なぜ母親はこんなにも泣いているのだろう、と不思議に思った。なぜこんなに大勢の人がいるのだろう。どうしてみんな声を張り上げているのだろう。この白と黒の幕は何だろう。なぜ祖母の写真が、あんなところに飾られているのだろう。  首を傾げる彼の顔を覗き込んだのは、すぐ近所に住む女だった。 「今までどこにいたの」 「……今まで?」  問い返した瞬間、彼の脳裏をあまりにも多くのものが過《よぎ》ぎったが、それらは全て、彼がそうと認識する前に消えていった。後には深い空洞が残った。その空洞の奥底には、雪が舞っている。大きく重い雪片、それが舞い落ちる中庭。  彼は中庭に佇《たたず》んでいたはずだ。祖母に叱られ、庭に出された。そして──。 「なんで僕、こんなところにいるの?」  彼が周囲の大人に訊いた瞬間、彼の中で重い蓋が落ちた。獣としての彼に所属した一切のものは、失われた角と一緒に固く封印されてしまった。 「こんなところって──」  女は彼の方を揺《ゆ》する。 「覚えてる? あなたは一年も行方が分からなかったの。お母さんもお父さんも、みんな死ぬほど心配して」 「僕が?」  だって、ついさっきまで中庭にいたのだ、と指さそうとした腕に、いつの間にか伸びた髪が触れた。彼は自分の髪を不思議な気分で摘《つま》んだ。  きっと、と傍にいた老人が目頭を押さえた。 「お祖母ちゃんが呼び寄せなすったんだよ。最後に一目、会えるようになあ」  言って老人は、周囲の者たちを見た。 「さあ、しばらく家族だけにしてやろう。出棺の前にちゃんとお別れさせてやらねえと」  そうだ、と肯定する声に促され、彼は依然として泣いている母親と一緒に家の中へと連れて行かれた。  こちらにおける彼の時間は、このときを境に再び動き始めた。同時にそれは、彼自身ももう覚えていない、もう一人の彼──泰麒にとっての長い喪失の始まりだった。 [#改ページ] 二 章       1  李斎《りさい》の背に靠枕《まくら》が宛《あて》がわれた。 「苦しくないですか?」  訊《き》いてきた女御《にょご》は、鈴《すず》という一風変わった名だと、李斎はこれまでに学んでいた。結局、李斎は、先に目覚めたときにも、景王に会うことができなかった。瘍医《いしゃ》の手当を受けている間に再び寝入ってしまったからだ。  その後も何度か目覚めたが、瘍医はまだ面談はならない、と言った。その禁がようやく解けたのがこの日──さらに二日後のことだった。 「……お手数をかける」  久々に半身を起こした。思ったよりも身体は萎《な》えているようで、靠枕に凭《もた》れていても息が弾んだ。臥牀《しんだい》を出ることは、瘍医が許さなかった。このため、李斎は牀榻《ねま》に客を迎えることになったのだった。  鈴《すず》が顔を拭《ぬぐ》って髪を整えてくれ、薄い襖《うわぎ》を掛けてくれた。李斎《りさい》の世話は、この女官《じょかん》が一人で請け負っているようだった。景王は登極《とうきょく》から間がなく、ゆえに宮中の人手が少ないのかもしれなかったし、ひょっとしたら李斎は信用されておらず、万が一李斎に反意あったときのために、あえて女官を一人に限っているのかもしれなかった。  身繕《みづくろ》いを終えところに、三人の客人が入ってきた。最初に牀榻《ねま》に足を踏み込み、李斎の枕許に腰を下ろしたのは、忘れようのない緋色《ひいろ》の髪。──景王陽子だった。 「……具合はいかがだろう?」 「お陰様で命拾いをしたようです。心からお礼を申し上げます。一方ならぬご配慮を賜った上、このような不躾《ぶしつけ》な有様《ありさま》で御前を汚します無礼をひらにご容赦ください」 「そんなことは気にしないでもらいたい。心痛も多いだろうが、まず養生をして欲しい。そのために及ばぬながら、できるだけのことはさせてもらう。必要なものがあれば、何なりと言ってもらって構わない」  年の頃は十六、七、もの慣れないふうの若い女王の言葉には、誠意が溢《あふ》れていた。もっと頼りなくやわやわとした人柄を想像していた李斎は、どこか武人風の景王のありように意外なものを感じた。──そう、泰麒《たいき》とは趣が違う。李斎は、同じ蓬莱《ほうらい》の出身だというだけで、根拠もなく泰麒のような人物を想像していた自分に、この時初めて気づいた。 「……ありがとうございます」 「少し、話を聞かせてもらって構わないだろうか? 苦しければ、そう言ってもらいたいのだけど」 「いえ。私のほうが奏上《そうじょう》したいことがあって、参じたのですから」 「女性の牀榻《ねま》に無礼かとは思ったが、立ち会いを許してもらいたい。こちらは小国の冢宰《ちょうさい》で浩瀚《こうかん》と申す。そしてあちらが、景麒《けいき》」  言われて李斎は、ここでも泰麒を基準に全てを把握していた自分に気づき、苦笑せねばならなかった。──そう、金の髪なら麒麟に決まっている。だが、泰麒の麒麟は黒麒だった。磨《みが》いた鋼のような髪の。 「お噂はかねがね伺っておりました、景台輔」  李斎が言うと、景麒ははっとしたように李斎を見る。李斎は笑って見せた。 「台輔から……泰麒からよく。私は幸い、台輔には親しくしていただいたので。とてもお優しい方で、たくさん親切にしていただいたのだ、と台輔は始終言っておられました。台輔は景台輔のことをとてもしたっていらっしゃるふうで」  李斎が言うと、景麒は困惑したように視線を逸《そ》らし、同時に、景王は驚いたように景麒を振り返った。 「……何か? 失礼なことを申し上げましたでしょうか」  いえ、と景麒《けいき》は口の中で呟《つぶ》き、陽子は笑う。 「とんでもない。珍しいことを訊いたので驚いただけだ。……それで、その泰麒《たいき》なのだけども。戴《たい》で何が起こったのか聞かせてもらいたい」  はい、と李斎《りさい》は頷《うなず》いた。 「……何から申し上げれば良いのでしょう」  戴の先王は諡号《しごう》を驕《きょう》王という。百二十四年の治世《ちせい》を布《し》いた王だった。  驕王は華美を好み、奢侈《しゃし》に耽溺《たんでき》した人物だったが、政治に於いては一線を守った。遊興に耽《ふけ》る相手を宮中に召し上げ、美姫《びき》を後宮《こうきゅう》に集めて国庫を湯水《ゆみず》のように蕩尽《とうじん》したものの、それらの者に官位を与え、政に関わらせることは絶対になかった。寝《しん》に於いては暗、朝《あさ》に於いては明、と言われる所以である。  事実、施政者として賢明だったかどうかはさておき、朝廷に於ける驕王は、少なくとも暗愚《あんぐ》の王ではなかった。慣例を重んじ道義と秩序を重んじ、急激な変化や改革を嫌って穏やかで堅実な治世を築いた。その治世の末期、国庫は破綻《はたん》し国は困窮したものの、他国に比べ、国政の腐敗は最小限で食い止められたといっていい。間隙《かんげき》を窺《うかが》うようにして品性|卑《いや》しい官吏が王朝を食い荒らしていたし、驕王が斃《たお》れて以後、それは甚《はなは》だしく拡大したのだが、それでも戴は良く踏みとどまった方だと言えるだろう。州侯や官吏、軍人には条理の分かった人材が良く残っていた。  その最たるものが、驍宗《ぎょうそう》だった。驍宗はそもそも禁軍将軍、先王の信任も篤い寵臣の一人だった。彼は国政を知悉《ちしつ》しており、彼に崇敬を寄せる人材を多数、持っていた。余州《よしゅう》にも名高い驍宗軍、その麾兵《ぶか》と軍吏《ばくりょう》たち。驍宗は泰麒の誓約を受けて登極した。朝廷は速《すみ》やかに整い、戴は新しい時代に向けて滑り出した。  ──驍宗には玉座に対する備えがあったのだ、と言われる。  それは一面、真実だった。  驍宗は先帝の天命が遠からず尽きることを早くから理解していた。新王が即座に立つにせよ立たないにせよ、その後の波乱が避けられないことを見越しており、大きく傾いた戴を支えるために、それなりの人材が必要であることを理解していた。驍宗は麾兵を育て、軍吏を育てた。驍宗所領の乍《さく》県は「小さな戴」だった。そこに配置された文官武官は、一介の県吏に過ぎなかったにもかかわらず、国政というものを理解しており、戴の国情を旧六官よりも詳細に把握しており、驕王朝の末期からすでに国政の端々に入り込んで、傾く王朝の防波堤の役割を果たしていた。  当時、驕王の命数が尽きつつあることを理解していた者は多かったろう。李斎もまた、驕王の朝が大きく傾き、沈みつつあることを分かっていた。遠からず完全に沈む、李斎はそう確信していたが、確信していた──それだけだった。王が斃《たお》れた後に何が必要で、そのために今、何をする必要があるのか考えてみたことがなかった。だが、驍宗《ぎょうそう》だけはそうではなかった。そこが自分と──自分と同様の者たちと驍宗との、圧倒的な差だ、と李斎《りさい》は思う。  驍宗が朝廷へと送り込み、傾く朝廷を支えさせ、驕王が倒れて後は、沈みゆく国土を支えさせてきた麾下たちが新王朝の柱となり、驍宗の朝廷は革命から僅かにして堅固な態勢を築いた。新王登極の後には朝廷が甚だしく混乱し、六官諸侯に適材を配置するまでにかなりの期間を要するものだが、驍宗に限ってそれはなかった。通常に要する歳月を思えば、驍宗の朝廷は一夜にして整ったといっていい。前代未聞の出来事だった。  ──そして事件は驍宗が登極して半年ほど後に始まった。戴国北方の文《ぶん》州で、大規模な暴動が勃発したのだった。       2 「──文州に内乱とか」  李斎《りさい》が内殿にはいると、すでに主《おも》だった寵臣たちはその場に揃《そろ》っていた。召集に応え、内殿に駆けつけた李斎の第一声を受け、口を開いたのは夏官長|大司馬《だいしば》の芭墨《はぼく》だった。 「文州は元々問題の多い土地柄ですからな」  芭墨は言って、白いものの混じった髭《ひげ》を扱《しご》いた。  戴国北部──瑞《ずい》州の真北に位置する文州は、冬の寒さの厳しい土地柄だった。冬に寒いのは北東に広がる承《じょう》州も同じだが、承州は耕地に恵まれてもいたし、森林も豊富だった。対する文州は急峻で耕地に乏しく、森林にも恵まれない。辛うじて点在する玉泉《ぎょくせん》が民の生活を支えていたが、その玉泉も、永年それに民が群がり続けたせいで枯渇し始めていた。寒く貧しい──文州はそういう土地で、政治は行き届かず、人心も荒《すさ》みがちだという専《もっぱ》らの噂だった。現に文州では、再々、内乱が起こっている。生活に困った民が堪えかねて蜂起することも多かったが、むしろ玉泉、鉱泉を取り仕切る質《たち》の悪い土匪《どひ》──土着の匪賊《ごろつき》が、利権争いや私怨から暴動を起こし、それが乱に発展することの方が多かった。 「州侯が更迭《こうてつ》されて、押さえが緩んだ、というところでしょう。何しろ、先の州侯は匪賊の頭目のような兇漢でしたからな。残虐粗暴なことでは、匪賊の上を行く。ならばこそ、押さえも効《き》いたのですが」  李斎は頷いた。先の文州候は冷酷で悪辣《あくらつ》な人物で、ただでさえ貧しい文州を食い物にしてきた男だったが、そんな男にも取り柄はあったらしい。 「州侯が替わって押さえが緩み、匪賊が増長したということなのでございましょうな。乱と言うより、匪賊が県吏と悶着を起こして暴動になったということのようでございます。とはいえ、勢いに乗って県城を占拠し、付近の里櫨《まちまち》にまで手を出しているという話ですから、放置するわけにもまいりますまい」 「調子づかせるわけにはいかん。国という押さえのあることを分からせてやらねばな」  野太い声で言ったのは、禁軍左軍の将軍、巌趙《がんちょう》だった。巨躯には闘志のようなものが漲《みなぎ》っていたが、特に緊張感は見えなかった。それはこの場の誰にも言える。──彼らはもとより分かっていたのだ。  新年にかけて、戴では大規模な粛正があった。これは悪辣《あくらつ》な官吏を一掃すると共に、巨悪の下で機会を窺《うかが》っていた兇賊《きょうぞく》を誘《おび》き出す布石でもあった。悪名高い文州候、これを更迭《こうてつ》すれば文州の押さえは緩み、土匪《どひ》がいずれ動きだすだろうことは、その時点から予測されていた。 「慎重に構えると、連中は国を舐《な》めてかかるぞ。それだけは、あってはならん。早急に行って蹴散らし、王師《おうし》の恐ろしさを叩き込んでおかねばな」 「勿論、土匪は押さえねばならんが、早急にと言うのはどうか。時期は考慮を要すだろう。今少し放置すれば、文州各地の土匪も期に乗じて悶着を起こすだろう。追随してくれれば一網打尽《いちもうだじん》にできようし、そのほうが国の睨《にら》みを印象づけるには効果的だ。だが、機を逃せば野火は拡大する。鎮火《ちんか》に手こずれば国の威信は下落する」  巌趙は呆れたように芭墨《はぼく》を見た。 「相変わらず血も涙もない親父だな。賊どもは県城付近の里櫨《まちまち》にまで手出しをしておるんだろうが。そこで暮らす連中のことも考えてやれ」 「なんの。血や涙があれば夏官や軍吏になど、なるはずがなかろうて」 「それもそうか」と、巌趙は巨体を揺すってあっけらかんと笑った。 「勅伐《ちょくばつ》を行うなら早いほうがいいだろう」  ごく冷静に口を挟《はさ》んだのは英章《えいしょう》だった。禁軍中軍の将軍で、英章も巌趙と同じく、かつては驍宗軍の師帥《しすい》だった。驍宗軍には名うての麾兵《ぶか》が幾人もいたが、英章はその中で最も若い。 「私もご老体と同じく血も涙もない部類だけど、出兵するなら早い時期を推《お》すね」  当てこするように英章は言って、真実血も涙もなさそうな貌を顰《しか》めた。 「雪が融《と》け始めたら面倒だ。足許が緩むだけではなく、周辺の雪が融けると山に逃げ込まれてしまう。文州の山は玉泉の坑道で穴だらけだ。そこに潜り込まれるとやっかいなことになる」  確かに、と同意する声が上がった。李斎も内心で、その通りだと感じていた。一旦、坑道に潜り込まれてしまえば、追撃は容易ではない。文州の匪賊を今後押さえていくためにも、だらだらと追撃戦を長引かせるわけにはいかなかった。迅速に平定し、国の威信を示すことで匪賊を押さえる。そうでなくては、わざわざ王師を出す意味がない。  意向を諮《はか》るように、その場にいた者たちの視線が驍宗に集まった。 「……英章に任せよう。中軍を出して鎮圧にあたる」  共に異論を口にしようとした巌趙と芭墨を、驍宗は目線で制した。 「英章の意見を採るというわけではない。時期の問題、威信の問題、今後の土匪制圧、そういった些末事《さまつじ》は、今は関係がない」 「些末事と仰いますか」  英章《えいしょう》は気色《けしき》ばんだが、驍宗《ぎょうそう》はあっさりと頷いた。 「考慮に値せぬ。ここで何よりも問題にせねばならないのは、土匪《どひ》ではなく民だろう。土匪を討伐し押さえることより、民に国の庇護《ひご》あることを得心させるほうが断じて先だ」  李斎は、はっとしたし、他の者も同様に息を呑んだのが分かった。その場にいた全員が恥じ入ったように黙りこんだ。 「英章、中軍を率い、文州師を組み込んで土匪を討て。勝たずとも良いが、県城からは一掃せよ。中軍には県城を開放してからも、しばらく文州に留まってもらう。文州師に手を貸して、都市の防備を厚くせよ。無理に土匪を深追いすることはない。それよりも、国がついている以上、もはや土匪を恐れる必要はないのだと民に理解させ、人心を安んじることのほうを優先せよ」  畏《かしこ》まりました、と英章は殊勝だった。英章ばかりでなく、驍宗麾下の者たちは、驍宗の言に全幅の信を置いている。どんなに朝議が荒れても、驍宗が決を下せば速《すみ》やかに意思が統一されていく。──そういうものだと、李斎はここに至るまでに学んでいた。  英章は最短の時間で中軍を整え、文州へと発《た》った。県城を開放し、ひとまず乱を平定したと報《しら》せが届くまでに一月、そしてちょうどその頃、文州の別の場所でも土匪が乱を起こしたことが報されたのだった。  それは総計三箇所、他でも小競《こぜ》り合《あ》いが頻発していた。突発的な暴動が飛び火したと言うよりも、組織的な内乱の様相を呈してきた。さらに半月のうちに事態は拡大し、最初に起こった県城の占拠が、文州全体に及ぶ内乱の一環であったことが明らかになった。霜元《そうげん》率いる瑞州師左軍が派遣され、さらには禁軍右軍の半数を率いて驍宗自身が文州に向かった。各地で散発した暴動が互いに連携して動き、乱の中心が文州中部にある轍囲《てつい》という県城の付近に移動していったからだった。  ──轍囲は、驍宗ゆかりの街だった。  驕王の統帥する王師六軍、その将、六人のうち、半数が不敗を誇っていたが、驍宗は不敗の将軍ではなかった。  驕王の寵篤《ちょうあつ》い左軍将軍に一敗地をつけたのが轍囲だった。  それは驕王治世の末期、轍囲は王の搾取《さくしゅ》に堪えかねて、公庫を閉ざした。税の徴収を撥《は》ね除《の》けたのだった。文州師が殺到してこれを開けさせようとしたが、周辺の住民が轍囲に結集して籠城し、抵抗を続けた。ついには王師が出陣、事態の収容にあたったのが驍宗だった。  驍宗は轍囲《てつい》に到着し、左軍一万二千五百兵をもって轍囲を包囲した。そして、同じく轍囲を包囲した州師を悉《ことごと》く後方へと退がらせたのだった。  同行した巌趙《がんちょう》、英章《えいしょう》を首《はじ》めとする師帥たちは、勿論これに異を唱えた。州師二軍で開放することのできなかった轍囲を、禁軍一軍でいかにして開放しようというのか。  無茶だ、と気色《けしき》ばむ巌趙を、瑛州は鼻先で嗤《わら》った。 「ずいぶんと謙遜したものだね。──勿論、無茶じゃない。州師二軍で成らぬものなら、我々にとって手応えがあって良い加減だろう。けれども、多少時間が掛かることは避けられない。帰途の最中で雪に遭うことだけは願い下げだ」  確かに、と同意したのは、後の瑞州師左軍将軍──当時、師帥の霜元《そうげん》だった。 「後背の山が雪に閉ざされれば、物資も人も満足に行き来できません。文州に我々を春まで養うほどの蓄《たくわ》えがあるはずもなし、冬が来る前に凱旋《がいせん》しなければなりません」 「物資は乍《さく》県から運ばせる。義倉を開け、山道が雪に降り込められる前に冬越しできるだけの準備をせよと、正頼《せいらい》には命じてある」  それは侮辱だ、と英章は腰を浮かせた。 「いくら手こずっても、春までかかろうはずがない。驍宗《ぎょうそう》様は我々をそこまで侮《あなど》っておいでか」 「侮っているつもりはない。だが、最悪、ここで冬を越すことになる覚悟だけはしておいてもらいたい」 「それほど手こずるとお思いなら、州師を呼び戻してあの腑抜《ふぬ》け共《ども》の手を借りればよいでしょう。もっとも足を引っ張るだけかもしれませんがね」 「州師の手は借りない。州師には付近の里櫨《まちまち》の民を連れて避難してもらう。いくら義倉を開けたところで、付近の民まで養うことはできぬ。飢えた民の横で我々だけが食い足りるわけにもいくまい。かといって、兵の食い扶持《ぶち》を削るわけにはいかぬ。生命に関わり、士気に関わる」 「では、さっさと轍囲を落としてしまえばいい。四方から焼き払ってしまえば三日で済みますよ。州師の手を借りれば半月、烏合《うごう》の衆でも盾《たて》の代わりくらいはなるでしょう」 「英章、我々は何のためにここに来た?」 「逆賊を討伐するためです」 「なぜ、逆賊なのだ?」  驍宗に問われ、英章は答えに窮《きゅう》した。無論、逆賊であることは間違いない。王の宣旨に刃向かった以上、逆徒と呼ばれることは避けられない。──だが。 「冷夏があった。文州はこれから厳しい冬を迎えるが、冬を越えるための物資に乏しい。宣旨のまま公庫の中身を差し出せば、民は飢えて死ぬしかない。だから拒んだ、違うのか?」  英章は顔を上げた。 「主上に逆徒を討てと言われました。王が逆賊というのだから、我々にとっては逆賊です。禁軍とはそういうものでしょう」  なるほど、と驍宗《ぎょうそう》は薄く笑む。 「──お前は主上の飼い犬か。では訊くが、そもそも王とは何だ?」  英章《えいしょう》は黙り込んだ。 「轍囲《てつい》の民が他所の民を害するというなら、万民のためにこれを誅殺《ちゅうさつ》するにやぶさかではない。轍囲の民が賦役《ふえき》を拒めば、その皺寄《しわよせ》せは他の県里に及ぶ。ゆえに轍囲を開放し、公庫を開かせることにもやぶさかではない。──だが、それ以上のことが必要なのか?」  幕営の中に沈黙が降りた。 「勅命をもって轍囲を開放し、公庫を開けさせる。──ただし、轍囲の民を一人たりとも傷つけてはならぬ」  驍宗は宣じた。 「兵士は剣を携行してはならぬ。盾《たて》のみは許すが、これを振り翳して民を打つことがあってはならない」  盾は堅牢な木によって作らせ、内側には鋼《はがね》を貼ることを許したが、外にこれを貼ることを許さなかった。血気逸《けっきはや》って盾をもって殴《なぐ》りかかる者があったときに、対する民を慮《おもんばか》って、盾の外には厚く綿羊を貼らせた。綿は白のまま、もしも命《めい》に背《そむ》いて盾を武器として使い、民に怪我をさせ、この綿に一点たりとも血が付けば厳罰に処すと宣じた。  捕《と》らえた者は説得し、開放する。轍囲に戻ってもよかったし、そのまま里櫨《まちまち》に帰ってもよかった。 「重税に喘《あえ》ぐ民の気持ちは分かるが、天下の宣旨《せんじ》が軽んじられれば、国はたちまちあるべき姿を失う。苦役を厭《いと》うて治水《ちすい》を拒否する風潮が蔓延《はびこ》れば、すなわち民がたちまち困る。轍囲が税役を拒否すれば、その負担は他県に及ぶ。──それを呑み込んで、公庫を開けてはもらえないだろうか」  ある者は里櫨に帰り、ある者は轍囲に戻って意を伝えた。最初は猜畏《さいい》に囚《とら》われていた民も、驍宗軍の戦意ないことを呑み込むにつけ、やがては驍宗の意を慮《おもんばか》るようにになった。  包囲から四十日、王師は県城を開かせようと攻めては敗退することを繰り返し、綿羊は依然《いぜん》として白いまま、一点の汚れもない。ひたすら開放を迫る王師に対し、轍囲の民は要求を突《つ》き返し、これを鴻基《こうき》に伝えて王の意を諮《はか》ることが続けられた。互いが譲歩を余儀なくされた。驍宗の兵は勝たなかったが、決して負けることがなく、籠城した民はこのまま公庫を閉ざし続けることの不可能を悟らざるを得なかった。一方、王も、自らの禁軍が決して勝てない事実に、譲らざるを得なかった。  ついに四十一日目に城門が開いた。戦果としては勝利ではない。  驍宗《ぎょうそう》は初雪の舞う山道を越え、鴻基に戻って敗北を伝えた。民の万打に対し、一打も能《あた》わず、と。──ただし公庫は民の道義を知る心によって解放された。轍囲《てつい》の民は天道を守ったのだ。  結果、徴収が完遂されたので、この敗北に対しては不問に処された。  これより後、轍囲の盾《たて》、という言葉が戴の北方に流布するようになった。あるいは白綿の盾ともいう。轍囲の盾なくば信じず、などと、誠意の証、ほどの意で伝えられる。  驍宗と轍囲は信義によって結ばれている。轍囲が戦乱の渦中に落ちこんで、驍宗がこれを看過できるはずがなかった。驍宗は霜元《そうげん》と共に、二万近くの兵を率いて文州に向かった。李斎《りさい》は泰麒の肩を抱いて、それを見送った。 「……驍宗様は、無事に戻ってらっしゃいますよね?」  不安そうに見上げてきた幼い麒麟に、李斎は確信を込《こ》めて頷いた。 「大丈夫ですよ、台輔」  李斎の確約は、しかし嘘《うそ》になった。  後から考えてれば──と李斎は思う。乱は最初から轍囲を中心として巻きこむべく周到に用意されていたのだった。それは単なる土匪の暴動などではなかった。土匪を組織し、計略を授け、影から指揮する指があった。その指の持ち主は、驍宗が轍囲を無視できないことを、十分に見越していたのだった。  驍宗はそのまま二度と、鴻基には戻ってこなかった──。       3 「──李斎?」  怪訝《けげん》そうな声に、李斎は我に返った。見ると、案ずるように景王陽子が李斎の顔を覗き込んでいた。何をどう説明すればいいのか、言葉を探《さが》しているうちに、李斎は自身の記憶の中に深く入り込んでしまっていたらしい。 「気分でも悪いのか? ……だったら」  いいえ、と李斎は首を振った。 「申しわけありません。いろいろなことを思い出してしまって……」  李斎が言うと、分かる、と言いたげに陽子は頷く。 「戴に何が起こったか、というお尋ねでしたか。……突き詰めて言えば、謀反があったのです。主上は地方の乱に引きずり出され、そこで行方が分からなくなりました」  李斎は簡単に経緯を説明する。 「……詳しいことは私にも分かりません。後に聞いたところでは、主上は轍囲の近くにまで辿り着かれ、そこに陣営を設けました。そして襲撃を受けた。その乱戦の最中にお姿が見えなくなり、以来消息が知れないままになったとか」 「それ以上のことは、全く?」 「多分……というのも、その時文州にいて事態の詳細を知る者と、私はとうとう会うことができなかったからです。私以外の者も、詳細を問いただすことができたのかどうか。捜索が行われたのかどうかも分かりません。ひょっとしたら、それはできないままだったのかも。……というのも、主上のお姿が消えた、と報せがあったとき、朝廷は混乱の最中で、組織立って何かができる状態ではなかったのです」 「なぜ?」 「……蝕です」  それは驍宗が文州に旅立った、半月ほど後に起こった。その前日、国府には文州に向かった霜元《そうげん》から青鳥《しらせ》が届いていた。驍宗《ぎょうそう》らは無事に山を越えた、と。山を越えてしまえば、轍囲《てつい》までは数日の距離、事実、その数日後に再び青鳥が届いて、轍囲手前の郷城、琳宇《りんう》に到着し、そこに陣営を設けたと報せがあった。 「無事にお着きとか」  そう言って、安堵《あんど》したように笑ったのは、たまたま路《ろ》門で出会った地官長の宣角《せんかく》だった。  路門は燕朝《えんちょう》の南に聳《そび》える。三層の楼閣を持つ、人の身の丈の十数倍はあろうかという巨大な建物だった。南北に開いた門扉に挟み込まれた白い広間の中央に、同じく白い大階段が下る。これが雲海の下へと続いていた。 「今後も御無事でいて下さればよいのですが。……もっとも、将軍でいらした主上に対して心配申し上げるのも、失礼な話なのかもしれませんけどね」  そうですね、と李斎は宣角に笑いかけ、共に路門を下ろうと足を踏み出した──その時だった。  低く、微かに地響きがした。李斎は、何の音だろうと足を止めた。何も聞こえなかったのか宣角が、周囲を見回す李斎を不思議そうに振り返った。 「いま、何か──音が」  李斎が言うと同時だった。──山が震えた、と李斎は思った。まるで足許の大地──王宮を支える凌雲山《りょううんざん》が音を立てて身震いをした、そんなふうに。ゆらりと世界が揺れ、巨大な路門が捩《ねじ》れ歪む音を立てた。驚いて見開いた視野が翳《かげ》った。視線を上げる間もなく、目の前に路門の瓦が雪崩を打って降ってきた。  実際──その時、山が震えたのだった。もしも王宮を上空から俯瞰《ふかん》する者があれば、雲海に浮かんだ島の中央、湾をなす水の岸辺に丸く高い波が立ち、それが同心円状に広がっていくのが見えただろう。岸辺に近い宮城の一角から雲海の海面が高く盛り上がり、急激に落ちる。一方、岸辺では、それと同じく建物が揺すられ、悲鳴を上げながら崩壊していく。  王宮の一角に何者かが巨大な一槌《いっつい》を加えたようだった。その一撃に揺すられたように風が巻き、突風となって四方へと吹き出していく。太陽が色を失い、銅《あかがね》の色に翳《かげ》った空は一瞬のうちに錆《さ》びて赤みを帯び、それが凝《こご》って瘴気《しょうき》のように渦巻き始めた。  ──これは、なに。  李斎《りさい》は呆然と、その場に座りこんでいた。土煙の向こうに広がるこの異常な空は。大地は未だに蠕動《ぜんどう》を繰り返している。もはや揺れるわけではなかったが、地の底で何かが身動きするような震動が、床の上についた両掌から伝わってきていた。 「──蝕、だ」  悲鳴じみた声が間近でした。振り返ると、土まみれになり、同じく路門の石畳に倒れ伏した宣角《せんかく》が顔を上げたところだった。  これが、という思いと、なぜ、という思い。李斎は蝕に遭遇するのは初めてだった。同時に聞いたことがある──雲海の上に蝕は起きない、と。  宣角が身を起こした。彼の足許にまで散乱した瓦の破片が押し寄せている。歩み出したほんの二、三歩、あれがなければ、今頃は二人とも瓦の下だった。 「李斎、台輔《たいほ》は」  切羽詰まった声で訊かれ、李斎は跳ね起きた。地鳴りはまだ続いている。少なくはない数の人間が倒れた周囲では悲鳴や呻《うめ》き声がしていたが、今はそれに構っている余裕がなかった。  泰麒はどこだろう。午後の政務に就《つ》くには少し早い。外殿はとっくに出た頃合いだが、正殿に設けられた自室に戻るほどの余裕はなかろう。仁重殿ではないだろうか。 「大丈夫、台輔のお側には大僕が」  言った李斎の腕を宣角は掴んだ。汚れた顔が真っ青になっている。 「李斎、知らないのですか? 天上では本来、蝕は起こらないのです。起こったとしたら鳴蝕──台輔が起こされたとしか」  李斎は掛け出した。 「李斎!」 「宣角、怪我人を頼みます」  背後に叫んで、瓦礫を一足飛びに駆け抜け、路寝へと走る。李斎も聞いたことがある。麒麟はごく小さな蝕を起こすことができるのだと。それを鳴蝕というのか。──だが、蓬莱《ほうらい》で育った泰麒は、果たして鳴蝕を起こす術など知っていただろうか。  李斎は蓬山で泰麒に出会った。実を言えば、李斎は驍宗が昇山したその時、自身も昇山していたのだ。そしてそこで出会った泰麒は、転変──麒麟の姿になることもできず、使令も持っていなかった。蓬莱で生まれ育った泰麒には、麒麟のなんたるかがよく分かっていなかったのだ。本能とも呼べるそれらの力が目覚めたのは、いずれも泰麒が切羽詰まった時、ならば今も、何かがあったのだ。  土埃《つちぼこり》の臭いと裂けた木の臭い。熟《う》れて腐《くさ》りかけた太陽、錆《さ》びて翳《かげ》った空、蠢《うごめ》く赤気《せっき》、そして不穏な音色で続く地鳴り──李斎《りさい》は、どうしても不吉な予感を抱かないではいられなかった。何か悪いことが起こった。それも、途轍《とてつ》もなく悪いことが。  実際、建物の被害は、仁重殿に近づくにつれ、次第に激しくなっていった。州庁の門は完全に横倒しになっていた。囲い込む隔壁はあちこちが壊れ、その向こうに見える建物も大きく傾き、あるいは倒壊している。石畳の石が浮き、あるいは完全に裏返り、随所に亀裂の入ったそこに一面、瓦礫《がれき》がぶちまけられている。仁重殿のある一郭が見えた。そこにある建物の多くが、今や瓦礫の山になり果てていた。  地鳴りはいつの間にか熄《や》んでいた。代わりにあちこちから呻《うめ》き声と悲鳴が聞こえる。薄日が射した。見ると、空の禍々《まがまが》しい赤が薄らいでいた。  やがて、人々が集まり始めた。兵卒が多く召集され、瓦礫という瓦礫を取り除いて泰麒の姿を探したが、どこからも小さな麒麟の姿は発見できなかった。仁重殿の正殿の西、雲海に面した露台と園林《ていえん》は、跡形《あとかた》もなかった。建物も樹木も根こそぎ倒され、その上に攪拌された土砂と瓦礫がつもり、しかもそこに高波が打ち寄せて何もかもを雲海へと浚《さら》っていった傷跡だけが残っていた。船が出され、騎獣が引き出された。園林を掘るようにして彼らは小さな宰輔の姿を探した。だが、その日以来、泰麒の姿が見つかることはなかったのだった。  捜索が続けられる一方、一羽の鳥が急を報せるために文州へ向けて放された。それが文州に辿り着く以前に、その文州から別の鳥が飛んできた。青鳥《せいちょう》が運んできた書簡には、驍宗の姿が消えた、とあった。  牀榻《ねま》の中には沈黙が降りていた。李斎は首に掛かった珠を縋《すが》るように握りしめた。 「それきり主上の消息は知れません……台輔《たいほ》の消息もです」 「李斎、苦しいのだったら」  陽子は止めようとしたが、李斎は目を閉じて首を横に振る。 「王宮は混乱を極めました。組織立って主上と台輔の行方を捜すことができず……」  李斎は喘《あえ》いだ。陽子は慌《あわ》ててその手を握った。 「──大丈夫か?」  陽子の問いに、大丈夫です、と李斎は答えたが、声は忙《せわ》しない息づかいに途切れた。また風の音がする。あの──耳鳴りの音。風の中で、花影の声がする。駄目、と。 「……もういい。今日はここまでにしよう。とにかく」  李斎は声のするほうへ手を差し伸べた。──伸べて、改めて気づく。李斎には利き腕がない。李斎はこれだけのものを失った。今になって苦悶が押し寄せてきた。 「……助けてください」  珠を握っていた手を放し、伸ばした。その手を握る温かな手がある。 「……お願いです、戴を」 「分かっている」  隣室にいた瘍医《いしゃ》が駆け込んでくるのが聞こえた。ここまでに、という彼の声を、李斎《りさい》は深まりゆく暗黒と罪悪感の中で聞いた。       4 「……どう思う?」  花殿《かでん》を出ながら、陽子は背後の二人に問うた。その一方は無表情に沈黙し、もう一方は、どうと言われましても、と答えた。 「とりあえず、泰王と泰台輔が行方不明になられた経過は分かりましたが」  そうではなく、と陽子は苦笑した。 「彼女は戴《たい》を救って欲しいと言っている……それをどう思う?」  浩瀚《こうかん》は少しだけ眉を顰《ひそ》めた。 「李斎殿が具体的に何を求めていらっしゃるのかによります。そもそも、今の慶《けい》に何ができるのか、という問題もございますし」  浩瀚がそう言ったところで、景麒《けいき》が足を止め、一礼した。景麒は州庁での執務中に呼び出されてたから、そこへ戻らなければならない。それを見送り、浩瀚もまた冢宰府《ちょうさいふ》へ戻るべく正寝を退出していった。  誰も彼も、李斎にばかりかまけてはいられないのだ、と内殿へ戻りながら陽子は思う。こうしている間にも、慶は動いている。それも自身も問題を抱えながら。  浩瀚の言う通りだ。助けるというのは簡単だが、実際問題として、陽子に何ができるのか。陽子自身、登極してやっと丸二年が過ぎたところだ。不慣れでしかも──こちらの事情に疎《うと》い胎果《たいか》の王、ろくに文書を読むこともできず、政務の多くは浩瀚と景麒に頼っている。彼らが負担してくれたぶん空いた時間で、太師《たいし》に教えを請い勉強している、という有様だった。他国に施すことができるほどの余裕は、陽子には勿論、国庫にも朝廷にもなかった。  考え込みながら内殿を西へと向かうと、ちょうど廊屋《ろうか》を、皮甲《よろい》を着けた人物がやってくるところだった。 「ああ、──|桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》」  桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は陽子に気づいて足を止め、軽く拱手《えしゃく》する。これが慶の禁軍将軍だった。 「ちょうど良かった」  陽子が言うと、桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は軽く身を引く。 「お相手なら勘弁してください。たった今、小臣を扱《しご》いてきたばかりなんで。このうえ主上の、すとれすとやらの発散相手にされては身が保《も》ちません」  陽子は軽く笑った。 「そういうことじゃない。疲れているんなら、ちょっと休んでいかないか?」  はい、と頷く|桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》を、内殿奥の書房へ連れて行く。公務の合間に休むことのできるここが、陽子の昼間の住処《すみか》だった。 「……寄せ集めの王朝だな」  陽子がそこで茶を淹《い》れながら呟《つぶや》くと、桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]はきょとんとする。陽子は苦笑した。──戴《たい》を救うも何も、むしろ慶のほうが救われたいところだ。肝心の王は執務より先に読み書きを習わねばならない有様、小臣の半数は元々市井にいた侠客たちで、だから規律も本格的な戦闘術も、何もかも仕込まれねばならない。仕込むほうも人手が足りず、禁軍の左軍将軍が直々にやってくる有様だ。 「小臣の訓練までさせたんじゃあ、桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]も苦労だな」 「いえ。まあ、俺は別に。将軍ってのは、戦がなきゃ暇なものなんで」  陽子は笑った。それは真実でないと分かっている。陽子は最初、この世界に来て軍の規模の大きなことに驚いたが、内実を知って納得した。こちらには警察というものが存在しないのだ。警邏《けいら》も犯罪者の取り締まりも、秋官の指揮を受けて軍が行う。そればかりか、公の土木事業もまた軍の管轄になるのだった。民を徴用するまでもない事業では、官の指揮のもと、懲役に課せられた罪人と軍が工事を行う。王宮や都市の警備、貴人の警護と、戦のあるなしに拘《かか》わらず軍は忙しい。 「些少《さしょう》ながら褒美《ほうび》を遣《つか》わす」  陽子が言って茶器を差し出すと、桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は笑ってそれを押し頂いた。 「御酒ではないようですが、有り難く」  ひとしきり笑って、陽子は桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]に問いかけた。 「桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は泰王を知っているか? 有名な方だったようだが」  ああ、と桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は頷く。 「面識は当然、ありませんが。噂ぐらいなら。乍《さく》将軍でしょう、以前の」 「李斎は知っているか? もともと承州師の将軍だったということだが」 「いえ、さすがにそこまでは。──ああ、そう言えば、あの方の乗ってきた騎獣は元気になったようですよ」 「そうか、それは良かった」 「そうだな、俺は劉《りゅう》将軍のことは存じあげなかったんですが、騎獣を見ると優れた方なんだろうという気がしますよ。騎獣のほうの主人に対する忠義が篤《あつ》いし、騎獣自身もとてもよく馴らされている。馴らし込む、と言うですが。よほど良く面倒を見て、しかもきちんと主人として立つ──そうでないと、ああも馴らし込むことはできませんからね」 「へえ……」 「ただ、名前を聞いたことはないな。もともと、他国の将軍の名前なんて伝わってくるようなものじゃないですから。乍《さく》将軍は別格でしょう。そういうことだと思いますが」  ははあ、と桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]たいは心得た貌《かお》をする。 「乍将軍と自分を引き比べたでしょう、今」 「比べてもしかたがない。あちらは傑物のようだから」 「本当に傑物だったら戴が荒れるわけがないでしょうに」 「それを言っては酷だろう。泰王が荒らしたわけじゃないんだから。どうやら何か変事があって消息が知れないようだな。それを本人の落ち度にするわけにはいかないだろう?」  桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は少しばかり生真面目そうに首を傾ける。 「その変事とは?」 「謀反《むほん》があったようだ。偽王が立って、泰王も泰台輔も行方が知れない。分かるのはそこまでだな、李斎《りさい》がまだ本調子でないから」  そうか、と桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は呟《つぶや》いて、考え込むふうだった。陽子もまた、考え込んでしまった。詳細は分からないが、李斎が慶を頼ってくれたことは分かる。泰を救うために必死であることも。だが、慶は寄せ集めの朝廷だ──何をしてやる余力もない。 「結局のところ、評価ってのは他人が下すものですからね」  桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]が呟いて、陽子は彼を振り返った。 「……うん?」 「結果を見て他人が貼り付けるものでしょう。たとえ偶然にせよ、戦で全勝すれば常勝の将軍と言われる。常勝の将軍と言えば、優秀な将のように見えますけど、無能だけれどもたまたま負けたことがない、ってこともあるんじゃないんですか」 「泰王は過大に評価されていると?」 「ああ、そういう意味じゃありません。……ただ、勝てそうもない戦いは同輩に押しつけ、勝てる戦にだけ出てりゃ、常勝将軍になるのは容易い、ということです。常勝でありさえすれば、世間は負け知らずの将軍だと褒《ほ》めるし、一旦、常勝無敗の将軍だと評価されてしまうと、優秀な将に違いない、立派な人物で傑物だろうという思い込みが一人歩きを始める」 「それは……そうだろうが」 「けれども評価は結果を言い表したものでしかないでしょう。傑物という言葉は、乍将軍の──泰王の結果に対する評価であって、泰王の内実を示す言葉ではないと思うんですが。それで言うと、泰王は戴を荒らした時点で傑物でなくなったという言い方はできるんじゃないかな。……なんにせよ、他人と自分を比べてみても仕方ない。引き比べるのはどうしたって、他人への評価と自分の内実という比較にならないものになるに決まってるんですから」  なるほど、と陽子は苦笑する。 「……まあ、比べてみなくても、主上も良い王ですよ」 「へえ?」 「俺に言わせれば、行方不明になんかならずに玉座に収まっていて、ついでに半獣をちゃんと召し抱えてくれるのが良い王ですからね」  そう、半獣の将軍は澄まして言った。陽子は笑い、そして、 「桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]……もしもお前を戴へやったら、偽王を討てるか?」 「御冗談を」  桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は慌《あわ》てたように手を振った。 「そんなに弱いのか、我が禁軍は?」 「そういう問題ではありません。そもそも兵を出せるほどの余裕が慶にあるはずがないでしょう。軍を動かすってのは大変なことなんですよ。一軍だって一万二千五百人ですよ。兵卒がそれだけいて、派兵ということになれば、これに軍吏と馬や騎獣がつく。それだけの大所帯が、いったいどれくらいの飯を食うか、想像がつきますか?」  陽子はきょとんとした。 「そうか、食事か……」  仮に一万三千人として──と陽子は思う。故国流に一人当たり一食に米を最低一合と考えると三食で三合、それが一万三千人で、最低限の米だけでも一日当たり三万九千合。 「想像もつかない量だな。一食ハンバーガー一個と考えても一日三万九千個か……」 「は?」  なんでもない、と陽子は苦笑した。 「だから各地の夏官が兵站《へいたん》を持っているわけです。地方に乱があって派兵される時には兵站から補給を受けられる。しかし、それが他国の話で、しかも謀反の最中だというのなら、まず兵站は当てにできないでしょう。全部持っていかないといけないわけです。どうやって運ぶか以前に、そもそもそれだけの食料を一時に用意できますか?」 「慶では無理だろうな……」 「国中の兵站を空にして掻き集めようにも、そもそも兵站自体が最低限のものしか蓄えられないでいる有様ですからね。しかもそれだけの荷と兵を運ぶ船が慶にはありません。どうやって戴に行くんです?」 「なるほど……」 「そもそも他国に兵をやろうということ自体、慶では不可能です。第一、太綱に他国へ侵入しちゃいけないと決められているでしょう」 「侵入ではないだろう。別に戴を占領しようというわけじゃないんだから」  桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は首を傾げる。 「そうか……そういうことになるか」 「おまけにそれを言い出したら私はどうなる? 私は雁《えん》国の王師に偽王を倒してもらって、堯天に入ったんだぞ」 「それもそうですね」 「できるのは、泰《たい》王と泰麒《たいき》を捜すことぐらいか……」 「お二人の所在は」 「全く分からないようだ。──どうだろう? 捜索なら飛行できる騎獣を持った空行師《くうこうし》が一|両《りょう》あればどうにかならないか?」  桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は首を傾げる。 「二十五騎じゃ無理でしょう。せめて、一|卒《そつ》は欲しいところですね。百騎あれば、手分けして捜索ができますから」 「空行師が一卒か……」  それならば不可能ではないのだが。だが、官は賛同すまい。慶の内部ですら事欠いているときに、何事だと言うだろう。陽子は頬杖《ほおづえ》をつき、しばらく考え込んだ。 「……やはり、王が玉座にいる、いないは大きいだろうな」  陽子が呟くと、桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は表情を引き締めた。 「そうですね、かなり。泰王がどういう人物かはさておき、王が行方知れずでは戴の民は大変でしょう。しかもあの国は冬が厳しいところなので。こういう言い方は何ですが、亡くなったほうがまだしもかもしれません」 「亡くなったほうが?」 「王が亡くなったのであれば、いずれ次の王が立つわけですから。民はそれまでの期間を堪え忍べばいいと言う話でしょう。愚王の場合だっていずれは天が玉座を取り上げてくれる。それまでと、次王が立つまでの間を堪えればいい。亡くなってもおられず、しかも玉座にいないというのは、ある意味で最悪のことかと」       5  李斎《りさい》は夜半、微《かす》かな話し声で目を覚ました。 「……すごーくお腹が空いてたの」 「そう思ったわ。お茶も持ってきたから」 「嬉しい。一緒に食べていく?」  他愛のない会話に、李斎が軽く首を起こすと、枕辺にいた女御《じょご》が、驚いたように振り返った。牀榻《ねま》の入り口からは、娘が一人、身を乗り出すようにして顔を出している。 「ごめんなさい。起こしてしまいました?」  いいえ、と李斎は首を振り、 「ひょっとして、お食事も摂っておられないのか? 私のせいで?」  李斎が問うと、鈴《すず》は大きく手を振る。 「ちょっと、──ちょっと機会を逃《のが》しただけなの。祥瓊《しょうけい》が夜食を運んできてくれたから、大丈夫です」 「食べていらしてください。私は大丈夫ですから」  李斎が言うと、祥瓊と呼ばれた娘が、鈴に笑った。 「さっさと片づけてきなさいよ。その間、私がここについているから」  うん、と頷いて、鈴は牀榻《ねま》を出ていく。入れ替わるようにして、祥瓊が李斎の枕許に腰を下ろした。 「とんでもないことでお騒がせして申しわけありません。私は女史《じょし》で、祥瓊と申します」 「……いや。こちらこそ、女御《にょご》には大変なご迷惑をおかけしているようだ。私はもう、付き添いなどなくても大丈夫ですから」 「それは李斎様がお決めになることではなく、瘍医《いしゃ》が決めることでしょう?」  そう言って、祥瓊は笑む。 「お気になさらないでください。こちらこそ、人手が足りなくて、十分なお世話ができず、申し訳ない限りです」 「そんな……女御にはよくしていただいています」  言って、李斎は何となく目を逸らした。 「景王にも……景王は、とても誠実なお人柄のようにお見受けする」 「生真面目《きまじめ》で、莫迦正直《ばかしょうじき》なのは確かかしら」  くすりと祥瓊が笑うので、李斎は意外に感じて振り返った。 「金波宮《きんぱきゅう》の方々は……ずいぶん景王に対して気安くていらっしゃる」 「すっかりそういう気風になっちゃったみたいです。威儀も何もなくて、呆れてしまわれるでしょう?」 「いや……」 「泰王は、ずいぶん御立派な方だと伺っています。……今は行方が分からないとか。さぞご心配でしょうね」  はい、と李斎は頷いた。 「戴の民もどんなにか苦しいでしょう。しかも戴は冬の厳しいところだし……」 「戴をご存じか?」  いいえ、と祥瓊は首を振る。 「けれど、私は芳《ほう》の出身なので。芳の冬もとても厳しいんです。ひとつ何かが巧《うま》くいかなくても、全部冬にその皺寄《しわよ》せがきて、それが命に関わってしまうんです。戴は、そんな芳よりずっと冬が厳しいと聞きました」 「そう……そうです」 「芳も今は空位なのですけど、戴とは事情が違います。芳の亡くなった王は、国を荒らした方でしたし……」  言って祥瓊《しょうけい》はどこか寂しそうに微笑む。 「だから空位になって、民は少し救われた面もあるのですけど。でも、泰王はとても人望の篤い方だったと聞いています。そんな王を失くされるなんて」 「はい……」 「謀反《むほん》があったとか。……王朝の最初はどうしても、それまでに自分が掴《つか》んでいたものを失うまいと、焦《あせ》った佞臣《ねいしん》が暴れるものだから……」 「……それは、どうなのでしょう」  李斎《りさい》が呟くと、祥瓊は首を傾げる。 「確かに王朝の初期はそういうものでしょう。空位に乗じて専横していた者たちは、新王の即位に焦るものです。けれども私には、謀反の理由がそれだったとは思えない……」 「──? では?」  分からないのです、と李斎は答えた。焦った官吏が謀反を起こしかねないことなど承知していたし、李斎らも十分に警戒していた。 「なぜ……あんなことになったのか……」  ──主上は大変な賢帝におなりかもしれません。  感動したように言ったのは、李斎が承州から同行してきた側近の師帥《ぶか》だったか。 「三公も、こんなに素早く王朝が整った例はないって、感心しておられたそうです」 「だろうな」 「兵卒も、大変な王が立ったもんだって大喜びです。民も歓迎しているようですしね」  李斎は笑って頷いた。驍宗《ぎょうそう》はその出自が武人であっただけに、兵卒の人気が高い。驕《きょう》王は文治の王で、兵卒は比較的冷遇されてきたから一層だった。同時に、登極した驍宗が真っ先に驕王の御物《ぎょぶつ》を処分し、冬に向けて各地の義倉《ぎそう》に備蓄を送ったことで、民も大いに喜んでいた。戴の冬は厳しく、食料と炭の備えが尽きれば即座に生命に係わる。驕王の浪費によって空になった義倉に物資が運び込まれ、民は歓声を上げている。 「新しい、いい時代が来たんだって感じです」  そう言って師帥は笑った。  李斎もまた、同じように感じていた。民の喜ぶ声が聞こえる。市中に出ても、王師《おうし》に対する民の対応は温かく、新王に対する思いの丈が知れた。民のみならず、宮中を行き交う官吏もまた生き生きとした表情をしていた。  だが──疾走する車駕《くるま》は軋《きし》みを上げるものだ。州師将軍として朝廷に加わり、李斎《りさい》は晴れやかであるはずの朝廷のそこここに、奇妙な翳《かげ》りがあることに気づいた。その正体を理解したのは、冬至《とうじ》の郊祀《まつり》が終わった頃のことだった。 「近々、台輔には漣《れん》に行ってもらう」  驍宗《ぎょうそう》は側近を集めてそう言った。 「漣までは往復で一月《ひとつき》余り、その間に冬狩《とうしゅ》を行う」  李斎は最初、言葉を額面通りに捉えた。新年の前後は重大な公務が少ない。その間に大規模な狩猟を行うのだろう、と。確かに朝廷は整いはしたが、ずいぶんと暢気《のんき》なところのある方だ、と内心で驚いたのを覚えている。同様に思ったのだろう、集まった者たちの間に、困惑したような空気が流れた。それを破ったのは、禁軍の将軍を務める阿選《あせん》だった。阿選は妙に低い声で問うた。 「──獲物は」 「豺《いぬ》だ」  短い言葉に、李斎はぎくりとした。 「先王の許で政《まつりごと》を私し、専横を極めた狡吏《かんり》を処断しなければならない。迂闊《うかつ》に野に放すわけにはいかぬ。解き放てば処分を恨んで火種《ひだね》になる可能性が高く、連中が悪辣な手段をもって溜《た》め込んだ私財は、これからの戴になくてはならないものだ」  粛正のことを言っているだと気づいて、李斎は慄然《りつぜん》とした。同種の感慨を滲《にじ》ませた、呻《うめ》きとも溜息ともつかない騒《ざわ》めきが室内に満ちた。 「郊祀《まつり》が終わって、あとは新年を迎えるばかりだ。そこに使節が立って漣へ行く。禁軍、瑞州師の主だった将軍もそれに同行するとなれば、連中はおそらく気を緩めるだろう。そこを一網打尽に処断する」 「──その間、台輔を国外へお出しになると?」  阿選の問いに驍宗は頷く。 「これは蒿里《こうり》には見せないほうがいいことだろう」 「しかし、後々お耳に入りませんか」 「入れないようにする。これからここで話すことは、蒿里には勿論、この件に関与しない誰に対しても悟《さと》られてはならぬ」 「では、内々に処断を行うと……?」  そんな、と李斎は声を上げそうになった。賊臣《ぞくしん》の整理が必要なのは分かる。だが、罪を明らかにして公に処罰するのでなければ、それは一種の私刑だ。 「勿論、全てに置いて正式な手順を踏む。ただし、その一切は伏せておかねばならない。この件に係わる官府は、担当する官を厳選して組織せよ。それ以外の官吏には、一切これに係わらせてはならない。蒿里《こうり》が戻ってきたときには、全てが終わっている。すこしばかり官吏の顔ぶれが変わっており、何となく人数が減ったような気がするだけだ」  それでは泰麒を騙《だま》すようなものではないか──言いかけて李斎は思い直した。確かに麒麟《きりん》にとっては、知らないで済んだほうが幸いなことなのかもしれなかった。麒麟はその性、仁にして、流血を嫌い、非道《ひどう》を厭《いと》うと言う。事実、血の穢《けが》れによって病《や》むことさえあった。だからこれが泰麒に対する驍宗の温情であることは確かなのだろう。  無理にも納得しようとした李斎だったが、あの、と声を上げた者があった。先頃|大司寇《だいしこう》に就任したばかりの花影《かえい》だった。 「それで宜《よろ》しいのですか? ──畏《おそ》れながら、台輔は聡《さと》くていらっしゃいます。妙に隠すよりも、本当のところを申し上げたほうが」  ならぬ、と驍宗の返答は短く、反駁《はんぱく》の余地がなかった。  続いて計画の概要を聞かされて、李斎はさらに寒気に似たものを感じた。悪辣《あくらつ》な官吏を一気に掃討する、その恐ろしいほどの迷いのなさ。そう──もともと驕王《きょうおう》の寵臣であり、それ以後も麾下を朝廷の端々に入れていた驍宗にすれば、誰が何をしており、何をしていなかったのか、問題のある官吏は誰で、どう処罰すべきなのかは了解済みの事柄だったのだろう。驍宗は登極したときから、誰をどう排除してそれをどう埋めるかの図面を、すでに持っていた。そして、それらの佞臣《ねいしん》が取り除かれたときに何が起こるかも、驍宗は十分に予測できているに違いない。事実、この冬狩《とうしゅ》は、国賊を取り除くだけではなく、そのことによって雌伏した敵を揺すり起こし、洗い出そうという奸計《かんけい》の一環だった。逆臣や邪《よこしま》な野心を押し殺してきた者、巧妙に悪行を隠してきた者は、粛正を見て調子づき──あるいは焦《あせ》り、動き始めるだろう。  この方は、と李斎は驍宗を見た。 (新王が登極して十数年は──下手をすれば数十年はかかることを、一年で片づけてしまおうとしている)  ふいに悪寒《おかん》を感じた。それまで李斎は、驍宗に対して何の不安も抱いてはいなかった。人望篤い名将、李斎自身も驍宗の為人《ひととなり》を高く評価していたし、尊敬の念を感じていた。だが、この時初めて、不吉な予感とでも言うべきものを感じたのだった。  それは決して驍宗の計画に不安を覚えたのでも、王としての力量に不安を覚えたのでもなかった。ただ──これほどにも強い光輝は、それだけ濃い影を落とさないではいられないだろう、と思わずにはいられなかった。  そして、それから少し経ってからだったと思う。花影が李斎の自邸を突然、訪ねてきた。細かな雪の降りしきる夜のことだった。       6 「雪になりましたね」  官邸の客庁《きゃくま》に案内されてきた花影《かえい》はそう言って、李斎《りさい》に一礼した。 「お寒かったでしょう」  李斎は火炉《ひばち》の傍の椅子を勧めた。 「にもかかわらず、拙宅までお出ましいただき、恐縮に存じます」  とんでもない、と李斎に向かって花影は首を振った。 「こちらこそ、突然おじゃまして申しわけありません。李斎殿と一度、ゆっくりお話しさせていただきたかったのです。唐突に思い立ち、不躾《ぶしつけ》な使いを出しましたのに、快諾をいただけて嬉しく思います」  光栄です、と李斎は笑って、家人に用意させた酒肴《しゅこう》を勧めたが、花影はどこか上の空の様子だった。白い顔には心細げ表情が浮かび、しかも寒々しげに見えた。見える歳の頃は四十半ば、外見に置いても実年齢に置いても花影は李斎より年上だったが、にもかかわらずこのときの花影は、迷い子のような顔をしていた。単純に李斎と誼《よしみ》を得るために訪ねてきたようには到底、見えなかった。 「失礼ですが、花影殿はどうして私をお訪ねくださったのですか?」  花影は、物思いから覚めたように李斎を見た。 「ああ……いえ、これという用があったわけではないのです。本当に一度、ゆっくりお話をしてみたくて……」  花影は言ったが、最前からろくに喋《しゃべ》ってはいなかった。それに自らも気づいたのか、花影は恥じ入ったように俯く。 「わざわざお時間をいただいて、お宅にまで押し掛けるようなことではありませんね。……とんだ失礼を」  李斎は首を傾ける。 「明《あ》け透《す》けな奴よ、とお思いにならないでいただきたいのですが──ひょっとして、花影殿には、何かお悩みがおありですか?」  花影は胸を突かれたように顔を上げ、そしてふいに、泣きそうに顔を歪《ゆが》めた。 「失礼な申しようでしたら、お許しください。私はどうも、婉曲な言い廻しというものに疎《うと》くて」  いいえ、と花影は首を横に振った。 「とんでもありません。失礼は私のほうです。実を言えば、ろくにお話もしたことのないお方を訪ねて、何をどう申し上げたものか、考え込んでおりました。単刀直入に訊いていただけて、救われた心地がいたします」  言って微かに笑い、花影《かえい》はやはりどこか頼りなげな様子で酒杯の縁を指で撫でた。武人の李斎《りさい》とは違い、きちんと手入れされ、磨かれた爪が無骨な陶器の縁を滑《すべ》る。微かに震えているようにも見えた。 「お寒いようですが。もっと火炉《ひばち》を持ってこさせましょうか?」 「いいえ。決して寒くは」  言って、花影は震える指先に気づいたのか、慌《あわ》てたようにその指先をもう一方の手で握《にぎ》りこんだ。 「……寒いのではありません。李斎殿、私は怖いのです」 「怖い?」  花影は頷き、李斎をまっすぐに見る。心の底から怯《おび》えている貌《かお》だ、と李斎は思った。 「主上が登極なされ、王宮は目まぐるしく変わりました。本当に何という方でしょう──こんなに早く朝廷が整うなど、聞いたことがございません」  李斎はあえて同意せず、黙って先を待った。朝廷の端々で始終聞く褒《ほ》め言葉だが、微かに震えを含んだ声音からして、花影がそれを決して喜んでいるわけではないことは明らかだった。 「……こんなに急で良いのでしょうか」  花影は、ぽつりと零《こぼ》した。 「……急?」 「朝を革《あらた》めることは必要です。旧悪を廃することも。けれども、それはこんなに急がねばならないことなのでしょうか。もっと、ゆっくり時間をかけて、十分に吟味して穏《おだ》やかに変わっていくのでは、なぜいけないのでしょう……?」 「──性急すぎると?」 「そんな気がしてならないのです。いいえ、決して主上を批判しようというわけではないのですが。ただ、私自身、自分のやっていることが恐ろしくてならないのです。どうしても何かを失念している気がします。忘れてはならない何かを置き去りにしているような気がして仕方がないのです。何もかもがこんなに急速に変わっていっていいものだろうか──と、どうしても」  李斎は頷いた。無理もない、という気がしていた。  花影はもともと、藍《らん》州の州宰《しゅうさい》で、情理に篤い名宰相だと言われていた、と聞いている。何度か顔を合わせた限りでは、確かに慈愛深く、礼節を重んじる穏やかな人柄のようで、思慮も深く、目配《めくば》りも利いていた。驍宗が六官長の一に抜擢したのも頷けるが、ただ、あれで大司寇《だいしこう》が務《つと》まるのか、という声も李斎の耳には聞こえてきていた。秋官の主たる仕事は、法を整備し罪を裁き、社会の安寧を築くことにある。秋官は同時に外交の官でもあったが、花影は秋官にしては情けが深過ぎはしないか、と危惧する声が確かにあった。  秋官は秋霜烈日《しゅうそうれつじつ》の官、刑罰や威令、節操に厳しいこと、秋の霜や夏の激しい陽脚《ひざし》が草木を枯らすにも似ることからこう言う。確かに、李斎《りさい》の目の前に座っている女は、迷い子のように頼りなげで、彼女のどこからも、秋官としての厳しさ激しさのようなものは感じられなかった。 「……私はずっと、地を治め、民に福利を施すことでやってきました。人に罰を与えることには慣れていないのです。慣れの問題ではないことは、重々承知しております。努めとあれば、果たすだけ──けれども、私は秋官には凡《およ》そ向かない人間だからこそ、これまで私に秋官になれと命ずる方がいなかったのではないかと思うのです」  なのに、と呟《つぶや》いて、花影《かえい》は視線を落とした。再び、震える指先が酒杯の縁を彷徨《さまよ》い始めていた。 「これから、たくさんの官吏を裁かねばなりません。それも、短期間のうちに一気にやってしまわなければ。私は怖いのです。たとえ罪人とは言え、人を裁くのにこんなに性急でいいのかと……」  李斎は微笑む。 「どうぞ、御酒を。少しは身体が温まります」  頷いて言われるままに酒杯を口に運ぶ花影を、李斎は見守った。 「……花影殿が不安にお思いになるのも無理はないのかもしれません。確かに朝廷は目まぐるしく変わっていますし、旧悪の処断は新王朝につきものですが、これほど一気呵成《いっきかせい》に行おうという例はないでしょう。主上は呆れるほど思い切りの良い方です」  李斎が苦笑してみせると、花影も僅かに口許を綻《ほころ》ばせる。 「我々武人は、期を重んじます。ここだという決断の為所《しどころ》があり、その時には迷わず果敢でいなければならぬと、そんな風に考えるものなんです。戦に於いては、慎重に吟味して決を下す余裕などないことが多い。なまじ慎重に構えれば、みすみす好機を逃す結果になりかねません。ですから、主上の決断は納得できるのです。確かにここが好機なのだし、行動を起こすべき時なのだ、ということは分かりますから」  言って李斎は微笑んで見せた。 「もっとも、自分でも同じように決断できるかと言われると、それは疑問なのですが。事が事だけに迷い、ぐずぐずと時間をかけて泥沼を作ってしまう結果になるのじゃないでしょうか。そこが私などのいたらないところです」 「では、李斎殿は不安を感じたりなさらないのですね?」  李斎は僅《わず》かに返答に詰まったが、多分それは花影に気づかれずに済んだと思う。 「……不安に思うようなことはありません。よくぞここまで一気に決断なさる、と驚嘆はいたしますが。きっと、主上には迷わず決を下せるだけの確信がおありなのでしょう。それおありになるのであれば、一気に旧悪が取り除かれるのは、決して悪いことではありますまい。朝廷が早く整えば整うほど、民が潤うことも早くなるのですから」 「それは……ええ、分かります」  花影《かえい》は俯く。 「ですが、その確信が……私には、どうしてそこまで迷わずに確信を抱くことがおできになるのか、それが見えないのです。決して、主上を信じないわけではないのですが……」 「花影殿は、主上とはこれまで」 「いいえ。何の御縁もございませんでした。お噂だけは聞いておりましたけれども」  言って、花影はやっと微笑んだ。 「ですから、秋官長に就けと宣旨を戴いたときには、本当に驚きました。私のような者の存在をどうしてご存じだったのかと──」 「主上はそういう方ですから」 「李斎《りさい》殿は、以前からの麾下《ぶか》でいらしたのですね?」 「麾下といえますかどうか──」  李斎が驍宗《ぎょうそう》に出会ったのは、蓬山《ほうざん》でのことだった。驍宗と同じく昇山《しょうざん》した李斎は、そこで初めて噂に聞こえた乍《さく》将軍に会ったのだった。昇山のために黄海《こうかい》に入る者たちは、ほとんどが集団を作り、隊列を組んで黄海を越える。だが、驍宗はその集団の中にいなかった。手勢《てぜい》だけを連れて黄海に入り、独自に蓬山へと向かったからだ。 「ですから、蓬山に到着してから、初めてお目に掛かったのです」 「まあ……でも、隊列を離れて黄海を往かれるなんて、危険なことではないのですか?」 「本来は危険なことなのですが。ただ、主上にとってはさほどのことでもなかったのでしょう。後に聞いたところでは、主上は驕王の頃、三年ほど仙籍を返上し、禁軍を退いておられたことがあったとか。その時に黄海に入ってらしたのだそうです。黄海には騎獣を捕まえることを生業《なりわい》にする者がいるのですが、その者たちの徒弟《でし》におなりだったそうですよ」 「……徒弟、ですか? 禁軍の将軍が」  花影は驚いたように目を丸くする。李斎は軽く笑った。 「そういう方なんです。何でも騎獣を自分で捕まえて、馴《な》らせるようになりたかったのだとか。昇山の時にも狩りをなさりたかったということで、隊列の中にはおられませんでした。ですが、昇山するために驍宗様が我々と同時に黄海に入った、とは聞いておりましたし、だとしたら自分の出る幕はなさそうだ、と思ったものです」  李斎が苦笑すると、花影は口許を押さえた。 「ひょっとして、失礼なことをお訊きしてしまいましたでしょうか」 「一向に。……ですから麾下というわけではありません。けれども蓬山では、幸い、驍宗様と台輔、お二人に心易くしていただきました。それが御縁で目を掛けていただけるようになったのです」  禁軍の将軍と州師の将軍、身分の差はあったが、麾兵《ぶか》だったわけではない。なのでむしろ同輩のように接してもらった。驍宗《ぎょうそう》が登極してからは早々に鴻基《こうき》に招かれ、驍宗の麾下の者たちとも引き合わされた。中には昇山の時に同行していて、すでに顔見知りだった者もいたし、瑞《ずい》州師の将軍に抜擢されてからは、ごく自然に麾下の者たちと肩を並べてきた。 「こうして、改めて申し上げると妙な気がしますね。私自身も、主上の麾下であるような、ないような」 「そうだったのですか……」  花影《かえい》は軽く息を吐いた。 「では、私の直感もあまり侮《あなど》ったものではないのですね。──いえ、どこかしら李斎《りさい》殿は麾下らしくない気がしていたのです。もともと主上に従ってきた、そういうのとは、少しばかり違うように感じられて」 「そうですか?」 「ええ。ですから今日も李斎殿をお訪ねしてみようと……。他の方々には、怖いなどとは、とても言えなくて。何が怖いことがあるのだ、と一蹴されてしまいそうな気がしたのです。ただ、李斎殿は少し違うような気がして。同じ女だからなのかもしれませんが」 「嬉しく思います」  李斎はそう答えた。花影の言い分は不当ではない。驍宗の麾下だった者たちは、長い間、驍宗の側近くに仕え、驍宗の為人《ひととなり》も考え方もよく分かっている。これまでに培《ちつか》われた篤い信頼があり、太く縒《よ》り合わされた絆《きずな》があった。その繋がりがあまりに強固だから、時折、疎外感を感じることがある。李斎でさえそうなのだから、花影は一層そうだろう。自分だけが異分子で、違和感を抱いているという感触を持っていて当然なのだろう、と思う。 「怖いのは、心細いせいなのかもしれません」  花影は苦笑まじりにそう零《こぼ》した。 「主上が何かおっしゃると、李斎殿を首《はじ》めとする皆様は、それだけで意を察したように了解なさる……そういう気がするのです。自分だけが主上の意図を理解できない。何もかも呑み込んだふうの皆様の顔を、おどおどと見回しているうちに、皆様、分かり切ったこととして先に進んでしまわれるんです。いつもいつも、置き捨てられるようで……」 「皆が主上の意を了解しているわけではないと思いますが」 「……そうなのですか?」 「ええ、多分。私などでは、主上のお考えが分からないこともあります。けれども、主上がそうおっしゃるのだから、それでいいのだ、と──そう思っているだけなのです」 「信頼していらっしゃるのですね」  花影の声音は、少しばかり寂しげで、同時に何かを危惧する響きを伴っていた。 「少し違うかもしれません。別に無条件に信じているわけではないつもりです。巧く言葉にできないのですが……私と主上は違うのです」 「違う?」 「私は主上と最初にお会いして、器《うつわ》が違うとは、こういうことなのだ、と思ったことがあります。何というか──物事を見る目が違うのです。私などには考えもつかないような場所から物事を見ている」  花影《かえい》は少し考え込み、そしてふいに思い当たったように顔を上げた。 「私は驕王《きょうおう》の治世が長くはないことを分かっていましたが、だからと言って、その先の必要なことなど考えてみたことがありませんでした。──そのように?」 「ああ、そうです。恥ずかしながら、私もそうなのです。驕王の治世の長くないことは分かっていました。戴はこれから荒れるだろう、不逞の輩《やから》が専横を開始するだろう、未来の予測はできました。けれども、その先には考えが及ばなかった。──考える必要を感じなかった。と言うより、要不要すら念頭になかったのです」 「分かります」 「主上のなさったことを見れば、そうだ、と思う。国は傾く。ならばその傾きを止める人材が必要なのだし、それだけの人材を育てるにも、要所に配するにも時間がかかる。国を憂うなら用意しておくべきだったと、今になればあまりに明らかなのですが、当時は不思議なほど、それを考えてみることがなかったのです。予測はしていたのに、その先は、存在しないかのように念頭になかった」  花影は俯《うつむ》く。 「けれども、主上には見えていた……」 「そういうことなのだと思うのです。そして、それが器量の差というものだと。私の考えが及ばなかった、足りなかった──どれも言葉は正しくありません。考えるきっかけがあれば、私にも分かったことでしょう。だが、私にはそのきっかけを見いだすことができなかった」  言って李斎は、自分自身に向けて頷いた。 「ですから、主上の意が見えないときにも、きっとそうなのだろうと思うのです。私には見えない何かが見えていて、主上には確信がおありなのだろうと。明らかな疑問、明らかな過《あやま》ちを感じれば、私も異論を申しますが、特に疑問はない、過ちも感じない──けれどもよく分からない、そう言うときには、そう思って納得しています。結果が出たとき、なるほど、こういうことだったのかと私にも分かるのでしょう」  そうですか、と花影は心許なげに頷き、そうして改めて不安そうに李斎を見る。 「では、台輔についてもそうお思いですか?」  ──痛い所を突かれた、と李斎は思った。 「それは……」 「これからの波乱を台輔のお耳に入れたところで、お心を痛めるだけだ、ということは分かるのです。ですが、そう決めてかかり、国外へ追いやってしまうのは強引に過ぎないでしょうか。ご自身がおられない間に、粛正が行われたことを台輔が知ったら。粛正の事実にお心を痛められるだけではなく、それに際してご自分が何もできなかったこと、助命や温情を嘆願する余地もなかったことに傷つかれはしないでしょうか」  李斎《りさい》は沈黙した。──泰麒《たいき》の性格から考えて、何もできなかった自分を責めるのではないかという気が李斎はしていたし、同時に、それをさせないために自分は国を出されたのだと気づけば、いっそう傷つくのではないかという気がしていた。 「私には、台輔のお気持ちを言い訳にしていながら、主上の選択は台輔の心情を置き去りにするもののように見えます。……主上のなされようは、全てそのように思えてならないのです……」 「花影《かえい》殿」  花影は悲しげに笑った。 「……結局、批判を口にしてしまいましたね……。私にはそう見えるのです。主上は心服する臣下だけを引き連れて、強引な改革を急ごうとしているように思えます。台輔のお気持ちが置き去りにされているように、多くのことが置き去りにされている、と感じる……」  ではその置き去りにされているものとは何だ、と問うたところで、花影には答えられないのだろう、という気が李斎にはした。花影はただ、この急激な変化そのものが恐ろしいのではないだろうか。多分、花影の危惧には確たる根拠があるわけではない。驍宗《ぎょうそう》に対する不安ではない、驍宗が作る急流に乗って流されている自分が怖いのだ。同じような不安を感じている者は多いだろう。急激な変化を好まない──それどころか本能的に恐怖心を抱く人間はいるものだ。同様に、驍宗の果敢さ、迷いのなさに怯《おび》える者もいるだろうし、意味もなく反発する者もいるだろう。  ──こういう形で軋《きし》む。  王に対する反意は、普通ならば自らの処遇への不平、政治手腕に対する危惧、あるいは王の為人《ひととなり》への不安から生じるものだ。だが、花影は自身の処遇に不平があるわけでも、驍宗の手腕に危惧を抱いているわけでもない。花影の言は、驍宗の為人に対する不安のようにも聞こえるが、多分、それは真実の全てではない。根源に横たわるものは花影自身の中に存在している。急激な変化に対する無条件の恐怖心。  強い光輝が落とす濃い影。驍宗の落ち度ではなく、驍宗への直接的な不満でもない。ならば分かりやすく、読みやすい。前もって手当てをすることも可能だが。  それはどこにどういう形で潜んでいるか分からない。その読み難さが怖い、と辞去していく花影を見送りながら、李斎はそう思っていた。       7  その件以来、李斎《りさい》は花影《かえい》と親しくなった。驍宗《ぎょうそう》の臣としては新参の花影と、花影ほどには新参でないが麾下とも言えない李斎、同じ女だが方や文官で方や将軍という、似たようで似ていない居所が、互いに心安かったのかもしれない。  相変わらず花影は迷い子のような顔をしていた。特に泰麒《たいき》が漣《れん》へと向かい、本格的に冬狩《とうしゅ》が始まると、いかにも憂鬱《ゆううつ》そうで、危うげなものさえ感じさせた。  多くの官吏がその罪によって刑場に引き出されていった。最終的に罪を定め、罰を下すのは花影だ。そして花影の裁きは甘い、と批判する声が関与する官の間で上がっていた。人を裁かねばならない、心を鬼にして裁いても、影で手ぬるいと言われる──その一方で、民や事情を知らない官吏たちは声を揃えて秋官を責める。先王の許で専横を恣《ほしいまま》にしてきた佞臣《ねいしん》たちをどうして放置するのか、咎《とが》めもなく野に放すのか、と厳しい批判が上がっていた。花影はそれらの苦痛に憔悴しきっているように見えた。 「なぜ私が秋官なのです。李斎、私には主上のお考えが分かりません」  花影は、連日の激務でほとんど住居のようになった大司寇《だいしこう》府で泣いた。慰める言葉も持てず、李斎は夜の外殿へと出た。雲海の上は下界よりも暖かいはずだが、それでも深夜の庭院《にわ》は霜で凍りつくほど寒い。穏やかな風が吹いていた。李斎はその中に血の臭気を嗅いだように思う。実際のところ──王宮の中でそんな臭いがする道理もないのだけれど。  官吏を捉え秋官に引き渡し、そして刑場へと引き出し、場合によってはその骸《むくろ》を秘密裏に処分するのは、李斎らの努めだった。秘しておかねばならないゆえに、李斎はそのために選んだ最低限の麾兵《ぶか》と共にその任に当たっている。少数でのことだから、李斎自身も手を汚さないわけにはいかなかった。場合によっては死体を埋める穴さえ掘る──その汚臭が身体に染みついているような気がする。  李斎はそれでもいい。武人だから慣れている。だが、花影は。  李斎は何となく内殿のほうへと向かい、そして正寝へ続く門殿を見やって足を止めた。王師六将軍は、いつでも正寝へ立ち入って良いと驍宗《ぎょうそう》の免許を受けている。だが、驍宗に会って何をどう訴えればよいのだろう。心を決められず、結局李斎はすごすごと戻り、内殿の園林《ていえん》で戻る気力も失って路亭《あずまや》の片隅に座りこんだ。  ──花影が哀れだ。  肩を窄《すぼ》め、溜息を落としていると、背後から声が掛かった。 「疲れているようだな」  その声に居ずまいを正す。振り返ると、驍宗だった。 「いえ──そういうわけでは」  坐ってもいいか、と問われ、李斎《りさい》は無言で一礼した。 「寒くないのか?」 「……冷えます」  とても寒々しい気分がしていた。この気分に比べれば、石案《つくえ》に降りた霜などは冷たいうちに入らない。 「李斎は花影《かえい》と、このところ親しいとか」  驍宗《ぎょうそう》に言われ、李斎はその場から逃げ出したいような気がした。花影に対しては、いずれ叱責《しっせき》があるだろう。だが、今それを李斎に言って欲しくはなかった。 「ずいぶん気安いと聞いているが」 「……はい」 「では、李斎から一度、訊いてもらえるだろうか。──少し、役目を離れてみるか、と」  李斎は目を見開いた。 「それは……花影を更迭するということですか」  まじまじと見返すと、そうではない、と驍宗は苦笑した。 「働きに不満があるわけではないが、花影には過大な負担をかけているようだ」 「……花影は負担に思っているわけではないと思います。それが努めですから」  言ったのは、大司寇《だいしこう》から降ろされるということは、花影が驍宗の朝廷から弾き出されることを意味するからだ。官吏にとってそれは堪え難い挫折だ。 「懸命に努めをこなそうとしています。……批判の声もあるようですが、多分、花影は元々あまり秋官に向いていないのでしょう」  だろうな、と驍宗は言う。李斎は震えた。寒いのではなく、腹立たしかった。 「お分かりになっていたのなら、なぜ花影を秋官にお命じになったのですか」 「……大司寇は、たいそう罪人に甘いとか」 「ええ、ですから向いてないと」 「だからこそ適任だと思ったのだが」  李斎は気勢を殺《そ》がれて言葉を失った。 「罪人に甘い花影であれば、良い重石になってくれるだろうと思ったのだ。だが、花影にしてみれば堪《たま》るまい。よほど辛いようなら、役目を返上して構わない。春官《しゅんかん》か地官《ちかん》か──そのあたりに席を用意しようと伝えてくれるか」  では、と李斎は思った。驍宗は自分の行う改革が急峻すぎることを理解しているのだ。 「人を裁き、罰することは、得てして歯止めが利かなくなるものだ。坂を転がるように加熱していく。だが、今はとにかくやらねばならない。だから、向いてない秋官のほうが向いていると思ったのだが」 「……ええ……確かに」 「だが、花影は辛いようだ。せっかくの有能な官吏を、こんなことで潰《つぶ》すのは忍びない。私から退《しりぞ》いても良いと勧めれば、花影は叱責だと思うだろう。花影と親しい李斎の口から先に伝えてもらったうえで、花影と話し合ったほうが良いと思う」  李斎はふと、肩の重荷が外れたような気がした。深々と息を吸い、吐いた。 「……もう少し、ゆっくりと進めることはできないのでしょうか。花影は武官ではありません。いろんなものを懸案して、慎重に事を進めるのが本分です。そうすれば花影も少し、落ちつくと思うのですが」 「とりあえず、蒿里《こうり》が戻ってくるまでに、大凡《おおよそ》の見当をつけておかねばならない。蒿里が漣を出たと青鳥《しらせ》が来た。残された時間は半月しかない」 「どうしても、台輔のいらっしゃらない間でなければならないのですか?」 「そう思っている」 「ですが──戻っていらしてから、お耳にはいることもあるのでは。粛正の事実がある以上、それがいずれ伝わることは止められません。後からお聞きになれば、いっそうお心を痛められるのではないでしょうか。それよりも事前に耳に入れて差し上げたほうが」  麒麟《きりん》は、と驍宗《ぎょうそう》は苦笑した。 「民意の具現だという。──ならば、民の目から隠すべきことは、麒麟の目からも隠すべきだろう」 「そうでしょうか。……いえ、確かに台輔にとっては、見たくも聞きたくもない種類のことでしょうが。ただ、民の目から隠す、というのはどうでしょう。民が粛正の事実を知れば恐れるのは確かでしょうが、驕王の許で加虐に荷担した者には懲罰が必要です。民は自らを虐げてきた者たちが罰されたことを知りたいのだし、だからこそ今も、秋官は何をしているのか、という声を上げております。不満の声はともかくも、知らせてやらなければ、民も区切りをつけられないのでは」  王朝には終わりがある。王が斃《たお》れた瞬間がそれだ。だが、民の苦難には区切りがない。終わったという明確な境目がないのだ。傾いた王朝は民に苦難を強いる。王が斃れた後の朝廷は官吏の専横を許す。新王が登極しても、当初は波乱に満ちているものだ。民の苦難は、即位礼を境に終わるわけではなかった。人心のためにどこかで悪しき時代は終わったのだ、という区切りが必要だし、それに最も適した機会は即位礼から続く王朝初頭の一時期だろう。新王が即位し、先王の時代の病巣が取り除かれる。両者が一対となって、民に苦難の時代が終わり、全てが正される時代が来たのだと知らしめる。 「そうなのかもしれない」 「では──」 「だが、私は蒿里にこれを見せたくない。あれはまだ小さい。しかも流血を恐れる。麒麟だから」 「台輔のお気持ちをお考えになるのでしたら、御自身がいない間に恐ろしい出来事があったこと、それをお知りになったときのお気持ちを考えて差し上げるべきではないでしょうか。後からその事実を知り、何もできなかったこと、何もさせないために国を出されてしまったことをお知りになってしまったら、台輔は」  出過ぎか、と李斎《りさい》は思ったが、驍宗《ぎょうそう》は頷いた。 「さぞ悲しむだろうな。……だが、そういうことではないのだ」  李斎は首を傾けた。 「蒿里《こうり》は時に、私に対して怯《おび》えるふうを見せる。私にはそれが、民の不安に見える」  李斎ははっとして驍宗を見返した。 「麒麟《きりん》は民意の具現だという──それは、こういうことなのではないかと思うことがある。戦乱や流血を恐れる、それが民というものではないのだろうか。先王は文治の王だった。文治の王ゆえに、その末世にもさほどに惨《むご》い振る舞いがあったわけではなく、ただずるずると腐敗してきた。そこで人心を刷新《さっしん》するには武断の王が立つのが最も効果的なのだろうが、民は同時に不安だろう。武断の王は果敢だが、道を逸すれば怖い。──怖いという不安を、蒿里の眼差しが映《うつ》しているように見える」  この人は──と、李斎は思い、その先の言葉を見失った。今の気分をどう表現すればいいのか分からない。並外《なみはず》れている、とも言える。あるいは、常態を逸している、とも。あの小さく愛らしい子供を、そんな目で見ているのか、という気がした。 「私は今回のこれを、蒿里に見せたいとは思わない。──ならばきっと、民の目からも隠すべきなのだろう。それを量るために蒿里の存在はあるのだと思う。民の信任は、まだあれほどに小さい……」  はい、と李斎は頷いた。同時に、やはり驍宗は違う、と感じていた。  李斎の目には、麒麟はただ小さく稚《いとけな》い子供に見えていた。新王を選ぶという、大任を果たしたばかりの無力で非力な子供に。だが、驍宗にとってはそうではないのだ。泰麒は依然として重大で巨大な何かの具現であり、愛玩して良しとすることは許されない何かなのだ。勿論、そうに決まっている。泰麒は子供ではない──麒麟だ。いつもこうやって説明されて初めて、分かっていて当然のことに気づく。 「今回のことは、蒿里には知らせない。民にも、だ。可能な限り秘密裏に迅速に行い、何が起こったのかを決して悟《さと》らせてはならぬ」 「……畏《かしこ》まりました」  李斎が一礼すると、驍宗は頷き、立ち上がった。李斎はそれを見送り──そして花影《かえい》の許へと戻った。花影は先ほどとは別の意味で泣き崩れた。気が緩んだのだと思う。ひとしきり泣いて、花影はどこか晴れ晴れとしたように笑う。 「李斎が、主上は自分とは違う、と言っていたのがよく分かりました。そう──私にも納得の仕方が分かったような気がします」 「私も改めて再確認しました」  李斎はそう、苦笑した。  以来、花影からは肩の力が抜けたように見えた。花影と驍宗の麾下との間にあった温度差のようなものが均《なら》され、花影は驍宗の麾下に見えるようになった。  その前後の頃からだったと思う。似たような変化が、あちこちで見受けられるようになった。  ちょうど花影が不安を漏《も》らしたのと時期を同じくして、あちこちで表立って不安の声が聞こえるようになっていた。花影と同じく驍宗のやり方に馴染《なじ》まない者、性急さに不安を覚える者は、李斎が想像した以上に存在したようだった。だが、その声が減っていった。  少しずつ、朝廷はひとつに纏《まと》まっていった。──そのように見えた。  李斎にはそれが怖かった。  李斎の不安を言葉にすることは難しい。強《し》いて言うなら、極めて優《すぐ》れていることは、極めて悪いことと実は同じなのではないか、という不安だった。突出しているのはどちらも同じ、ただ突き出るその方向が逆だと言うだけのことなのでは。極めて獰悪《どうあく》な王が災厄を招くように、驍宗もまた災厄を招きはしないだろうか。  朝廷はとりあえず落ちつき、纏まりを見せている。驍宗の武断に対する危惧、性急さに対する不安や果敢なやり方に対する畏《おそ》れは、とりあえず取り除かれたということのようだった。泰麒が戻ってくるまでに、問題のあった官吏の整理も済んだ。その巨悪が取り除かれたことで動きだすであろうと思われるあらゆるものには監視がつけられ、用意がなされた。麾下とそうでない者の間にあった温度差、それに由来する軋轢《あつれき》も治まったように見えた。  これで問題はないはずだ──にもかかわらず、李斎は何かを見落としている、という不安を抱かずにいられなかった。  他にも何か災厄の種子が水面下に隠されてはいないか。  李斎にはそんな気がしてならなかったし、事実、その者は滑らかに見える水面下から、ほとんど唐突に現れたのだった。 [#改ページ]       ※  彼が自分の身に起こったことを把握するまでには、かなりの時間がかかった。  彼は平たく言うならば、神隠しに遭っていたのだ。祖母に叱られ、中庭に出され、彼はそこから忽然《こつぜん》と消えた。消えた瞬間のことは、彼自身覚えてはいなかった。まるでうとうとと微睡《みどろ》んでいたような曖昧な空隙の後、彼は家に戻ってきた。この間に一年以上の時間が流れていたが、彼にとってその時間は存在せず、存在しないものの内容を説明することは不可能だった。  警察が呼ばれ、医者が呼ばれた。後に彼は児童カウンセラーの間を転々とすることになった。失われた時間を埋めようと、大人たちは必死になったが、彼は何一つ思い出すことができなかった。  彼にとって、段差は存在しなかった。雪の中庭から祖母の葬儀の日の玄関先へ、曖昧《あいまい》な箇所はあっても、全ては一繋がりになっているように思えた。段差は世界のほうにあった。祖母は死亡し、弟はいきなり大きくなっていた。学校の同級生たちは一学年上になり、ひとつ下だったはずの弟が同級生になった。──だが、彼の周囲の人々にすれば、世界に段差は存在しまい。彼こそが段差そのものだった。彼と周囲の人々は、このことによって、決定的なずれを生じた。根本的な何かが齟齬《そご》を起こし、もはや噛《か》み合うことができなくなってしまったのだった。  そして、周囲は勿論、彼自身も気づかぬまま、彼の喪失は始まった。彼は、自分がこちらで一日を過ごすたび、別の世界で一日が失われていくことに気づかなかった。そればかりでなく、こちらにおける彼自身──彼の中に固く封印されてしまった獣としての彼自身もまた、日一日と損なわれていくことに、やはり気づくことができなかった。泰麒の身体は、蝕《しょく》と当面の治癒《ちゆ》とで生気を使い果たしていた。だが、それでもなお、治癒は進んだはずだった。長い年月をかければ、角の再生さえ不可能ではない。本来ならば。  どうした、と彼に声を掛けたのは父親だった。 「食べないのか?」  父親は息子の、動きを止めた箸《はし》を見やった。母親は食卓に向かい、途方に暮れたように夕餉《ゆうげ》を見つめる息子を撫《な》でて、取りなすように微笑《わら》った。 「そういえば、お肉は嫌いだったわね。すっかり忘れてた。お母さんが悪かったわ」 「甘やかすのは、やめなさい」  ぴしゃり、と父親の声は冷たい。 「それは、お母さんがお前の身体のために良かれと思って用意したものだ。世の中には食べるものに事欠いている子供もいる。好き嫌いをいうことは、二重に良くないことだ。──偏食直しなさい」 「いろいろあったんですもの、疲れているのよね?」  母親は彼の肩を抱き寄せる。そうすることで、懸命に段差を埋めようとしていた。 「脂《あぶら》っこいものは辛いんだわ。いいのよ、残しても」 「駄目《だめ》だ」  父親の声はさらに冷たい。 「特別扱いはやめなさい。これからこの子にはいろんなことがあるだろう。人が同情してくれるのもいない間だけ、これからはなんだかんだと陰口を叩かれることになる。むしろ厳しくしてやるほうがこの子のためだ」 「でも……」  言い差した母親を無視して、父親は彼を見据える。 「分かったな」 「……はい。ごめんなさい」  彼は頷いた。箸《はし》を動かして懸命に食事を続けた。  ──もちろんこれが、彼の治癒を決定的に損なうことになるとは知らず。  汕子《さんし》は微睡《まどろ》みの中で、ぴくりと肩を動かした。半ば眠ったまま、僅《わず》かに顔を上げる。彼女を包んだ鬱金《うこん》の闇の中に、微かに血の臭いが流れ込んできたように思った。  ──何だろう、これは。  半ば眠った意識の隅で思う。微かな異物。不快で、不安感を呼び起こす何か。  汕子はしばらく首を擡《もた》げ、頑《かたく》なな殻の向こうの気配を窺《うかが》い知ろうと努めていたが、釈然としないまま、それを諦《あきら》めた。  ……何でもないようだ。  気のせいだったかもしれない。気にしすぎだ。さほどの大事が当面、起こるはずがない。汕子はそう自分に言い聞かせる。  汕子は、泰麒は危機に際して本能的に蝕を起こしたことを理解していた。兇賊から逃げようとして蝕《しょく》を呼び、実際に逃げおおせた。泰麒は門を抜けたし、抜けてしまった以上、ここは異界だ。かつて泰麒がまだ金色の果実だった頃、流された異界。だが、突発的なあの危機に際して、泰麒の無意識は極めて妥当な選択を行った。泰麒は、かつて流されていた頃、見知った人々のいる場所へと本能的に逃げたのだ。かつて泰麒に胎を貸した女と、その夫。そして二人の間の子供と。いわば仮の親と仮の兄弟、確かにここならば、兇賊の手は届くまい。泰麒は自らを守ってくれる場所を選んだのだ。  ……だからここで、良くないことなど起こるはずがない。  敵は泰麒を追ってくるかもしれない。だが、泰麒を捜すことは難しいことだと、かつて泰麒の入った果実を失った汕子《さんし》は、身に沁《し》みて知っている。たとえ捜し出せたとしても、それにはかなりの時間がかかるはずだし、汕子はただ外部からの襲撃だけを気にしていればいいはずだった。  だから、大丈夫だ、と汕子は自分に言い聞かせながら眠りに落ちる。そして、どれほどにか時間が経ってから、また異物感を感じて目を覚ました。何度かそれを繰り返し、そして汕子はその不快な刺激を無視できなくなった。  ──これはいったい、何。  汕子は顔を上げる。汕子の目は鬱金《うこん》の闇を彷徨《さまよ》い、必死に異物感の所以《ゆえん》を探ろうとした。 「……毒だ」  闇のどこからか、傲濫《ごうらん》の声がした。それで汕子はやっと悟った。そうだ、間違いない。毒ではないが──毒のような穢濁《あいだく》を盛られている。 「なぜ」  汕子は呟《つぶ》いた。仮の親ではないのか。泰麒《たいき》はここを安全だと判じて逃げてきたはずだ。にもかかわらず、彼らは泰麒に危害を加えようとしている。  やめさせなければ──自らに課した禁を破り、殻から飛び出そうとした汕子を、どこからか響く声が押し留めた。 「囚《とら》われたということか? 奴らは看守か?」  傲濫の言に、汕子ははたと気づいた。──そういうことなのかもしれない。 「まさか、敵はここまで見越していたの?」  泰麒がここに逃げ込むことを知っていて、あらかじめ仮親たちを取り込んでおいた──そういうことなのだろうか? 「でも、彼らは積極的に危害を加える気はなさそうだわ」 「しかし、穢濁を盛られている」 「敵の気配はどこにもないわ。単に泰麒の力を恐れ、抑えようとしているのかも」  それはあり得る──傲濫は闇の底から同意した。 「ならば穏和《おとな》しく囚《とら》われている限り、命までも取られることはないだろう」 「抵抗すれば、敵に引き渡されてしまうかしら」  かもしれない、と傲濫は呟いた。  汕子はひどく思い迷った。このまま虜囚になっているべきか、それとも看守を倒して泰麒を解放するべきか。だが──それをすれば、汕子たちが泰麒の気力を大きく削《そ》ぐ。それでなくても角がなく、入ってくる気脈が細い。いずれあるかもしれない敵襲に備えてここは耐え、力を蓄えておくべきなのかもしれなかった。たとえ看守の手から逃れても、泰麒には逃げ込む場所がない。少なくとも、こちらにそんな場所があるかどうかは、汕子にも分からなかった。勿論、戴には危険で戻れない。唯一安全だといえるのは世界中央、蓬山《ほうざん》だが、泰麒には再度、蝕を起こす術《すべ》がなく、汕子らにもそれはできない。それをすれば、それでなくても儚《はかな》い泰麒の気力を食い尽くすことになるだろう。帰れない以上、汕子には泰麒を逃がしてやる場所の当てがなかった。逃げ込める場所を探している間に二度三度と襲撃を受ければ、それを凌《しの》ぎきることができるかどうか心許《こころもと》なく、もしも凌ぎきることができたとしても、汕子《さんし》たちが気力を喰うことで、泰麒自身をのっぴきならぬほど損なう可能性があった。  穏和しく囚われている限りは、襲撃を受けずに済むのかもしれない。命を取るほどでもない毒ならば、ここは見過ごすべきなのかも。 「……泰麒には、この世界において庇護が必要だ」  傲濫《ごうらん》は遠くからそういう。 「たとえ牢獄の庇護、看守の庇護でもないよりはましだ。いつぞやの騒ぎを見たろう」  汕子は頷いた。泰麒を取り囲んだ人間たち。精神的に責め立て、身体的にも、調べると称し、怪しげな器具を使って圧迫を与えた。警察とか医者とか言う連中から隔絶されるのであれば、今は虜囚の身を耐えるべきなのかもしれない。──そう、確かにこんな庇護でも、ないよりはましだろう。 「できるだけ辛抱してみましょう……敵の出方を確かめないと」  注意だけは怠らないことだ、という秘かな声と共に、傲濫が眠りに落ちる気配がした。 [#改ページ] 三 章       1  その日、陽子が午前の朝議を終えて内殿に戻ると、自室で一羽の鳥が陽子を待っていた。それは鸞《らん》と呼ばれる鳥、官府の間でやりとりされる青鳥《せいちょう》のようなものだった。青鳥は文書を運ぶが、鸞は人語を記憶して直接言葉を運ぶ。鸞は鳳凰《ほうおう》や白雉《はくち》などのいる梧桐《ごどう》宮にしかおらず、所有する王を発信人にするか受取人にすることでしか使えない。鸞はいわば、王の親書だった。いずれの国の鸞であるかは、その尾羽の色で識別できる。  陽子は鸞を見て、少しばかり目を見開き、そして銀の粒を与えた。鳥は明朗な男の声で、正午に禁門を開けるよう、ただそれだけを言って嘴《くちばし》を閉じた。陽子は軽く苦笑し、正午きっかりに禁門へと降りる。門前で待つと、予告通りに二頭の|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》が飛来してきた。 「……遠方より、唐突なお越し、痛み入ります」  乗騎を降りた二者を苦笑混じりに迎えると、上背のある男のほうが、軽く眉を上げた。 「分かることがあれば報せてくれと、慶から使いがあったと思ったのだが」 「延王自らご報告をいただけるとは冢宰《ちょうさい》も想像だにしていなかったでしょう。おかけでお迎えする官は今、天手古舞《てんてこまい》です」  陽子は笑って、客人の今一方、金の髪をした少年の方を向いた。 「延台輔も、お久しぶりです」  うん、と笑った延麒《えんき》六太《ろくた》は、すでに禁門へと向かっている。 「……で、その戴《たい》の将軍ってのは? 話はできるか?」 「なんとか」  陽子は二人の賓客を王宮へと案内しながら、李斎《りさい》が駆け込んできた経緯を問われるままに話し、現在は動かすこともできず、正寝《せいしん》の一郭を病床として宛《あて》がっていることなどを説明した。 「瘍医《いしゃ》はとりあえず、動かしてもいいだろうと言っているので、もう少し世話の行き届く場所に移ってもらうことにした。目が覚めていれば、話もできるようだが、あまり長時間はどうだろう。昨日も、話の途中で具合を悪くしてしまったし」 「では、戴の様子は分からないのか」 「最低限のことは聞いたと思うけど。──ああ、浩瀚《こうかん》」  内殿の入り口では浩瀚が待ち受けていた。背後には景麒と太師《たいし》の遠甫《えんほ》の姿も見える。出迎えた彼らと書房の一郭、積翠台《せきすいだい》へと向かった。 「李斎によれば、泰王も泰麒も行方不明だ、ということらしいんですが」  のようだな、と腰を下ろした延王尚隆《しょうりゅう》は頷く。 「再度、調べてみたが、やはり蓬山《ほうざん》に泰果はないようだ。つまり、泰麒は死んでいない。鳳も鳴いていない以上、泰王が死んだということも考えられない。戴からの荒民《なんみん》に聞いたところでは、諸説ある中で、謀反があった、というのが、最も可能性が高いようだ」 「李斎の説明でもそう言うことのようです。泰王は乱を鎮圧するために出て、そのまま消息を絶ったということですが、詳細は分かりません」 「……出陣した先で何かがあったのだろうな。死んではいないが無事でもない。どこかに囚われているのか、あるいは、暗殺者につきまとわれて潜伏を余儀なくされているのか。いずれにしても、戴は逆賊が牛耳っていて、泰王はそれを討って玉座を取り戻したくても、それができない、ということなのだろう。──泰麒はどうしたと?」 「やはり詳細は不明ですが、行方が分からない、ということのようです。……何でも蝕があったのだそうです。王宮で鳴蝕《めいしょく》があって、白圭宮《はっけいきゅう》に甚大な被害が出たとか」 「……鳴蝕があった?」  不審そうに声を上げたのは六太で、深刻そうな表情をしていた。 「ええ。それ以後、泰麒の姿は見えない、瓦礫の中を探し回ったのだけれど、ついに発見できなかった、と李斎《りさい》は言っていました」 「嫌な感じだな……それは」  六太《ろくた》は頷いた。 「鳴蝕《めいしょく》があったということは、泰麒の身に何か異変があったということなんじゃないのか。よほどのことでなければ、鳴蝕なんか起こすはずがないし」 「そうなんですか?」  うん、と六太は頷く。 「鳴蝕があって姿が消えた、と言うより、何か異変があって、切羽詰《せっぱつ》まった泰麒が鳴蝕を起こしてしまった、と言うべきだろうな。下手をすると、泰麒はこちらにはいない……」 「では、あちらに?」 「断定はできないけどな。異変があって、それから逃れるために蝕を起こし、あっちに逃げ込んだ、と考えるのが一番順当なんだろう。ただ──それだけのことなら、戻ってくるだろう、普通。六年も戻ってこないところを見ると、まだ何かあるんじゃないのか」  陽子は頷き、そして、尚隆を見た。 「こういう場合は延王《えんおう》、どうなるのです?」 「どうなる、とは」 「ですから──もしも泰王が亡くなっていれば、泰麒の次の王を選ぶわけですよね? もしも泰王が無事でも、泰麒が死んでいれば、泰王もじきに後を追うことになる。その場合には蓬山に泰果が生《な》って、新しい戴の麒麟が生まれ、新しい王を選定する」 「そういうことだが」 「けれども泰麒は死んでいない。次の麒麟の生まれる道理がありませんね? しかも泰王も死んだとは思えない。ゆえに泰麒が無事でも次の王の先帝をする必要がない」  尚隆は頷く。 「それで全てだ。泰王も泰麒も存命なのだから、理屈の上では戴に政変はない」 「けれども大量の荒民《なんみん》が流れてくるくらいです、戴は今、酷《ひど》い状態なのでは」 「だろうな。少なくとも沿岸に妖魔が出没しているのは確かで、かつては多かった荒民も、このところ、ほとんどない」 「偽王が立って、正当な王による郊祀《まつり》もやみ、国が荒れたということなのでしょうが、これを是正する方法はあるのですか?」 「正当な王がいる以上、偽王とは言わないが──まあ、そう言ってもいいのだろうな。この場合、戴の民が立つ、と言うのが、唯一の方法になる。泰王、泰麒がどうなったのかは分からないが、とりあえず諸侯と民が力を合わせて偽王を討つ。これで理を正すことはできる」 「けれども、泰王が死んだと勅使が来てから、すでに六年です。決起して偽王を討つだけの余裕があれば、とっくにそうしているのでは。それができないからこそ、李斎は満身創痍《まんしんそうい》になってまで、私を頼ってきたのではないんですか」 「……かもしれぬ」 「とにかく、こうして延王に来てもらっても、ほとんど有効といえる情報がない。結局のところ、戴の状況というのは、そういう状況ですよね。選りに選って燕朝《えんちょう》で蝕が起こり、甚大な被害が出たことすら伝わっていない。これは中央にいた官吏や、事情に明るくて当然の重臣、首都の民などはほとんど脱出できていない、ということの証《あかし》なのでは。李斎がその唯一の例外です。つまりはそれだけ、戴の状況は酷《ひど》い」  これには尚隆も、そして六太も沈黙した。 「李斎も、戴の民には自分たちを救う手段がない、と言っていました。とにかく、せめて人を遣《や》って泰王と泰麒の捜索だけでも──」  陽子が言いかけると、それだ、と尚隆は声を上げる。 「戴について分かったことなど、あの程度だ。それならばわざわざ伝えに来るまでもない。俺はそれを止めにきた」 「それ?」 「いいか。何があっても、王師を戴に向かわせてはならぬ」  陽子は瞬く。 「……どうしてです?」 「どうしてもだ。そういうことになっている」 「私は延王の助勢を受けて慶に戻ったのだと思いましたが?」  それは違う、と彼は語気を強くした。 「お前が、俺に助勢を求めてきたのだ。国を追われた景王が雁《えん》に保護を求めてきた。俺は王師を貸したにすぎん」 「……それは詭弁《きべん》に聞こえます」 「詭弁でも何でもいい。それが天の理《ことわり》なのだ。そもそも、軍兵を率いて他国に入るのは覿面《てきめん》の罪という。王も麒麟も数日のうちに斃《たお》れる大罪だということになっている」  陽子が困惑して室内を見渡すと、太師の遠甫《えんほ》がこれに頷いた。 「遵《じゅん》帝の故事がございましてな。ご存じですかな?」 「いや」 「昔、才《さい》国に遵帝という王がおられたのです。その時代、隣国の範《はん》で王が道を失い、多くの民が苦しめられておりました。範の民を哀れまれた遵帝は、王師《おうし》を範に向かわせたのでござります。とはいえ、他国の王を討《う》つわけにもいかず、範の高岫山に近い里櫨《まちまち》に駐留させ、国を逃げ出そうとする民を保護し、連れ出そうとしただけのことじゃったのですが。ところが、王師が国境を越えて数日の後に麒麟は斃《たお》れ、遵帝もまた身罷《みまか》られた。天がお許しにならなかったのでございます」 「しかし、それは……」  尚隆《しょうりゅう》は首を振る。 「天のすることに是非《ぜひ》を言っても致《いた》し方ない。たとえ侵略でなく、討伐でなく、民の保護のためであろうと、軍兵を他国に向かわせてはならない、ということなのだ。心情的には非がなくとも、これは天の摂理《せつり》から言えば大罪、──しかも、遵帝の後、才の国氏は斎《さい》から采《さい》へと変わった」  言って、尚隆は一同を見渡す。 「遵帝が登霞《とうか》なされて、通例通り、御璽《ぎょじ》から斎王御璽の印影が消えた。次の王が登極したところ、御璽の印影は采王御璽に変わっていた、ということだ。御璽を変えたのは天の御業《みわざ》、つまりはそれだけの大罪だったということだ。国氏が変わるなどということは、滅多にあることではない。その滅多《めった》にないことが起こるほどの罪だった」 「では、見捨てろと」 「そうは言ってない。ただし、困っている者がいるのだから助けてやれば良い──というような、簡単なことでないのは確かだ。事は慶の国運に係《かか》わる。くれぐれも早まるな」 「見捨てろと言っているのも同然です。延王は李斎がどんな酷い状態で金波宮《きんぱきゅう》に駆け込んできたのか知らない。あれほどまでして頼ってくれた者を、保身のために捨て置けと言うんですか」 「勘違いするな。お前は慶の国主であって、戴の国主ではない」 「しかし」  尚隆は片手を挙《あ》げる。 「荒民《なんみん》の中には、こういう者もいる。泰王は弑《しい》された、泰麒もまた弑された。そして、それを行ったのは、瑞州師の劉《りゅう》将軍だ、と」 「……まさか」 「泰王も泰麒も、死んだと思えぬ以上、単なる噂の域を出ない。だが、荒民が逆賊の名として挙げたのは劉将軍が最も多かったことは覚えておく必要がある。       2  李斎《りさい》はこの日、やっと瘍医《いしゃ》の許しを得て、居座っていた正寝《せいしん》から寄宿先を移ることになった。とはいえ、李斎はまだ足腰が立たず、輿《こし》に乗せられて運ばれるままになるしかなかった。虎嘯《こしょう》の先導によって連れて行かれたのは内殿にほど近い宮殿のひとつで、簡素な園林《ていえん》に面する客庁《きゃくま》に運ばれ、榻《ながいす》に降《お》ろされると、隣の臥室《しんしつ》から子供が一人、駆け出してきた。 「お帰りなさい。準備は全部できているよ。僕一人で、ちゃんとやれたからね」  そうか、と虎嘯《こしょう》は笑い、子供の肩に手を置いた。 「桂桂《けいけい》という。俺の弟分だ。これから女御《じょご》と一緒に、あんたの世話をしてもらうことになると思う。──桂桂、この人が戴国の将軍様だ。李斎《りさい》殿という」  子供は曇《くも》りのない笑顔で李斎を見た。 「大変なお怪我《けが》だったんでしょう? もう痛《いた》みませんか?」 「ええ──お世話を駆けて申し訳ない、桂桂殿」  李斎が言うと、子供はくすぐったげに笑った。 「呼び捨てでいいです。僕は奄《げなん》みたいなもんなんです」  言って子供は、あ、と声を上げ、虎嘯を振り仰いだ。 「夏官の人が来て、厩舎《うまや》に騎獣を置いていったよ。本当に僕が世話をしてもいい?」 「李斎がいいと言ったらな。あれは李斎の騎獣だ」  へえ、と桂桂は期待と賛嘆に満ちた顔で李斎を見る。 「……騎獣?」  李斎は虎嘯を見返した。 「では、飛燕《ひえん》が?」 「ああ、騎獣のほうはすっかりいいようだ。一度、顔を見せてやりたかったんだが、正寝に騎獣を入れるのに天官が反対してな」 「何とお礼を申し上げたらいいのか……」 「俺に礼を言う筋合いじゃないさ。それより、桂桂に世話をさせてもいいかね? と言っても桂桂は騎獣の世話をしたことはないんで、あんたにいちいち采配してもらわなきゃならないんだが」 「もちろんですとも」  李斎が言うと、桂桂は、小さくやった、と声を漏《も》らした。 「それよりお客にお茶もないのか?」  虎嘯が言うと、桂桂は飛び上がる。そうだった、と明るい声を残して堂を出ていった。 「……失礼だが、あの子は虎嘯殿の?」 「いんや。俺とは赤の他人だ。身寄りをなくして、陽子が世話しているんだ」 「陽子……景王が?」 「そう。世話をすると言っても、実際に面倒を見ている暇があるはずはない。それで俺が預かっているんだがな」 「では、ここは虎嘯殿のお宅だろうか」 「さて。どういうことになるんだろうな」  李斎が瞬くと、 「多分、ここは太師《たいし》の邸宅ということになるんだと思うが。太師府の裏なんだ。府第《やくしょ》の一部だったんだが、太師の遠甫《えんほ》が特に許されてここに住んでる。ここで寝泊まりしてもいいって事になってるんだ」 「では、太師が虎嘯《こしょう》殿の縁者……」 「いや、やっぱり赤の他人だ」 「……失礼だが……それはどういう」  李斎《りさい》が首を傾げたとき、桂桂《けいけい》が茶器を抱えて駆け戻ってきた。 「虎嘯、陽子が来ているよ」 「陽子が?」 「うん。李斎様に会いたいって言ってるんだけど、お通ししてもいいのかしら」  虎嘯は李斎を問うように見る。 「勿論……どうぞ」  頷いて、虎嘯と桂桂が退出し、代わりに堂室《へや》に入ってきた客人は五人、景王を筆頭に、昨日も会った景麒と冢宰《ちょうさい》、そして顔を見たことのない男と金の髪の子供が一人だった。 「こちらは雁《えん》国の延《えん》王、延台輔であらせられる」  李斎は驚いて、その主従を見比べた。 「雁国のお方が……なぜ」 「泰王、泰台輔とは御縁があったと伺っている。──それで、李斎、昨日の続きなのだけれども。実際のところ、戴は今、どういう状態なのだろう」  李斎は残された手で胸を押さえた。 「とても酷い状態です。何よりも主上と台輔がおられないのですから」  李斎が答えると、碧の目がひたと李斎を見る。 「戴の荒民《なんみん》の中には、泰王、台輔は弑されたという者もいるとか。その犯人は、瑞州師の将軍だとも」  李斎は目を見開いた。 「違います──それは誤解です!」 「確認しただけだ。落ち着いて」  跳ね起きようとした李斎を、陽子は押し戻す。 「違うのです。確かに私は、長く大逆の罪人として追われてはおりましたけれども。ですが決して、そのようなことは」 「……分かったから」  覗き込んでくる景王の目には、気遣う色が浮かんでいた。李斎は息を吐く。緊張からか安堵《あんど》からか、痺《しび》れるように強い倦怠感が押し寄せてきた。 「……私が弑した、あるいは、他の誰かが私を操っていたのだとして、何度も追撃の命が出されました。ですが、それは違うのです……」  李斎《りさい》は片手で胸に下がった珠を握る。  驍宗《ぎょうそう》が文州へと向かった当時、李斎ら残された王師《おうし》は鴻基《こうき》の防備を任されていた。防備だけではない。王師には果たさねばならない役目が無数にあった。李斎らは、文州に向かった兵卒のぶんも、それらの職務を遂行せねばならなかった。  ──その最中、ひとつの噂が王宮の端々で囁《ささや》かれるようになっていた。日々忙殺される李斎は、長くその噂を聞かなかった。早朝から深夜まで、鴻基を開けた軍兵のぶんも駆け回り、疲れ果てて官邸に戻ったある夜、花影《かえい》が不安げな顔をして待っていた。 「ずいぶん待たせたとか」  下官に花影が来て帰宅を待っていたことを聞き、李斎は恐縮して客庁《きゃくま》に入った。春はまだ浅く、深夜の堂屋《ひろま》は底冷えがしていた。そこに下官も連れず、一人でぽつんと待っている花影の姿は、いかにも寒々しく、しかも心細げな印象を与えた。 「使いをくれれば、早めに戻ったのに」  李斎が言いながら客間に入ると、花影はほっとしたように笑った。 「──とんでもありません。お忙しいのに、ごめんなさい」  留守居の者が気を利かせて酒肴を出してくれていたようだが、花影がそれに手をつけた様子はなかった。待っていた花影の緊張した様子、李斎を認めたときの貌、──何か良くない話なのだな、と李斎は悟った。 「李斎は、妙な噂があるのを聞きましたか」 「──噂?」 「ええ。私は軍事に疎《うと》いので、どう受けとめて良いか分からなくて……」  花影は言って、ひたと李斎の目を見上げる。 「……主上がお出ましになったのが、文州で轍囲《てつい》だというのは、出来過ぎではないか、という声があるのです」 「出来過ぎ──?」  ええ、と花影は不安そうに両手の指を組んだ。 「轍囲は主上と深い縁のある土地です。単なる乱なら主上が自らお出ましになるようなことは考えられない、そこが轍囲だったからこそ、主上はお出ましになったのだと、言う者がいるのですが」 「それは……確かにそうだろうけど。巌趙《がんちょう》、阿選《あせん》、英章《えいしょう》と、禁軍の将の誰をとっても、土匪《どひ》の乱を鎮圧するのに役不足ということはない。実際、主上は最初、英章をお出しになったわけだし。乱が拡大して、いささか英章一人の手には余る風向きになってきたのは確かだけれど、ならば他の誰かを遣れば済むこと、あえて主上がお出ましになる必要などない。なのに阿選の軍を割《さ》いてまで手勢を作られ、自ら率いてお行きになったのは、そこが轍囲だからだということは確かだと思うが」  言いながら、李斎《りさい》自身も、言われてみれば確かに出来過ぎだ、という気がした。そこが轍囲《てつい》だからこそ、驍宗《ぎょうそう》自ら出陣することに疑問を覚えなかったが、こうして言葉にしてみると、何か不自然な臭いがする。  花影《かえい》は得心したように、ひとつ頷いた。やはり暗い表情だった。 「新年の冬狩《とうしゅ》による混乱、それに乗じて問題が吹き出すことは予想されていたことです。文州の土匪《どひ》は、中でも最も懸念されていたことでしたし、実際に真っ先に文州で動乱の起こったことには何の不思議もありません。ですが、それが選りに選って轍囲を巻きこんだことを考えると、そもそも文州で動乱が起こったという当たり前のことも、当たり前過《す》ぎて可怪《おか》しい、と」 「……いわれてみれば、確かにそうかもしれない。そこが文州で、中でも轍囲で、だからこそ主上がお出ましになることに誰も疑問を覚えなかった。逆に言えば、主上を引っ張り出すには、文州で轍囲であるのが自然だ、ということになる」  何者かが、故意に驍宗を引きずり出した──。李斎はそう思い、不安そうな花影の顔を見返した。 「まさか……これは、主上に対する大逆の一環だと」 「そう考えられますでしょう? けれども、逆だという声もあって」 「逆? 逆というのは一体──」 「私に巧く説明できるかどうか……」  花影は少しの間、言葉を探すようにしてから、 「もしも主上に対し、逆心を持つ誰かがいたとします。とはいえ、王宮の中におられる主上に対し危害を加えるのは至難の業《わざ》、ですが主上を王宮から出すことができ、戦地のような混乱した場所に連れ出すことができれば、またとない機会が生まれることになります。だから逆賊は乱を起こし、主上を誘《おび》き出すことにした。けれども、あまりに唐突な乱では主上の疑念を招きます。しかも乱があったからといって必ず主上が自らお出ましになるというものでもありません。そこで文州の土匪を使った。文州で乱が起こることは、いかにも自然なことだからです。しかも文州には轍囲がある。主上と轍囲の強い信義関係を考えると、轍囲に何かがあったときには、主上が自ら助けに向かわれることが十分に予想されます。だからこそ謀反を企んだ誰かは、あえて文州を使い、轍囲を使った」 「それは大いにあり得る」 「けれども、これは逆から見ることもできます。轍囲なら主上がお出ましになる可能性が高い──これは、返して言えば、轍囲に何かあれば、主上が宮城を空《あ》けられても不自然ではない、ということです」 「……よく」  分からない、と言おうとした李斎《りさい》を、花影《かえい》は押し留める。 「つまり、全ては主上のお考えではないか、ということなのです。主上は何らかの理由で宮城をお空けになりたかった。だからといって、朝廷が整ったばかりのこの時期、あえて出られる理由がございません。そこで轍囲《てつい》を使ったとは考えられないか、と」 「轍囲に危難があれば主上がお出ましになっても不自然ではない──それは分かるが、なぜ主上は花影も言うようにこの時期、あえて宮城を開ける必要があるんだ?」 「冬狩《とうしゅ》の……続きではないかと」  花影は低く言った。李斎はまさか、と笑った。 「確かにこの時期、主上が乱の鎮圧に向かわれ──宮城を空けられれば、逆心のある者は何某《なにがし》かの行動を起こすかもしれないな。けれども、私はそんな計略など聞いてない」 「ええ、私もです。……ですから、これは私たちを試すものなのではないか、と。あるいは……最悪の場合、私たちを処断するための」  そんな、と李斎は声を上げた。 「あり得ない」  少なくとも李斎は、驍宗に対し、いかなる逆心も抱いていない。抱いていると誤解されるような振る舞いもなかったつもりだった。李斎はむしろ、驍宗の麾下《ぶか》と巧くやってきた。驍宗自身とも──そして、誰より泰麒とも。  花影は身を縮め、顔を歪《ゆが》める。 「……そう思いたいのです、私も。ですが、残った者の顔ぶれを見よ、と言われると」 「残った者?」 「禁軍では、巌趙《がんちょう》殿、阿選《あせん》殿の二名。そして瑞《ずい》州師では、李斎殿、臥信《がしん》殿の二名ですね。このうち巌趙殿、臥信殿は、主上の軍で師帥《しすい》を努めてこられた方々です。対する阿選殿は驕王の時代、禁軍の右軍を任されてきた方、李斎殿は承州師の将軍でした。麾兵《ぶか》の将軍が二名で二軍、そうでない者が二名で二軍。このうち、主上は阿選殿の軍から半数を割《さ》き、文州に連れて行っておしまいです。つまり、阿選殿は力を半分に削《そ》がれた──」 「それは邪推だろう」 「乱の平定に何よりも深い関わりを持つのは、まず夏官《かかん》、そして武器を用意する冬官《とうかん》です。夏官長大司馬は芭墨《はぼく》殿、冬官長|大司空《だいしくう》は琅燦《ろうさん》殿。どちらもやはり主上の麾兵です。主上が王宮を空けられれば、台輔だけが残されることになりますが、その台輔の間近に控えたのは州|令尹《れいいん》の正頼《せいらい》殿、そして天官、天官長|太宰《たいさい》の皆白《かいはく》殿も、やはり主上の麾下です。麾下でないのは、秋官の私、春官長の張運《ちょううん》殿、そして地官長の宣角《せんかく》殿で、私たちはほとんど乱の平定には関わりを持っておりません。詳しいことも聞かされてはいないし、聞く必要もない……」 「冢宰《ちょうさい》がいる。軍を動かすにあたって冢宰が関与しないということはあり得ないが、冢宰の詠仲《えいちゅう》殿は驍宗様の麾下にあったわけではない。もともと垂《すい》州候で──」  いって、李斎《りさい》は首を横に振った。 「そう──邪推だと思うな。そもそも主上は将軍だったお方、もともと主上に心を預けていたのも驍宗軍の出身者だ。だから主上に関わりの深い人間ほど、軍務に近いところにいることになる。その出自から考えれば当たり前のことだろう? 乱の平定に関与する者は麾兵《ぶか》であり、そうでない者は新参だというのは、計略あってのことではなく、適所適材を考えた結果、なるべくしてそうなったと考えるべきだ」 「そう……考えていいのでしょうか」  花影《かえい》は不安そうに指を額に当てた。 「噂《うわさ》を耳に入れてくれた者からそれを聞いて、私はぞっとしました。……正直言って、私には身に覚えがありましたから」 「花影」 「いえ、逆心がある、ということではないんです。ただ、私は最初、なかなか主上のお考えに馴染《なじ》めませんでしたから。何もかも性急すぎるように思えて、とても不安だった。疎外感もありました。心細くて不安だった。……李斎のところに泣きつきに来るぐらいに」  李斎は頷いた。 「今は納得しています。性急だとは思いますが、性急に過ぎるとは思いません。不安に思うこともなくなりました。主上のなさることには、必ず信を置くに足る理由があるのです。けれども、一時、不安だったのは確かで、それは余人にも見えていたことでしょう。主上に批判的であり、否定的だと受け取られてもしかたのない態度だったのかもしれません。そういう誤解があっても無理はない──そう思うと……」 「けれど……」 「春官長の張運《ちょううん》殿もそうです。以前はずいぶん、主上に批判的な声を上げておられましたし、冢宰《ちょうさい》の詠仲《えいちゅう》殿も、以前はずいぶん不安そうにしておられたのを知っています。そして、阿選《あせん》殿や巌趙《がんちょう》殿、それに李斎、あなたにも、とかくの噂が」 「噂ですか……私の?」  ええ、と花影は青ざめた唇を震わせる。 「阿選殿は、驕王禁軍の中で主上とは双璧といわれたお方です。その一方が王になり、その一方が臣下となる。それが面白いはずはない、と」 「そんな。──まさか、その伝で私も?」 「はい。こんな事を耳に入れて、不快だと思われるでしょうが。李斎は、主上と一緒に昇仙したでしょう。やはり、それで主上が選ばれたのは、快くあるまい、という声があるのです。巌趙殿は元々驍宗軍の麾下ですが、そもそもは禁軍に名だたるお方で、禁軍将軍に空席ができたとき、巌趙殿こそがそこに就かれるのではと思われていた、とか。それが蓋を開けてみると、異例の若さで主上がお入りになった。巌趙殿はずっと驍宗軍におられたけれども、実は含むところがあったのではないか、と」 「そんな──そのように邪推すれば、どんな人間にも罪を作ることができる」 「私もそう思います……これは悪意に過ぎないと」 「それ以上だ。確かに台輔は私の目の前で主上を選ばれたが、私はそれを悔《くや》しいと思ったことはない。腹立たしかったに違いないという輩《やから》は、自身ならば腹立たしい、許せない、目の前で誉《ほま》れを横取りしていった者を憎むだろう、だから私もそうに違いない、と言っているのだろう。それは他者も自己のような卑劣漢に違いないと、そういう」  言いかけ、李斎《りさい》は口を噤《つぐ》んだ。結局のところ、人は自己を基準に他者を推し量るしかない。自分なら痛いから痛かろうと思う惻隠《そくいん》の心と、それは同じ種類のものだ。自己を基準に他者を量ること自体は否定できない。──あとはもう、本人の有りようの問題に過ぎない。 「……悪い。そう……確かに、そんなふうに思う者がいても不思議はないのかも。人の目はそういうものなんだろう。だが、私は主上に害意など抱いていないし、それは主上もご存じだと思う。それは阿選《あせん》も巌趙《がんちょう》も同様だと私は思うが。主上は阿選に対しては常に敬意を払っておられるし、巌趙に至っては、家族も同然に思っておられるようだ。兄と言えば語弊があるが、ごく親しい年上の者として頼みにもしているし、巌趙も主上を誇りにしているように見受けられる」 「……そうですね」 「主上が私たちを処分するために、宮城をお空けになったとは考えられない。第一、主上は台輔を残しておいでだ。もしも冬狩《とうしゅ》の続きなのだとすれば、台輔を残しておかれるはずがない」 「そう──そうですね」  花影は、ほっとしたようにやっと笑みを見せた。 「ただ……私たちの誰かにお疑いがあって、動向を見る、そういうことはあるかもしれないけれども。こればかりは、ないとは言い切れないな。ただ、その場合にも、台輔を残してらっしゃることが気になる。やはりむしろ、何者かに誘き出されたと考えたほうが……」 「ええ……」  花影は言って、硬い表情を見せた。 「主上はもう文州にお入りになった頃でしょうか。何事もなければ良いのですけど」  李斎は頷いた。 「巌趙たちにも耳打ちしておこう。主上がお戻りになるまで、耳をそばだてておいたほうが良さそうだ」  翌日、巌趙は李斎の話を聞いて高らかに笑った。 「いろんなことを考え出す奴がいるもんだな」 「まあ──悪意ある者は、他者の中に悪意を見るものだ」  阿選《あせん》はそう言って苦笑する。対して、溜息をついたのは臥信《がしん》だった。 「どうして、そこに私の名前だけないのかなあ。驍宗《ぎょうそう》様を妬《ねた》むまでもない小物だと思われてるんだったら、がっかりだな」  李斎《りさい》は軽く笑った。昨夜、花影と話をしているときに感じた不安が、彼らの軽やかな振る舞いを見ると、杞憂《きゆう》のように思われた。 「実際、小物だから仕方あるまい」 「やっぱり、そんなにひどいですかね」  言って笑った臥信《がしん》はしかし、傭兵家としては傑物だと李斎は評価している。王師の訓練で手を合わせるのが一番苦手な相手だった。堅実でまっとうな戦をする巌趙《がんちょう》、霜元《そうげん》に対し、臥信は奇計奇策の将だ。行動を読み難《にく》く、油断がならない。それは英章《えいしょう》も同様だったが、英章の陰に対し、臥信の詐術には奇妙な明朗さがあった。 「どうせ疑うなら英章を疑ったほうがいいのじゃないか。俺は常々、何だって英章の奴が驍宗様の寝首を掻《か》く気にならんのか不思議だ」  巌趙の言に、臥信も頷く。 「全くです。そのうえ、何だって正頼《せいらい》と馬が合うのか」 「正頼には取り柄というものが一分もないから、足蹴にするのに気が咎《とが》めなくていいと、英章は言っていたぞ」  李斎は笑って口を挟んだ。 「正頼も似たようなことを言ってましたよ。英章は腹の底まで真っ黒だから、白か黒か悩まなくていいので楽なんだそうです」 「……なんだ。似たもの同士なんだ」  まあ、と失笑しながら阿選が口を挟んだ。 「用心は必要だろう。確かに、文州で轍囲は出来過ぎだ」  ぴたりと巌趙が笑みを引き、頷いた。阿選は驍宗の麾下ではないが、巌趙らからも一目を置かれている。李斎は一度、新兵の訓練で手合わせをしたことがあったが、怜悧《れいり》な用兵──という言葉があるとすれば、そういう将だという気がしていた。李斎は驍宗と手を合わせたことはないが、聞くところに寄れば驍宗と阿選は将としても似ているらしい。双璧と言われてきた所以だろう。  巌趙は太い腕を組む。 「……それとなく文州と誼《よしみ》ある者を調べさせておいたほうがいいかもしれん」 「驍宗様に耳打ちしておくべきですよ。青鳥を飛ばしておきましょう」       3  その日の夕刻だった。所用があって李斎《りさい》が州府に向かうと、府第《やくしょ》の庭院《にわ》に泰麒《たき》が駆け出してきた。左右を見渡しながら回廊を降りてきた泰麒は、李斎を認め、声を上げて駆けてくる。いつもならあどけなく笑って駆け寄ってくるものが、この日は何かに追われているかのような表情をしていた。 「李斎──捜していたんです」  言って駆け寄ってきた泰麒は、しがみつくようにして李斎の手を掴《つか》んだ。 「驍宗《ぎょうそう》様が大変だというのは、本当なんでしょうか」 「大変──とは?」 「驍宗様がお出かけになったのは、謀《はか》られたからで、文州では驍宗様を倒そうとする悪い人たちが驍宗様を待ちかまえているんだって──」 「まさか」  李斎は無理にも笑ってみせる。 「そんな法螺話《ほらばなし》を誰がお耳に入れました? 驍宗様は、暴動を鎮《しず》めに行かれただけですよ」  李斎が言うと、泰麒は身を引いた。いっそう表情が硬かった。 「正頼《せいらい》もそう言ってました」 「そうでしょう? 何も心配なさることは──」  言いかけた李斎に、泰麒は首を振る。 「李斎も正頼も嘘《うそ》をついてます。僕が子供だから、心配させまいとして、そう言うんです」  李斎は困惑し、その場に膝《ひざ》をついた。泰麒の顔を正面から覗き込む。 「李斎は嘘など申し上げませんよ。……なぜ嘘だなどとおっしゃるのです?」 「六官で話し合って僕には知らせないことにしたんだって、琅燦《ろうさん》が教えてくれました」  李斎は眉を顰《ひそ》めた。花影《かえい》が六官を召集して、李斎らと同様の話し合いを持ったことは知っている。そこで、この件を泰麒に知らせたものかどうか、話題に出ただろう事も推測できた。本来州師を動かすには泰麒の承認が必要だが、今のところは令尹《れいいん》の正頼が実務を代行していたし、そもそも、まだ海のものとも山のものとも知れない噂話、憶測の域を出ないものなのだ。ここで泰麒の耳に入れ、不安を抱かせる必要もなかろう、という結論に達しただろう事は予想がつく。──それを、冬官長の琅燦が、あえて耳に入れた、ということなのだろうか。 「正頼に訊いても、何の心配もないって言うんです。ちょっとした暴動で、驍宗様が出ていったのも、戦うためじゃなくて、民や兵を励ますためなんだって。危険なことは何もないから心配しなくても大丈夫だって──琅燦が、そう言うだろう、と言った通りに」  李斎《りさい》は立ち上がり、泰麒《たいき》を庭院《にわ》の外へと促した。嫌がる泰麒に低く、 「ここは誰が来るものか分かりません。台輔のそんな様子を見たら、官が誤解してしまうでしょう」 「でも……」  李斎は、微笑む。 「宰輔が官を不安にさせるような振る舞いをなさるものじゃありませんよ。とにかくお部屋までお送りしましょう」  俯いた泰麒の手を取り、正寝《せいしん》のほうへと抜けていきながら、李斎はできるだけ明るい調子で話をした。驍宗が王宮を空けたのを不安に思って、いろいろな憶測を流す者がいること、その中には確かに、全ては驍宗を文州に誘き出そうという奸計だという噂もあること、けれどもそれは噂に過ぎないこと。そんな噂で官が浮き足立てば、いろいろと障《さわ》りが出てくるから、どうしたものか、六官や将軍たちは相談をしていたこと。 「暴動が起こったことは事実ですし、だから御旅行に行かれるように安全だ、というわけにはいかないかもしれません。ですが、文州には先に英章《えいしょう》も入っておりますし、霜元《そうげん》も一緒です。もともと驍宗様は、それはお強い将軍だったんですから、心配なさってはかえって失礼ですよ」 「でも、英章はとても手こずっているって。それで驍宗様に助けを求めてきたんでしょう?」  李斎は、これには本当に目を丸くした。 「思ったよりも暴徒が多くて、英章が手こずっているのは確かですけど、助けを求めてきたなんてことはありません。主上が霜元を連れて行かれたのは、民や兵を勇気づけて、早く文州を安全にしようと考えられたからですよ」 「……本当?」  李斎は笑って頷いた。泰麒はほっとしたように息を吐いたが、やはり不安そうな顔をしていた。気を引き立てようと、李斎はあれこれと話題を探したが、泰麒はどこか上の空で、正寝の宸殿が見える頃には、すっかり押し黙ってしまっていた。李斎を信じるべきかどうか、迷っているのだという気がした。 「……やはり李斎のいうことは、信用なりませんか」  柔らかく訊くと、泰麒は困ったように李斎を見上げてくる。 「分かりません。……僕、どう考えたらいいのか分からないんです」  言って俯いた横顔は、依然として固かった。 「僕は子供で、だから誰も特別扱いしてくれるんです。いろんなことを、僕には見せないようにしたり、話さないようにしてる。話しても、僕では難しすぎて分からないって事をみんな分かってて、分からないのを僕が気にしたらいけないと思って、言わないでいてくれるんです。いつもそうだって知っているから、李斎のいうことが本当なのか分からない」 「……台輔《たいほ》」 「もしも琅燦《ろうさん》の言うことや、下官の噂話のほうが正しかったとしても、李斎《りさい》は違うって言うんだろうな、って。心配させたら可哀想だからって、違うっていってくれるんだと思うんです。……正頼《せいらい》も、他のみんなも」  言って泰麒《たいき》は、切なげな息を吐いた。 「僕が子供だから、仕方ないんです。……でも、僕だって驍宗《ぎょうそう》様のことが心配です。遠い危険なところにお出かけになってしまったんだから。僕は驍宗様がお怪我《けが》をなさったり、危険な目に遭われるのは嫌です。もしも大変なのだったら、助けて差し上げたい。きっと僕には何もできないに決まってるんだけど、それでも、僕に何かできることはないか、一生懸命考えて、できるだけのことをして……」  泰麒は言葉を切った。目に涙が浮かんでいる。それと同時に、強い落胆のようなものが全身から漂っていた。 「……僕はそれが、自分のお仕事なんじゃないかと思うんです。みんなにしたら、きっと余計なことなんだろうけど……」  李斎は微かに胸が痛むのを感じた。泰麒は事実として、まだ幼い。だからこそ、周囲の者は、この心優しい子供に辛い思いをさせまい、悲しませるまいとして心を砕《くだ》く。それは泰麒に対する情愛でしかないのだが、当の麒麟にしてみれば、子供だからと爪弾《つまはじ》きにされることと何ら変わりないのかもしれなかった。──驍宗なら報《しら》せるのだろうか。李斎はふと疑問に思った。 「そういうことではないんですよ……泰麒」  李斎は言ったが、泰麒は李斎の手を放し、門殿へと駆け込んでしまった。思い溜息をついてそれを見送り、李斎は踵《きびす》を返《かえ》す。まっすぐに冬官府へと向かった。  琅燦《ろうさん》はまだ冬官府に残っていた。下官に会いたい旨を告げると、しばらくして正庁へと招き入れられた。琅燦はそこで、大量の文書と書籍に埋もれていた。 「適当に坐る場所を探してくれる?」  琅燦は本から目を上げずに手を振る。見える歳の頃は十八、九の小娘、六官の長にはおよそそぐわない外見だったが、恐ろしく博識で、冬官長|大司空《だいしくう》として、これ以上の人材はないことは確かだった。冬官は百工を有する、と言う。冬官長大司空の下には、匠師《しょうし》、玄師《げんし》、技師《ぎし》の三官があって、国のための物品を作り、呪具を作り、新しい技術を探す。三官は、それぞれ無数とも言える工匠を抱えているが、琅燦とどの工匠とを会話させても、およそ話が通じないということがない、と聞いていた。 「……台輔に、なぜあんな事をおっしゃったのです」  李斎が言うと、琅燦はやっと顔を上げた。そのことか、という貌《かお》をした。 「耳に入れておいたほうがいいと思ったからだな」 「まだ根拠も何もない噂話に過ぎません。それを──」 「耳に入れて、徒《いたずら》に泰麒を心配させるな、って言うわけだ? でも、驍宗様が謀《はか》られた可能性があることは事実なんじゃないの?」 「可能性にすぎません」 「あり得るってことでしょうが。それが本当なら大事だし、宰輔が知らないじゃすませれないと思うけどね」 「しかし」  李斎《りさい》が言いかけると、琅燦《ろうさん》は顔を顰《しか》めて本を閉じる。椅子の上に片膝を立てて、頬杖をついた。 「私に言わせると、あんたらは甘すぎるんだよね、麒麟《きりん》さんに。ちやほやしたい気持ちは分かるけど、事は国のことなんだから、程度ってもんがあるでしょうが。ひょっとしたら地方の乱どころじゃなく、大逆の可能性がある。それを一国の宰輔が分かってなくてどうするんだ。宰輔には宰輔としての役割があるでしょうが。年齢なんか関係ない。州師を動かすのにだって宰輔の允可《きょか》が必要なんだからね」 「それは……ですが」 「そんな怖い貌で押し掛けてこられるようなことじゃないよ。私は理《り》を通しただけ。条理《じょうり》を曲げているのは、そっちのほう」  李斎は押し黙った。琅燦の言は間違ってはいない。 「これでもし、主上に何かあったら、どうするわけ。台輔は小さいけど、無能でも無力でもない。そうやって一事が万事、台輔を憐れんで庇うのは、台輔を侮ることと一緒なんじゃないの。主上に危険があって、それを救うために台輔にできることがあるんだったら、やってもらわないといけない。やらせてあげないのは、かえって酷だと思うけどね」  泰麒のひどく落胆した様子が甦《よみがえ》った。 「……そうですね」  うん、と琅燦は満面の笑みを浮かべる。 「李斎は物わかりが早い。たいへん、宜《よろ》しい」  李斎は思わず苦笑した。 「琅燦殿は、これが弑逆《しいぎゃく》だと思っておられますか」  李斎が問うと、琅燦は不意に表情を硬くして膝を抱え込んだ。 「……それが分かればね」  琅燦は深い息を吐く。 「分かってからでは間に合わないかもしれない。文州までは遠いから。空行師《くうこうし》を使っても数日はかかるだろう。いざというとき、頼りになるのは戴国秘蔵の宝重《ほうちょう》とやらなんだけど、あれを使えるのは王か麒麟──泰の国氏《こくし》を持った者だけだ。宝重を使えるのも台輔。そして多分、切羽詰まったとき、一番確実で、当てになるのは、台輔の使令《しれい》だ」  李斎《りさい》は、はっとした。琅燦《ろうさん》は悪戯《いたずら》っぽく上目遣いに李斎を見る。 「私に言わせると、あんたらがなんだって台輔をああも非力な子供みたいに扱うのか分からない。いるんでしょ、饕餮《とうてつ》が」 「……それは……ええ」  麒麟は妖魔を使令として使役する。泰麒は不幸にして蓬莱《ほうらい》で生まれ、育った。そのせいで無数に持っていていい使令をただの二しか持っていない。一方は麒麟の養い親となる女怪《にょかい》で、これは使令の数のうちには入らないといっていい。厳密に言えば使令は一。唯一の使令が饕餮だった。ほとんど伝説の域にいる強大な妖魔。 「化け物中の化け物だよ、饕餮は。それが憑《つ》いている子供を非力と言うんだったら、私たちなんか、みんな赤ん坊みたいなもんじゃない」  言って琅燦は目を細め、どこともしれない宙をひたと見据えた。 「言いようによっちゃあ、饕餮以上の化け物なんだよ……あの麒麟さんは」       4  李斎らは、文州の乱が謀反の一部である証拠を──あるいは、そうでない証拠を掴《つか》もうとして躍起になったが、成果は遅々として上がらなかった。特に文州と強い誼《よしみ》を持っている者もおらず、格別、奇妙な振る舞いをしている者も見あたらない。王宮の中で、不審な人影を見た、と言う声が上がることはあったが、これはもう噂以上に、海のものとも山のものとも知れなかった。そして、その最中に、あの蝕《しょく》が起こったのだった。  李斎は路門から仁重殿《じんじゅうでん》のほうへと走った。辺りは惨憺たる有様だった。楼閣の残骸を避けているところに駆け寄ってくる数人の姿と出くわした。 「ああ、李斎──」 「臥信《がしん》──。台輔は」 「分かりません。私もそれを確かめようと思って」  言いながら、さらに駆ける。仁重殿のある一郭は、今や瓦礫《がれき》の山だった。辛うじて残った建物も、悉《ことごと》く西の一郭が潰《つぶ》れている。正殿である仁重殿の建物そのものも例外でないのを見て取って、李斎は背筋が冷えた。  庭院《なかにわ》を進んでいると、声がした。見ると、半ば傾いた建物の中から、泰麒づきの大僕が這い出してくるところだった。背中には正頼《せいらい》を担いでいる。 「潭翠《たんすい》──台輔は」  叫んで駆け寄る。 「分かりません。お側にいなかったのです。いったい何が起こったのですか」  表情に乏しい男の、血相が変わっていた。頭から埃《ほこり》と壁の欠片を被《かぶ》り、細かな傷を無数に作っている。担《かつ》がれている正頼のほうも同様だったが、とりあえず大きな怪我はなさそうだった。どこか、瓦礫の中から馬が悲痛な声で嘶《いなな》くのが聞こえた。 「なぜお側を離れた。──最後にお見かけしたのはどこだ」  李斎が詰め寄ると、潭翠《たんすい》は首を振る。 「正殿においででした。私は正頼に呼ばれて、その場を小臣に任せて離れたんです」  地鳴りはいつの間にか熄《や》み、辺りには呻き声と悲鳴が満ちていた。救済を求める人々の声が聞こえていながら、その彼らを助けるより先にしなければならないことが、李斎らにはあった。泰麒を捜さなくては──思っていると、遠くから李斎らを呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、やはり数人の手勢を連れた阿選《あせん》がやってくるところだった。 「台輔は」  第一声、そう訊いてきた阿選は、潭翠らと大差ない有様だった。正殿らしい、と臥信が答え、正頼を兵卒に任せ、李斎らは潭翠を伴って奥へと向かった。凍るような思いで正殿の中を探し、瓦礫の間を探したが泰麒の姿は見えなかった。正殿ばかりでなく、付近のどこからも見つからない。夜を徹して続けられた捜索は甲斐もなく、そして、文州から飛んできた青鳥《しらせ》がこの捜索を否応なく棚上げにしてしまったのだった。  青鳥がもたらした報せによって、国府の混乱は極に達した。  王宮が鳴蝕《めいしょく》によって受けた被害は甚大で、官吏の多くが負傷し、行方不明になった。さすがに燕朝《えんちょう》のことだけはあって、その場にいた官吏のほとんどは仙だったから死亡者こそは少なかったが、さすがにそれでも皆無とはいかなかったし、仙籍に入れられることのない奚《げじょ》や奄《げなん》からは甚大な犠牲者が出た。国政は、官吏の負傷と混乱によって完全に止まった。誰もが、何をどうすればいいのか分からなかった。 「いったい、主上はどうなさったのです」  李斎の問いに答えたのは芭墨《はぼく》だった。 「霜元《そうげん》の書状では、主上は戦闘の最中に姿を消してしまわれたとか。霜元らがお捜し申し上げたが、見つからなかった。分かるのはそれだけで、具体的に何が起こったのかさっぱりわかり申さぬ。とにかく霜元だけでも一旦戻るよう、指示をいたしたが、青鳥が着いて霜元が戻るまでには、どんなに急いでも十日近くがかかるだろう」 「文州の様子は」  訊いたのは巌趙《がんちょう》で、これには芭墨は首を横に振った。 「平定したわけではないようだ。睨み合ったまま膠着しておるらしい」 「では……どうするのです?」  訊いたのは花影《かえい》だったが、これに答えられる者は誰もいなかった。どうすればいいのか分かっている者は勿論、これに答える権限を持っている者がいなかったのだ。王が不在であれば、その穴を埋めるのは冢宰《ちょうさい》の職分、しかしながら冢宰の詠仲《えいちゅう》は鳴蝕によって重傷を負い、未だ起きあがることも話をすることもできない。王の補佐となるべき宰輔も姿が見えず、王の代わりに諸官の意見をとりまとめ、決を下す者が朝廷には存在しなかった。 「こういう場合はどうなるのです? 官を指揮するのは……」 「慣例によれば、天官長が六官の首《おびと》として冢宰を兼務する」  芭墨《はぼく》の言に、その場にいた者たちは沈黙した。天官長の皆白《かいはく》は鳴蝕の当時、仁重殿に近い三公府にいたことが確認されている。王の指導役、宰輔の相談役とも言える三公の府第《やくしょ》は、甚大な被害を受けて倒壊した。三公とその補佐を行う三|孤《こ》、六名のうちの二名は死亡し、一名が重傷、残る三名と皆白の四人は、今に至るも発見されていない。 「かくなるうえは、天官に次ぐ官、地官長に働いてもらうしかないと思うが」  芭墨が言うと、地官長の宣角《せんかく》は頭《かぶり》を振った。 「とんでもございません。私は到底、その器にありません」  固辞する宣角に、あえて勧める者はいなかった。宣角は温厚な若い文官で、驍宗軍とは無関係に瑞州から抜擢された官吏だった。誠実な人柄だが、経験も浅く、しかもこの非常時に軍のことは分からないでは通らない。それでなくても、朝廷は武断の朝廷、残された主たる官吏の多くが驍宗軍の麾兵《ぶか》であることを思えば、望むらくは驍宗軍の麾兵、最低でも武官でなければ朝廷を束《たば》ねきれないことは確実だった。 「正頼《せいらい》殿ではいかがでしょう」  宣角は言ったが、これに応える者はいなかった。正頼も負傷し今は休んでいたが、さほどの怪我ではないらしい。身体的にも問題はなく、しかも正頼はもともと驍宗軍の軍吏、麾兵であると同時に名うての文官でもある。その意味では官を率いるに最適の人材で、その場にいた誰もがそれを承知していたが、それでも正頼に、という声はどこからも上がらなかった。 「……主上がお戻りになるまでの間、誰かが朝廷を束ねると言うことであれば、正頼でも良いだろう。だが、これはそう言う問題ではあるまい」  芭墨の言に、誰もが頷いた。誰が官吏の代表になるのか、という問題ではない。ただそれだけのことなら、正頼でも芭墨でもいい。宣角でも李斎でも──。問題はそう言う次元になかった。戴には今、王がいない、というところにあるのだ。  驍宗の安否が分からない。もしも驍宗が身罷《みまか》ったのであれば、国には次の王が必要だった。誰が次の王になるべきなのか──これはそういう、甚だしく重大な問題なのだった。  玉座が空けば、次王が登極するまで冢宰がそれを埋める。だが、重傷を負った詠仲はその任に当たることができない。天官長はいない。その他の者では、仮にとはいえ、玉座を埋めるだけの後ろ盾に乏しい。慣習と天の条理、どちらの後ろ盾もない者が朝廷を束ねることは不可能に近い。それだけの威信が得られない。 「とにかく、冢宰《ちょうさい》の代わりを一刻も早く立てることではないですか」  言ったのは春官長の張運《ちょううん》だった。 「人心を束《たば》ねるに足る人物を推挙して冢宰に立て、仮朝《かちょう》を開かないことには」 「それは順番が違うだろう」  巌趙《がんちょう》が努声を上げた。 「驍宗様は姿が見えないだけだ。霜元も消えたと言って寄越しただけで、死んだとは言っていない。安否の確認が先だ」 「ちょっと待ってくださいまし」  花影《かえい》が声を張り上げた。白い顔は不安と緊張でさらに青白くなっている。 「……こういう場合はどうなるのでございます? 誰か慣例をご存じでしょうか」  こういう場合、と呟く声に、花影は頷いた。 「不吉なことも申しますが、どうぞ御容赦ください。たとえば主上が身罷《みまか》られた場合にはどうなるのですか?」 「それは台輔が次の主上を──」  答えた宣角に、 「けれども、その台輔のお姿が見えません」 「台輔が亡くなられておられれば、空位ということになります。慣例通り、冢宰が仮王《かおう》として立って仮朝を開くのが順当かと。そのために、詠仲《えいちゅう》殿の具合がよろしくないのであれば、新たに冢宰を任じる必要があると思われます」 「誰が任じるのです?」  宣角は絶句した。 「──冢宰を任じる権をお持ちなのは、王と台輔でございますね? 主上がおられないのなら、台輔がこれを行う。けれども主上がおられず、台輔もおられない、しかも冢宰も任に就けない……そういう例が、かつてあったのでございますか?」 「ないと思う」  芭墨は苦々しげに答えた。 「いや、王と冢宰が時を同じくして斃《たお》れた例はあるだろう。その時、たまたま冢宰も運命を同じくした例もあるだろうが、その場合は偽王が立つ。謀反あって王が宰輔共々|弑《しい》され、冢宰、天官長もまた屠《ほふ》られた、そういう場合でなければ、ここまで見事に朝廷を束ねるべき者が欠けるものではない」 「冢宰は亡くなられたわけではありません。重傷とはいえ、意識だっておありになる」  宣角は声を高くした。 「冢宰に御璽《ぎょじ》を預け、冢宰自ら次の冢宰を任じていただくことはできるはずです」 「冢宰が御璽を預かることができるのは、台輔がそれを任じた場合だけだ。その台輔がおられないのに、どうやって冢宰に御璽を預けるのだ」 「そもそも主上が亡くなられたのであれば、御璽そのものが効力をなくす。その場合は、白雉《はくち》の足が必要だ。白雉の足であれば、六官三公の推挙によって、新たに冢宰を任じることができる」 「だから、主上が亡くなられたとは限らぬ。まず安否を確認し、主上と台輔の行方を国を挙げて探さねばならぬ」 「では訊くが、その挙国の事業を行う主体は誰なのか。官を束ねる者なしに、国を挙げて動くことが適うとお思いか」  議場は一瞬のうちに混乱の中に投げこまれた。李斎はその片隅で呆然としていた。王が斃《たお》れた例はある。宰輔が斃れた例もある。だが、その双方の行方も安否も分からないなどという例が、これまであったとは思えない。一方だけでも無事に残れば、その場合どうするかの慣例はあろう。だが、双方ともおらず、しかも死んだとは限らないという、あまりに曖昧な現状をどうすればいいのか。 「とにかくまず、規《のり》を無視しても主上の安否を」  誰かが声を張り上げたときだった。 「主上は亡くなられた」  静かな声が割って入り、議場は水を打ったように静まった。李斎が声のほうを振り返ると、議場の入り口に阿選《あせん》が立っていた。これまでの混乱が知れると言うものだ、誰も阿選がその場にいなかったことに気づいていなかった。  阿選は一同を見渡し、掌を差し出した。その掌には、鳥の足が載っていた。 「僭越《せんえつ》とは思ったが、何よりまず主上の安否を確認することが大事であろうと愚考して、梧桐宮《ごどうきゅう》を訪《おと》ない、二声《にせい》宮に参じさせていただいた」  議場に呻き声が交錯した。阿選はごく静かに言った。 「白雉《はくち》は落ちておられた。慣例に従い、足を切ってここにお持ちした」       5  李斎が言葉を切ると、堂室《へや》にいた五者は五様に声を漏らした。 「それは……」  陽子の声に、李斎は頷いた。 「白雉が落ちたと言うことは、王が死んだことを意味します。私たちは絶望の底に突き落とされたようなものでした。──あのとき、その場にいた者たちにとって、阿選の言を疑う理由は、どこにも存在しなかったのです」  驍宗の、かつての同輩。双璧と呼ばれ、公私に亙《わた》って親しかったとも聞いていた。革命の後も、驍宗は阿選《あせん》を篤《あつ》く遇したし、驍宗の麾下も阿選には一目を置いていた。阿選もまたこれらの信頼によく応えていたし、泰麒までもが懐《なつ》いているように見えた。  なんの懸念、波風もなかった水面から、唐突に阿選は姿を現したのだった。  議場はしばらく静まりかえった。誰もが衝撃のあまり、声を発することができなかった。その思い沈黙を割ったのは、やはり阿選だった。 「ともかくも、王宮で被災した者たちの救済が必要だと思うが、いかがだろうか。負傷した官吏は勿論、奄奚《げなんげじょ》を加療するための場所が必要ではないだろうか。外朝にでも加療院を設けることが急務だと思うが」  宣角《せんかく》は頷き、そしてふいに顔を上げた。 「そう言えば、鴻基《こうき》の街はどうなったのでしょう」 「無事のようです」  これもまた、答えたのは阿選だった。阿選はいち早く手勢を市民救済のために向かわせ、鴻基の市井にはさしたる被害のなかったことを確認していた。雲海の上で起こった蝕は、雲海に遮られて下界には届かなかったらしい。とにかく、被災した官吏や奄奚のための加療院を設置することが書面にされ、そこに白雉の足が押捺された。その段になって、誰かが、印影の消えた御璽を保管しておく必要を思い出したが、これについても、すでに阿選が麾兵《ぶか》を向かわせていた。しかしながら、正寝も被災を免れず、御璽は散乱した瓦礫の間に紛れこんだと見える。至急探させている、とのことだった。  ──つまり、他の官がここで徒《いたず》らに狼狽《ろうばい》していた間に、阿選だけがやるべきことを把握し、それを行動に移していた、ということだった。  白雉の足は、王亡き後は、御璽である。それは誰かが保管せねばならなかったし、本来ならその任に当たるべき宰輔はおらず、宰輔がいないとき、代わってその責を負う三公も、補佐役となる三孤を含め、誰一人いないという有様だった。冢宰《ちょうさい》も負傷して寝付いている。王宮の中は言うに及ばず、事態は混乱を極めている。この激変に対して、決裁しなければならない文書は無数にあった。その全てに白雉の足は必要で、誰かがそれを保管すると同時に、文書にそれを押捺《おうなつ》せねばならなかった。  白雉の足を持ち帰った阿選が、その任に就くことは、あまりに自然なことに思われた。誰も異を唱えなかった。自分たちがただ狼狽していた間に、行うべきを行っていた将軍、国は非常時にあり、文官よりも武官が指導者になることが望ましい。そもそも朝廷は武の王朝で武官に対して親和力が強く、しかも阿選はもともと驍宗と並び称されてきた逸材だった。阿選もまた次王として嘱望されていた。驍宗自身も登極してからでさえ、阿選には一目を置き、篤く遇してきた。──そのことを誰もが思い出した。  驍宗の敷いた道は武断の道、いまさら冢宰やその他の者のような文官が、驍宗の代役を務めるわけにもいかない。王都に残された武人といえば、巌趙《がんちょう》に臥信《がしん》、そして李斎《りさい》の三名だったが、巌趙も臥信も叩き上げの武人で施政者に向くとは思われなかったし、李斎も出自は一州師の将軍でしかない。驕《きょう》王の許でも禁軍将軍を務め、政にも深く関わってきた阿選《あせん》が、とりあえず驍宗の後を引き継ぐことは、思いついてみればこの上なく妥当なことに見えた。この場はとりあえず阿選に任せ、非常時が過ぎ、事態が落ち着いたところで改めて朝廷を編成し、仮朝《かちょう》を開けば良い──誰もが何となく、そのように考えた。  誰が言い出すでもなく、白雉の足は阿選が保管することになった。決裁すべき文書が山のように阿選の許に持ちこまれ、それを捌《さば》いていく阿選は、自然、内殿に留まることになった。誰もそれに違和感を感じたりはしなかった。  驍宗を捜索し、文州を治めるために臥信が文州へと派遣され、代わりに率いる将を失った阿選軍が呼び戻されることになった。そして、王宮に異変があるのを嗅《か》ぎつけたか、李斎の郷里になる承州で乱が起こった。李斎は急遽、承州へ旅立つことになったのだった。 「李斎──出陣とか」  李斎の許に花影が訪ねてきたのは、明後日に出立を控えた深夜のことだった。 「ええ。承州ならば、私が行くのが適任でしょう。承州の地の利に通じているから」  そうですね、と同意した花影はしかし、いつものように不安げで、ひどく心細げにしていた。まるで今生の別れのように李斎の顔をまじまじと見る。 「心配は要《い》りません。私は承州のことなら熟知しているし、承州師には知人、同輩も多い。文州ほどの規模の乱でなし、さほどに時間を掛けず、片づけて戻れるでしょう」 「ええ……きっとそうね。一日も早いお帰りを、心からお待ちしています」  花影は微笑《わら》ったが、どこか泣き出しそうな表情だった。 「ねえ、李斎──私たち、これで良かったのでしょうか」 「……何が?」 「主上がおられない、台輔がおられない、なのにもう国は新しい時代に走り出ようとしています……私、怖くて」 「また?」  李斎が軽く揶揄《やゆ》すると、花影は複雑そうに笑った。 「そうですね、私はいつも怖がってばかりいる……」  李斎は軽く笑った。 「本当に」 「けれども李斎、私は前よりも怖い……。主上は奔馬のような方でした。私は背に跨《またが》っているのが本当に怖かった。今も国は疾走しています。けれども、私たちが跨《またが》っているものは、いったい何なのでしょう?」  え、と李斎は声を上げ、改めて不安そうな花影を見返した。 「たとえどれほど性急に見えても、果敢すぎるように見えても、主上は歴とした戴の国主でいらっしゃいました。台輔の選定を受け、天命を受けて登極されたお方。いわば、天からも認められた悍馬《かんば》であったことは確実です。けれども、今は……?」  李斎は少しの間、ぽかんとした。花影は目を逸《そ》らす。 「私たちはそもそも、仮朝《かちょう》に慣れている……。驕王《きょうおう》が亡くなられてから主上が登極なさるまで、ずっと仮朝を支えてきたのですから。だから違和感がなかったのです。でも、日に日に怖くなる。内殿に留まり、御璽《ぎょじ》の代わりに白雉《はくち》の足を持つ、あの者はいったい何なのでしょう?」 「しかし……阿選《あせん》は」 「天命がなかったことは確実です。台輔の安否《あんぴ》は未だ定かではありません。台輔がおられ──あるいは台輔が身罷《みまか》られたのであれば、現在の有様はちっとも不自然ではありません。けれども、台輔は本当に亡くなったのですか?」 「だけど、花影」 「鳴蝕があったということは、台輔はあちらへ流されてしまわれたということなのでは。いいえ、単に流されただけならお戻りになるでしょう。だから、戻りたくとも戻ってはこられない──そういうことなのかもしれません。けれども、台輔がどこかにいらっしゃるなら、今のこれは仮朝ではありません」  花影は顔を歪《ゆが》める。 「阿選は偽王《ぎおう》であり、これは偽朝《ぎちょう》です」 「……花影!」  李斎は咄嗟《とっさ》に周囲を見回した。李斎の自室、無論誰の影もない。 「李斎は、主上が文州に発たれて後の噂を覚えていますか」 「文州で轍囲は出来過ぎだ……という」 「ええ。そればりではありません。私はこの頃、もうひとつの噂のほうも気になってならないのです」 「もうひとつ?」 「ええ。主上は謀《はか》られたのだ、という噂と同時に、これは主上の謀事《はかりごと》だという噂もありましたね? 主上は王都に残した私たちを処断するために、あえて文州に向かわれたのだ、という。残されて将軍は、巌趙《がんちょう》殿に臥信《がしん》に李斎、そして阿選でした。主上があえて阿選の手勢を割《さ》いて行かれたのは、阿選の兵力を削ぐためではないかと」 「まさか」 「今になって、それが真実だったのではないかと思ったりします。この時期に主上が文州にいらっしゃったのは、そこが轍囲である以上、仕方のないことだったのかもしれません。とはいえ、あえて阿選の軍を割《さ》く必要があったでしょうか。主上はひょっとして、阿選が起《た》つことを警戒しておられたのでは」 「しかし……いいえ、驍宗《ぎょうそう》様は以前、台輔が漣《れん》に向かわれた時、阿選を副使としておつけになっています。もしも疑いをお持ちなら、そんなことをするでしょうか」 「けれども、霜元《そうげん》も一緒でしたね? 霜元と正頼《せいらい》、台輔づきの大僕である潭翠《たんすい》が同行しています。それぞれが下官を一人連れただけの、たった八人の従者、阿選と麾兵が邪《よこしま》なことを考えても、いささか行動には移し難《にく》いでしょう。けれども、これに同行したせいで、阿選は新年の冬狩に参加いたしませんでした。つまりは、あの計画の具体的な詳細を知らされてはいなかったのです。主上はあえて知らせないために、阿選をおつけになったのでは」  李斎は黙り込んだ。花影の言を鵜呑《うの》みにしたわけではない。信じたわけではないが、気に引っかかるものがあった。文州に乱を起こし、轍囲《てつい》を巻きこんで驍宗が出発せざるを得ないようにし向けるやり方、そして、粛正の詳細を知らせないために泰麒《たいき》を漣《れん》に向かわせ、その副使として同行させる、というやり方。その両者に、極めて似た臭いを嗅《か》いだのだ。不自然なほどの自然さ──とでも言うべきもの。  渦中にあれば、ごく自然にそうなったように見える、当たり前のことに見える。だが、振り返ってみれば自然を装った作為が見える──見えるような気がする。気のせいかとも思うほどの僅《わず》かな違和感、けれども妙に無視し難《がた》いその感じが、ひどく似ているように思った。そして、かつて聞いたことがある。驍宗と阿選は用兵家としても似ていた、と。  ひょっとしたら……と、李斎は僅かに息を呑んだ。李斎も知らない、誰も気づかない水面下で、似たもの同士が互いに互いの足許を掬《すく》おうとして熾烈な戦いを続けていたのかもしれない。それが水面に、本当に有るか無しかの波紋を起こしていたのではないか。ほとんどの者は見逃すが、中にはそれに気づく者もいる。時に花影が違和感を感じ、時に李斎が引っかかりを覚え──そのように、方々で大勢の者たちが微かな不審を嗅《か》ぎ取り、それがあの奇妙に錯綜した噂話に発展しはしなかったか。  李斎は僅《わず》かに震えた。明後日の未明には鴻基《こうき》を発《た》って承州に向かわねばならない。選《よ》りに選ってこの時期に、承州でまた乱が起こる。残された将軍顔ぶれれを見れば、李斎が承州に向かうことが当たり前のことのように思える──だが。 「李斎……杞憂《きゆう》ならそれでちっとも構いません。いいえ、私はこれが臆病な私の心根が見せる邪推なのだと思いたい……」  花影は言って、李斎の手をしっかりと握る。 「無事にお戻りになって。そして花影は本当に臆病者だと笑ってやってください」  李斎は頷いた。  その明後日、未明に李斎は鴻基を発った。胸の中に真っ黒な不安を抱えたまま。  ──そうしてそれが、李斎にとって鴻基の見納めとなったのだった。       6  李斎《りさい》は深い息をついて、手の中の珠を握り締《し》めた。 「──私は承州《じょうしゅう》へ向かわねばなりませんでした。鴻基《こうき》を発ち、半月で瑞《ずい》州から承州へと入りました。州境を越えて何日目か、幕営に駆け込んできた下官があったのです」 「どうかお助けください。私は殺されてしまいます」  身を震わせながら言った彼は、酷《ひど》い身なりをしていた。官吏とは思えない、下層民のような袍子《のらぎ》姿、泥《どろ》と垢《あか》にまみれているのは、浮民の間に入って追っ手の目を逃れようとしたせいのようだった。 「私は春官|大卜《だいぼく》の下官でございます。二声宮《にせいきゅう》に努めておりました」  言って彼は綬《じゅ》を差し出した。綬は三指ほどの幅に作られた組み紐《ひも》で、その所属する地位によって長さと色が変わる。褐衣《ぼろ》の懐から取り出した綬は、見れば確かに春官大卜、二声氏のもの。二声氏はその名の通り、二声宮に置いて白雉《はくち》の世話をする。 「二声氏が、どうして」 「将軍が……確か禁軍の将軍です。禁軍右翼の」 「……阿選《あせん》」 「はい。確かに丈《じょう》将軍でした。あの日です──あの大きな災いのあった日の夜、突然、手勢を連れて二声宮に入って来られたのです。被害はないか、官は皆無事かと仰《おお》せでした。本来ならば大卜の免許がなければ扉を開いてはならないのですが、場合が場合なのでつい開いて将軍を中に入れてしまったのです」 「阿選を?」 「はい、そして丈将軍──阿選は急に踏み込んでこられるなり、いきなり白雉に斬りかかりました。けれども阿選の剣では白雉を切ることは叶いませんでした。剣が素通りしてしまうのでございます。それを悟ると、阿選は私の同輩に命じて雉《きじ》を連れてこさせました。郊祀《まつり》に使う鶏人《けいじん》管轄の雉でございます。同輩は左右を兵士に挟まれ、剣で脅されて鶏人のところへ向かい、雉を持ち帰りました。すると阿選はその雉を殺して足を切り、白雉を壺に籠《こ》め穴に埋め──」  言って彼は顔を覆う。 「そしてその場にいた官吏を殺害に及んだのです……」  彼は辛うじてその場を逃げ出した。鳴蝕で宮が半ば崩れていたことが幸いした。 「私は阿選が入ってきた時から嫌な予感がしていたのです。主上は将軍の誰かを恐れておいでで、文州に向かわれたのもその誰かの執拗な刺客から逃げ出すためだという噂がありました」 「そんな噂が……?」 「はい。それを思い出して、不安でならず、それでできるだけ隅のほうの目立たない辺りへ少しずつ場所を移動していたのです。恐ろしいことが始まって、わたしは瓦礫の間に身を隠しました。すると、そこに穴があって、外に抜け出すことができたのです」  この若い官吏は付近の混乱と夜陰に紛《まぎ》れて官邸へと戻ったが、すぐに探しに来る者があった。これも走廊《つうろ》の下に隠れてやり過ごすことができたが、その時、死体の数が合わない、逃げたはずだと話し合う兵士の声が聞こえたという。 「命《いのち》からがら、私は宮城を抜け出しました。遺体を運ぶ車の中に紛れこんで、死人のふりをして門を通り抜けたのです。鴻基の外の冢堂《ちょうどう》の前に落とされたところで、這《は》い出して逃げ出しました。最初はまっすぐに瑞州の所領へ行ったのですが、そこにも空行師《くうこうし》の姿が見え、とにかく瑞州を離れようと、浮民の中に混じってここまで逃げてきたのです」  彼は言って、李斎に縋《すが》るようにして手を合わせた。 「お助けください。私は阿選に殺されてしまいます。どうか──」 「確かに引き受けた」  李斎は頷いた。側近に命じ、とにかく休ませるよう言いつけ、くれぐれも姿を見られぬよう、他言せぬよう厳重に言い含めておいた。そして李斎は二通の書状を認《したた》めると、そのうちの一通を側近に持たせ、鴻基へと向かわせたのだった。乱の平定について助言を請う、という体裁を整え、密書を持たせ、必ず本人に渡すよう、余人が手を触れそうになった場合には破棄するよう厳重に言い含めて、王宮の芭墨《はぼく》に向けて使者を送った。同時に、元州の霜元《そうげん》に対しても青鳥《しらせ》を出した。  ──阿選、謀反。  駆け込んできた二声氏は幕内に隠し、李斎は粛々と承州を進んでいった。そして十日後、突然、空行師が舞い降りてきたのだった。阿選軍の徽章《きしょう》を着けた彼らは、忌《い》まわしい朱印を捺《お》した文書を携《たずさ》えていた。 「二声氏と秘かに通じ、白雉の足を私物化せんと二声宮に踏み込み、官吏を惨殺したことはすでに明白である」  空行師はそう言い、挙《あ》げ句《く》には驍宗を弑《しい》し、泰麒を弑した、と断じた。 「劉《りゅう》将軍には宮城へお戻りいただく。無駄な抵抗などして、御名を汚さぬが良かろう」  二声氏など知らない、勿論いないと言い張ったが、空行師は明らかに李斎の幕営に彼が匿《かくま》われていることを知っていた。若い官吏は引き出され、その場で有無を言わず切り捨てられた。李斎には手を出さぬ、と空行師は言っていたが、それは軍兵の目があってのこと、鴻基《こうき》へと連行される途中で殺されることは疑いがなかった。  李斎がそれを逃れることができたのは、ひとえに空行師が李斎を連行するのに、李斎の騎獣──飛燕《ひえん》への騎乗を許したからに過ぎない。飛燕の助けを借り、李斎は辛うじて逃げ出すことができた。すでにそこは承州、李斎は承州に知古を数多く持っている。それもまた、李斎の命を永らえるのに一役を買った。  李斎はその日以来、大逆の罪人になった──。  李斎は泣きたかった。国賊と呼ばれる以上の屈辱はない。謂《い》われのない汚名を着て、方々を隠れ住む日々が続いた。知古の多くは李斎を信じ、同情してくれたが、中にはなぜこんな罪を犯した、と責める者もあり、さらには李斎を阿選に引き渡そうとする者もあった。そうでない者の一部は、李斎を匿った罪によって裁かれ、大逆に荷担した罪人として刑場に汚辱にまみれた屍《しかばね》を曝《さら》すことになった。 「一年……いいえ、それ以上、ただ隠れ、追撃を逃れるだけの日々が続きました。私がそうして放浪している間に、阿選は宮城に確固とした居場所を築いていたのです。やがて、民の目にも阿選こそが逆賊であったことは明らかになりました。その時にはもう──遅かったのです」  当時、文州にいた英章《えいしょう》と臥信《がしん》はそこで姿を消した。驍宗麾下の多くが国土に散らばり、潜伏し、あるいは秘かに討たれたと聞いた。王宮の内部のことは、全く窺《うかが》い知ることができなかった。立ち上がって阿選を責める者もあったが、そういった者たちは、悉《ことごと》く討《う》たれ、あるいは姿を消す運命にあった。 「阿選は僅《わず》かでも自身を責める者、主上を褒《ほ》める者を許しませんでした。轍囲《てつい》──主上がそもそも阿選に謀《はか》られることになったあの地は、阿選軍によって一柱残らず焼き払われてしまいました。主上の出身地──委《い》州の土地も焼かれ、かつて所領であった乍《さく》県は包囲され、物資を完全に止められて、その年の冬にほとんどが死に絶えたとも聞きます」  陽子は愕然とした。 「阿選は、そこまで泰王を憎んでいたのか?」 「かもしれません。……分かりません。私はそれまで、そこまでの確執があるようには見えませんでした。秘めていただけ、阿選の憎悪は深かったのかもしれません。しかも、そうやって焼き払われ、冬に捨て置かれて無人となった里櫨《まちまち》は、なにも主上|由縁《ゆかり》の地に留まりませんでした。阿選を指弾し、阿選に反した土地も、やはり同様の命運を辿《たど》ったからです」  待て、と声を上げたのは、黙って李斎の弁を聞いていた延王尚隆だった。 「それでは国土の破壊だろう。阿選は泰王から盗んだ羊を絞め殺そうとしているようなものではないか」  はい、と李斎は頷いた。 「私もそう思います。阿選が主上を弑《しい》し、玉座を盗んだのは、自分こそが王として戴に君臨したいからだったはずです。……けれども、私にはそのように見えませんでした。阿選は戴を支配し治めることに興味を抱いていないように見えたのです」  驍宗《ぎょうそう》を恨み、驍宗のものを掠《かす》め取ろうとして起ったわけではない──李斎《りさい》にはそういう気がしている。阿選《あせん》が反した動機は、噂に言うように、双璧と呼ばれた片割れが王になり、自分がその臣に下った恨み、などという分かりやすいものではなかったのだろうと思う。だからこそ、誰一人、阿選を疑っていなかった。  まるで戴を憎んでいるかのようだ、と李斎は感じていた。阿選は自らが治める国土が破壊されていくこと、支配する民が死に絶えていくことを寸毫《すんごう》も気に留めてないように見えた。それゆえに、阿選に対して打つ手がなかった。 「乱があれば阿選がこれを押さえようとして兵を遣わすだろう、双方《そうほう》が睨《にら》み合った隙に何事かできるだろう、などという計略は立てようもありませんでした。乱が起これば大量の兵士を向かわせ、有無を言わさず里櫨《まちまち》を焼き捨て反民《はんみん》を殺すだけなのですから。阿選は逃れた反民を追うことすらしません。逃げてまた起てば、また殺すだけ──そんなふうなのです」 「しかし、それでは国は立ち行くまい」 「そのはずです……でも」  なぜそうなるのかは分からない。それほどの振る舞いをしながら、阿選を支持するものは後を絶たなかった。阿選を恐れて恭順した──それは多分、正しくない。李斎は逆賊として逃げ回り、後には驍宗を捜して戴を奔走した。その途中、阿選に不審を抱く者、反意のある者があれば、これを集め、組織立てて謀反を起こそうとしたが、それはいつも不思議なほど成功しなかった。必ず内部から転向者が出て、瓦解《がかい》してしまうのだ。昨日まで阿選を指弾し、阿選の非道を声高に叫んでいた者が、翌日には唐突に阿選の支持者になっている。地位の高い者ほどその傾向が著しかった。 「昨日まで反民を保護してくれていた州侯が、突然保護していた我らを阿選に売り、自身は何事もなかったかのように阿選に下って州侯を続ける、ということもございました。自らの州が蹂躙《じゅうりん》され、民が殺されても、もはやまるで意に介さないのです」  病《や》む、という言葉が囁《ささや》かれるようになった。それは確かに何らかの疫病《えきびょう》に似ていた。罹患《りかん》した者は阿選に対する反意をなくす。どんな非道も意に介さず、目の前で何が起ころうと心を動かすことがない。 「洗脳……みたいなものだろうか」  陽子は呟《つぶや》く。何かそういう手段で戴を席巻しているのか。いずれにしても、それでは逆賊を倒そうにも手の打ちようがあるまい。 「戴の民には、自らを救う術《すべ》がありません……」  李斎は喘《あえ》いだ。陽子は慌《あわ》ててその手を握った。 「──大丈夫か?」  陽子の問いに李斎は、大丈夫です、と気丈にも答えたが、声は忙《せわ》しない息づかいに途切れ、閉じた瞼には濃い影が落ちていた。 「……もういい。今日はここまでにしよう。とにかく」  休め、と言おうとした陽子の手を、細く窶《やつ》れた李斎の指が強い力で掴《つか》んだ。 「お願いです、……戴を」  分かっているとも、と陽子は李斎の手を強く握り返す。浩瀚《こうかん》に呼ばれ、近くで控えていた虎嘯《こしょう》が駆け込んできた。ここまでにしてくれ、と言われ、陽子は後ろ髪を引かれる思いで堂室《へや》を出た。  陽子は尚隆と浩瀚の顔を見る。 「見捨ててはおけない──そんなことはできない」  陽子、と尚隆は低く叱咤《しった》する。 「あの有様を見ただろう? あれを見捨てることが許されると思うのか? 見捨てるしかないなんて……そんな王にどんな存在価値があるんだ」 「陽子、そういう問題ではない」 「天は仁道《じんどう》を以《もっ》て天下を治めろ、と言ったんじゃなかったのか。ここで戴を見捨てることが仁道に適《かな》ったことなのか? 天が許さないと言うけれども、それは本当に確かなことなのか? そもそも天はどこにあるんだ。許さないという、その主体は誰だ?」  天には天の摂理があり、天帝がこれを統《す》べると言う。だが、陽子は天帝が王に任じるという、その儀式の最中にさえ、天帝を見たこともなければ、声を聞いたこともない。いると言われている、信じられている──天帝の威信が世界を支えていることは承知しているが、誰一人その天帝を見た者などいないのだ。 「ここで慶を守り、戴を見捨てることが王の義務なら、私は玉座なんかいらない」  陽子は言い捨てて、庭院《なかにわ》へと駆け下りた。       7  陽子は勢いに任せて金波宮《きんぱきゅう》を奥へと向かった。しばらく闇雲《やみきも》に歩き、ひっそりとした建物群を通り過ぎ、やがて雲海に面した静かな場所に出た。金波宮は複雑な起伏を持った山に広がる。どこかの宮の庭院《なかにわ》を過ぎ、岸壁に穿《うが》たれた短い隧道《すいどう》を潜《くぐ》ると、奇岩の合間に拓《ひら》けた小さな谷間のような場所に出た。谷間の先は雲海に張り出した岬だった。ぽつりと路亭《あずまや》があるだけのごくごく小さな場所で、夏草が小さな花をつけている以外、これと言って見るべきものもない。  陽子は軽く息を吐いた。左右に聳《そび》えた岸壁の上の木立が落とす影、緑の匂いと潮の香り、眼下に広がる雲海の眺望の他には何もない。 「こんな場所があったんだ……」  陽子は呟いて草原《くさはら》に腰を下ろした。夏鳥の声が降り、潮騒《しおさい》が満ちる。金波宮《きんぱきゅう》にこういう場所があることを、陽子はこの時まで知らなかった。そもそも広大な王宮のほとんどの場所は陽子にとって無用の場所だ。あえて立ち入ったことがない。  ──ここは悪くない、と陽子は頬杖《ほおづえ》をついた。  どこなのか、さっぱり分からず、どうやって帰ればいいのか見当もつかないけれど。  金波宮に限らず、この世界は余白というものに乏しかった。壁にも柱にも色彩と模様が踊り、何もないぽっかりとした空間が少ない。それは園林《ていえん》も例外ではなく、個性の強い樹木や岩で、ぎっしりと空間が埋められている。  雲海の眺め以外に何もないここは、歴代の王に見捨てられてきた場所なのかもしれない。路亭《あずまや》はあるものの彩色も剥《は》げ、人の手が頻繁に入っている様子がなかった。だからかえってほっとする。──そういうとき、異世界を出自とする自分に思い至る。  王として立つ、それだけで精一杯で故国を思い出すことはほとんどなかった。たまに思い出しても、昔に見た夢のような心地がする。忘れていたのか、蓋《ふた》していたのか──それが泰麒《たいき》のことを聞いてからというもの、少し揺れている。懐かしい、という気持ち。恋しいとまでは言わないが、もう戻ることはないのだと思うと、切ない喪失感がある。  同じ時代の同じ場所を共有した麒麟。  ──今頃、どこで何をしてているのだろう。  蝕があったということは、あの夢のような世界へ戻ってしまったと言うことなのだろうか。だが、なぜ泰麒は戻ってこない?  考え込んでいると、微かな足音がした。振り返ると、陽子の僕《しもべ》が立っていた。 「……よくここが分かったな、景麒《けいき》」 「主上がどこにおられるかぐらい、いつでも分かります。……浩瀚《こうかん》が探しておりましたよ」 「うん……」 「延王は難しい顔をなさっておいででした」 「……だろうな」 「横に坐らせていただいても?」 「どうぞ。……景麒はどう思う?」 「どう、とは」 「やはり仁の獣でも、戴を見捨てるべきだと思うか?」  横に座った景麒は、しばらく無言で雲海を見ている。 「……戴の民が哀れです」  ぽつりと言うので、陽子は頷《うなず》いた。 「戴は荒れていると聞いたけれども、たぶん事態は想像以上に悪い」 「そのようですね……。たとえ空位になったとしても、まだ六年にしかなりません。普通は六年で目を覆《おお》うほど酷《ひど》い有様になることは少ないのですが。泰王が登極される以前から荒廃が著しかったというわけでもありませんし」 「行ったことがあるんだっけ、鴻基《こうき》に」 「はい。王が登極されたばかりでも、目につくほどの荒廃はありませんでした。仮朝《かちょう》がしっかりしていたのでしょう」  ふうん、と呟き、陽子は景麒を見る。 「泰麒はどういう方だった?」 「お小さくていらっしゃいました」  陽子はくすりと笑う。 「相変わらず、景麒の説明はさっぱり説明になっていない」 「そう……でしょうか」  陽子はしばらく、一人で笑っていた。 「まあ……七年も前のことだから。聞いたところで、きっと今頃はずいぶん変わっておいでだろう」  そうですね、とだけ景麒は答えた。 「景麒がもし、国を追われたらどうする?」 「……戻ります」 「戻れない状況というのは、どういう場合だと思う」 「私には想像もつきません。泰麒は小さくていらっしゃいましたが、御自身に課せられたもののことは、ちゃんとお分かりでした。むしろ萎縮しておられたぐらいですから。何かの災いで泰を離れておしまいでも、何とかして戻ろうとなさるでしょう。それができない、という状況は思い浮かべることができかねます」 「……ひょっとして、泰王が一緒だということはないだろうか」  景麒は少し沈黙し、ないと思う、と答えた。 「なぜ? 戻りたくても戻れないということが考えられないのなら、本人に戻る気がない、と考えたほうが自然じゃないか? 泰王と共に潜伏しているのかも」 「泰麒が一緒にいるならば、泰王が潜伏なさる理由がないでしょう。泰王は民の信任を失って王宮を追われたわけではありません。傍らに麒麟《きりん》がいて、王宮の門を閉ざす兵卒がいるとは思えません」 「そうだよな……」  陽子が考え込んでいると、景麒はひっそりと零《こぼ》す。 「多分そんな……容易《たやす》いことではないと思います」 「なぜ?」 「鳴蝕《めいしょく》があったそうですから。……鳴蝕は麒麟の悲鳴が招く蝕だ、とも申します」 「悲鳴」  こちらとあちらを行き来するには、本来、呉剛《ごごう》の門を使う。月の呪力を借り、月の影に門を開くわけだが、これは誰にでも開くことができるわけではなかった。門を開くための呪物か、さもなければその能力が必要で、それができるのは上位の仙、あるいは麒麟、それなりの妖魔だけだと言われている。しかしながら、呉剛門は、当然の事ながら月のない昼間には開くことができない。黄海の中や雲海の上に開くこともないと言われている。 「鳴蝕は月の力を借りません。麒麟の力のみで綻《ほころ》びを作ります。それだけに、これは大変なことなのです。ごく小さな物とはいえ、蝕には違いないわけですから。街で起こせば付近には甚大な被害が出るでしょう。本人も無事には済まない可能性があると分かっている。ですから、普通は鳴蝕など起こしません。私も起こしてみたことはありません」 「ふうん……」 「しかも、おそらく泰麒は、鳴蝕の起こし方をご存じなかったと思います」 「知らないなんて事があるのか?」 「……泰麒の場合は。泰麒は胎果《たいか》でしたから。蓬莱《ほうらい》で生まれ、十の歳まで蓬莱で育った。そのせいで、麒麟というものがよく分かっておられなかったのです」  陽子は首を傾げた。 「……どう申し上げればいいのでしょう。私たちの獣の部分を言葉にするのは、とても難しいのですが。私は鳴蝕を起こしたことはありませんが、起こそうとしてみたことはあるのだと思うのです。具体的に記憶があるわけではないのですが、鳴蝕とはあれだという感覚がありますから。あれが鳴蝕だろう、けれどもあれは大変なことだ、よほどのことがなくてはあの先には行けない、という生々しい感じがあるのです」 「へぇ……」 「そういう種類のことが、他にもたくさんあります。私たちは幼い頃には、獣の形をしています。それが人の形になることを覚える。人に転化《てんげ》し、そして獣の形に戻る──転変《てんぺん》することを覚えるのですが、それがいつのことで、何をきっかけにどうやって会得《えとく》したのかは覚えていません。問われても、何となくいつの間にか、としか答えられない」 「私たちが歩くことや喋《しゃべ》ることを覚えるのと同じなのかな」 「なのだと思います。麒麟の能力の多くは、獣の時代に身につきます。鳴蝕もそうです。私はそれをいつ覚えたのか、記憶していません。けれども、あれだ、という感触はある。きっと小さい頃に、やってみたことがあるのだと思うのです。ある日、自分に足があることに気づいて、走ってみようと何気なく思い立つ……そういう感じに近いのではないでしょうか。なぜその気になったのか、何が起こるのかも分からずに、走ってみる気になって、走り始めてこれは大変なことだと気づいて引き返す──そういう経験があるのだと思うのです。けれども泰麒は胎果でした。蓬莱で十までを過ごされ、こちらに戻っていらしたのですが、その頃にはもう人の形でいるほどに成長していらしたのです」 「獣の時代がなかった?」 「はい。ですから、獣形の記憶を持たない泰麒は、麒麟たるべき多くの力を喪失していました。私が蓬山でお会いした時には、転変することも妖魔を使令《しれい》として下すこともできませんでした。それで鳴蝕を起こす方法を理解していたとは思えません。本能的に鳴蝕を起こしてしまうような、何かがあったのだと思います。とても悪い、恐ろしいことが泰麒の身の上に起こった。そして、その中に呑み込まれてしまい、泰麒は戻ってくることができない……」 「……そうか」  陽子は呟き、しばらく口を閉ざしていた。 「……それでも泰を救うべきではないと思うか、景麒」  景麒は陽子を見返し、そして目を逸《そ》らした。 「私に答えられるはずのないことを、お訊きにならないでください」 [#改ページ]       ※  穢濁《あいだく》は蓄積していった。彼はそのことに微塵《みじん》も気づかなかった。それによって損《そこ》なわれていくのは彼の中に閉ざされた獣としての彼だけで、殻としての彼は些《いささ》かも損なわれることがなかったからだった。  当然のように、彼の周囲にいる者たちがそれに気づくはずもなかった。ただ、彼の周囲は別のことに気づいた。彼の周りで不審な事故が多いことに。 「うちの子が、お宅のお子さんと遊んでいて怪我《けが》をしたのは二度目です」  女は彼と、彼の母親に言い放った。 「骨に罅《ひび》が入ったんですよ。もう二度と近寄らせないでください」  叩きつけるように言って去った女を見送り、母親は深い溜息だけを落とした。 「あいつが勝手に転んだんだよ」  訴えたのは、彼の弟のほうだった。 「僕と兄ちゃんのこと、棒を持って追っかけ廻してきたんだ。そしたら、勝手に転《ころ》んで溝に落ちたんだよ」  そう、と母親は呟く。 「あいつはいっつもそうなんだ。物を隠したり、突き飛ばしたり。帰り道で待ち伏せしてて物を投げたりするんだ。だから罰が当たったんだよ」 「そんなこと言うものじゃありません」 「何でだよ。あいつが虐《いじ》めてくるんだ。怪我をしていい気味だ」 「やめなさい」  母親はぴしゃりと咎《とが》めた。咎められたほうは、母親と兄を怨《うら》みがましく見た。 「兄ちゃんのせいだ。神隠しなんか遭うからだ。変わってる、気持ち悪いってみんな言うんだ。それで僕まで虐められる」  彼は項垂《うなだ》れた。それは事実だったからだ。  彼の周囲には最初、驚嘆と同情の声、そして帰還を喜ぶ慈愛が打ち寄せた。それが引くと奇異の眼差しだけが残った。それもやがて慣れによって鈍磨《どんま》していき、次いで慇懃《いんぎん》な隔絶《かくぜつ》が訪れた。彼は異常な子供だとされた。そして彼の周囲にいる子供たちは、確かにそれを持って彼を迫害した。得てして弟はそれに巻きこまれることになった。 「僕のせいじゃないのに。みんなから悪口を言われて、小突かれたり物を投げられたりするんだ」  弟は半ば泣きながら言って、彼にその場にあった玩具《がんぐ》を投げた。 「やめなさい!」 「なんでお母さんは、兄ちゃんばっかり庇《かば》うんだよ!」  弟は手近の物を投げ続け、それが尽きると彼に掴《つか》み掛かった。──いや、掴み掛かろうとした。だが、その前に弟の頭上に棚の物が降ってきた。突然、玄関の鴨居《かもい》につけてあった棚が落ちたのだ。載せてあったものは、さほどに重いものではなく、しかも弟は棚板の直撃を免《まぬが》れた。弟はきょとんとしてから、すぐに自分に降りかかった災難に気づいて大声で泣き始めた。母親は悲鳴を上げて駆け寄り、弟を抱き寄せ、そして大きな怪我のないことを確認すると、彼を振り返った。不審と不安が綯《な》い交《ま》ぜになった複雑な目で。  くつくつ、と汕子《さんし》が笑った。  ──汕子。  どこからか、傲濫《ごうらん》の咎《とが》めるような声がしたが、汕子は意に介さなかった。  ──あの子供が悪い。 「泰麒に危害を加えることは許さない……」  汕子はずっとただ見守ってきた。穢濁《あいだく》を盛られていくのも、やむを得ず容認してきた。汕子にはこちらの世界がよく分からない。だが、半覚醒の意識で漠然と理解した限りにおいて、泰麒には看守の庇護が必要であると納得していた。看守たちは少なくとも、泰麒に最低限の保障と生活の基盤を与える役を果たしていた。しかも、汕子が見た限り、この看守たちは自分たちが毒を盛っていることを知らないようだった。 「どこかに、いる。……敵の手の者が」  それが看守たちを巧妙に操っている。だが、それは誰なのか。  看守たちには、積極的に泰麒を害そうという意志はないらしい。憎み、あるいは敵視しているわけではなさそうだ。こうして泰麒を捕らえ、弑逆《しいぎゃく》に荷担しているのは、おそらく驍宗に対する敵意ゆえなのだろう。  厳密な意味で、泰麒の敵ではない。だから、看守たちの迫害、理不尽は見逃してやる。けれども、それ以外の者は。 「警告しただけ。……たとえ虜囚《りょしゅう》になっても、泰麒は麒麟なのだということを思い出させてやらないと」  隠形《おんぎょう》した手を、ほんの少し伸ばしただけだ。それ以上の行為は泰麒の気力を損《そこ》なう。だから警告だけで辛抱している。 「できる限りの譲歩はしている」  本音を言えば、汕子《さんし》は今すぐにでも泰麒を攫《さら》って逃げたい。王を除いては地上に並びない尊い身、下賤の者が捕らえ、粗末な生活を強《し》い、無礼な言葉を吐き、ましてや打つなどと言うことが許されて良いはずもない。汕子は泰麒が受けるそれらの屈辱にまみれた仕打ちを、身も心も引き絞られるような思いで耐えている。たとえ手を挙げても、看守のしたことなら見なかったふりをしている。どんなに不遜な言葉を吐き、泰麒に向かって罵《ののし》るような真似をしても、断腸《だんちょう》の思いで耐えているのだ。穢濁《あいだく》を盛られることさえ容認している。 「……悔しい」  なぜ泰麒がこんな仕打ちを受けねばならない。 「どうして泰王は泰麒を救ってくださらないの」  汕子が呟くと、少し翳《かげ》ったように見える鬱金《うこん》の闇の中、傲濫《ごうらん》の呟きが聞こえた。 「……生きているだろうか」 「まさか」 「だが、王は文州へ誘《おび》き出された」  汕子は胸を押さえた──つもりになった。  もしもそうだとしたら。仮に驍宗が逆賊に討たれ、すでに死んでしまったとしたら。いったい誰が、こんな状態の泰麒を救ってくれるのだろう?  ──これがずっと続けばどうなる。  汕子はようやくそれを考え、そして初めて恐怖を感じた。  微量とはいえ、穢濁《あいだく》は蓄積している。鬱金の色が翳《かげ》った、それがその証拠だ。これが何年も続いたとしたら、泰麒はどうなってしまうのだろう? [#改ページ] 四 章       1  李斎《りさい》が夜半、目を覚ますと、枕許《まくらもと》に人影があった。牀榻《ねま》には隣室から月光が射し入り、虫の声が流れ込んでいる。 「……景王?」  李斎が声を上げると、俯《うつむ》いていたふうの人影は顔を上げる。 「ああ……済《す》まない。起こしてしまっただろうか」  いえ、と李斎は呟《つぶや》いて、 「みなさんが探しておられました」 「うん。今日はちょっと逃げ隠れをしていたから」 「逃げ隠れ……?」  李斎は問うたが、それ以上の返答はなかった。寝間の中に再び沈黙が降りる。虫の声が涼《すず》やかに響《ひび》いていた。やがて、人影は口を開く。 「泰麒はどういう方だった?」  李斎は、僅《わず》かにどきりとした。彼女はやはり、故郷を同じくする泰麒を特別な意味で気に留めたのだ、と思った。 「お小さくていらっしゃいました」  李斎が答えると、夜陰から、くすりと笑い声がした。 「景麒と同じことを言うんだな。それでは説明になっていない、と言ってやったんだが」  笑い含みの声に、李斎も微《かす》かに笑う。 「本当に……そういう方だったのです。小さくて稚《いとけな》くていらっしゃいました。とても無邪気な、けれど思いやりの深い方で」 「麒麟だものな」 「景王に似たところがおありでした」 「……私に?」  李斎は頷く。 「とても気安い方だったのです。私などからすれば、ずっと身分の高い方なのに、少しもそんな様子がなくて。主上──驍宗《ぎょうそう》様は、台輔には身分というものがよくお分かりでないのだ、とおっしゃっていました。確かに、身分を嵩《かさ》に着ないというより、身分に頓着しておられないように見えました。景王もそういう方のようにお見受けします。女御《じょご》や女史《じょし》が、気安く御名を呼ばれているのを聞いて驚きましたが、ああ、台輔もそういう方だった、と」  なるほどな、と苦笑する気配が黒い人影からする。 「そう……蓬莱《ほうらい》には身分などと言うものはなかったから。いや、なかったわけではないのだけど、心情を超越するものではなかったし。女御と女史──鈴《すず》と祥瓊《しょうけい》は家臣ではなく友達だから。こちらでは身分を越えて友達になったりはしないものらしいけど」 「大僕《だいぼく》もですか? 大僕も御名を呼び捨てになさいますね」 「そう。友達……という言い方は変かな。仲間、だから」 「仲間ですか?」 「国を支える仲間なんだし──そう……かつては謀反《むほん》の仲間だった」 「謀反……」  李斎が不思議に思って首を傾けると、人影が頷く。ひどく真摯な気配が立ち込めた。 「少し前、慶にとても酷《ひど》い郷長がいたんだ。恐ろしい圧政を布《し》き、民から多くのものを搾取《さくしゅ》した。私はまだ登極して間がなくて、郷長を位から追うだけの権威を待たなかった。それで虎嘯《こしょう》に手を貸した。虎嘯は郷長を討つために、圧政に怯えて郷長に対する非難を口にすることすら恐れるような民の間から同士を拾い上げ、長い時間を掛けて準備をしていた」  言って、陽子は軽く身を乗り出す。月光がその横顔にあって、どこか痛みを怺《こら》えているふうの真剣な表情が見てとれた。 「……戴では、そういうことは不可能なんだろうか」  それが言いたかったのか、と李斎は胸を押さえた。 「……不可能だと思います……」  口を開き掛けた陽子を、李斎は制す。 「おっしゃりたいことは分かります。民にその気があればできないはずがない、という。私も、不可能だという言《い》い種《ぐさ》がどれほど愚かに聞こえるかは重々分かっているのです。けれども、それでも不可能だと申し上げます……」  李斎は牀榻《ねま》の天井を仰いだ。牀榻の中には夏の夜気が込もっている。だが、李斎は未だに体の芯が凍えているような気がする。もう耳鳴りはなかったが、それでも凍えるような風の音が聞こえるように思う。 「私は少数の手勢だけを連れて、阿選《あせん》の手から逃げ出しました。兵卒は押さえられ、鴻基《こうき》に連行されたと聞いています。私の兵卒だけではない、他の将軍の麾兵《ぶか》も同様で、それ以外にも阿選の許から逃げ出した官吏が多数おりました。それらの者は全て、追われることになったのです。驍宗様と泰麒を殺害し、王朝の簒奪《さんだつ》を企《たくら》んだ罪人の仲間として」  李斎には、最初、事態は決して難しいことではないと思われた。 「阿選は、王と宰輔がなくなり、自分が国を預かったという体裁を取ってはいましたが、それで誰もが納得するはずもございません。事実、次第に阿選に疑いを抱き、やがては不満を抱くようになった者も数多くおりましたし、私は驍宗様を捜しながら、そういった者たちを集め、反阿選の勢力を作ろうと奔走もいたしました。ですが、何ひとつ巧くはいかないのです。まるで砂で楼閣を築こうとしているようでした。せっかく人を集め、組織を作っても、その中から不思議なほど脱落者が出るのです。作り上げた先から壊れていく……」 「そう……」 「脱落した者は、阿選に寝返るか、さもなければ姿を消していきました。やがて国土は沈黙しました。もはや有志を集めようにも、その所在を掴《つか》むことができなくなったのです。捕らえられなかった反勢力は、深く地下に潜って阿選の手を逃れなければなりません。阿選に反意を抱く者も、不用意に目立てば周囲を巻き添えにしてしまうことを分かっています。ある里《まち》に反逆者がいるとなれば、阿選は労をかけず、里ごと焼き払ってしまいます。今でも阿選を倒す機会を窺《うかが》っている者は多いでしょう。ですが、そういった者同士が互いを見つけ、連絡を取り、手を携えることは不可能に近い……」  しかも、と李斎は呟く。 「景王は戴の冬がどんなものだかご存じでしょうか。天地の理は傾き、頻繁に災異《さいい》に襲われました。妖魔が出没し、民のほとんどは生き延びるだけで精一杯です。ことに、その年の冬をどうやって越えるか──それがもう全てなのです」  その中で、辛うじて民がまだ生き延びることができているのは、鴻慈《こうじ》のせいだと言われている。驍宗が、玉座について朝廷を革《あらた》めるにあたり、初勅を発布するよりも先に行ったことがあった。王宮の中には国の基となる里木《りぼく》がある。これを路木《ろぼく》と言うが、驍宗はこの路木に願い、荊柏《けいはく》という植物を天から得たのだった。 「荊柏……?」 「はい。荊柏は荊《いばら》のような植物で、荒れ地でも放任したままよく育ち、春から秋までの長い間、季節を問わず白い花を付けます。花は落ちて鶉《うずら》の卵ぐらいの大きさの実を結ぶのですが、この荊柏の実を乾燥させると、炭の代わりになるのです」  炭は冬の厳しい戴にとって無くてはならないものだが、当然のように無限にあるものでもなく、民はこれを購《あがな》わなくてはならない。だが、荊柏ならば田畑の隅に植えればよかった。それでたっぷりの実が取れ、干して蓄えておけば冬を凌《しの》ぎ切ることができる。一家のぶんの炭を自ら作ることができる──これは戴の民にとって大きかった。 「もともと荊柏は黄海のみに育つ植物だとか。主上は路木に願って戴でも育つ荊柏を得てくださった。主上がお姿を消したあの春、国中の里木に荊柏が生りました。三年もしないうちに国中の至る所、荊柏の白い花の見えない土手はない、という有様になりました。それで民はこの惨状の中でも、なんとか冬を乗り切ることができているのです。民は鴻基におられた尊い方が恵んでくれた慈しみだと──それで、誰に言うともなく、荊柏を鴻慈と」  そうか、と陽子は沈痛な声を零《こぼ》す。 「……阿選《あせん》が王なら、天命が尽きることもあるでしょう。しかしながら阿選は王ではありません。ただの逆賊ならば、寿命が尽きることもあるでしょうが、阿選は仙です。誰かが阿選を取り除かない限り、阿選が斃《たお》れることはなく、阿選から仙たる資格を取り上げることができるのは、王か、さもなければ、王が斃れた後に残される白雉《はくち》の足だけなのです。主上も台輔も亡くなられておられない、けれども所在が分からない。──そのせいで、この悪逆を止める摂理の一切が動かない……」 「それでは、戴の民には、自らを救う術がない」  はい、と李斎は頷いた。同時に、縋《すが》る李斎の眼差しを受けとめ、真摯に耳を傾けている陽子の様子を見ていると胸が痛んだ。李斎は助けてくれ、と言いたい。驍宗《ぎょうそう》を探して欲しい、泰麒を捜して欲しい、できれば阿選を討って欲しい──。  口を開こうとした時、陽子の静かな声がした。 「泰王が御無事なら、是非とも鴻慈を分けて欲しいところだな。……慶は貧しくて」  言って、月のほうを見る。 「慶も北部は冬になれば寒い。特にめぼしい産物のない北部は、貧しい家が多くて、冬の炭代にも事欠くことがある。もともと戴ほど寒くはならない土地だから、冬に対する備えがあまりないんだ。壁は薄く、窓には玻璃《はり》も入っていない。羽毛も毛皮も十分にはなく、かといって他のものに優先するほど重要事ではない。だから北部の民は、綿の衣服をあるだけ着込み、家族で抱き合って冬をやり過ごす……」 「そう……ですか」 「もちろん、炭のあるなしが生命に係《かか》わるほどのことはない。真冬でも山野に入って、草の根なりとも掘ることができるから、慶の冬が民の生死を圧するほど厳しいわけではない。だから決して戴の冬と同列に語ることはできないのだけど、私は戴の北部の民を不憫《ふびん》に思う」 「……そうでしょうね」 「戴の先王は、国庫こそは蕩尽《とうじん》したが、政においてはしっかりした方だったと聞く。仮朝も同様に、よく運営されているようだったと景麒が言っていた。慶は逆だ。このところ、政を疎かにする王が続き、地は恵みを蓄積できないでいる。先王の在位の間にも、官吏は専横を極め、民は蹂躙《じゅうりん》されてきた──民を虐《しいた》げていた郷長のような、そんな輩《やから》が横行していたし、それはまだ根絶できてはいないと思う。しかも先王が斃れて後、偽王が立って国は荒れた。慶はやっと復興に乗り出したばかりだ。今、市中で休んでいる民のほとんどは、良い時代を経験したことがない。常に国は治まらず、慶は波乱多く貧しかった」 「……はい」 「私は、そういう民の全てを不憫に思う……」  苦吟にか、低い声は震えている。 「同時に、戴の民も哀れだ。戴の現状は慶よりも酷《ひど》い。気候も厳しいその上に、偽王の圧政と災異があれば、どれほどの苦しみだろう。偽王は取り除かれねばならないし、正当な王と宰輔が王都にいなければならない。──私は」  李斎《りさい》は残された片手を伸ばし、景王の手を探った。 「それ以上は──どうか。兵を動かしてはなりません。景王が御自ら兵卒を率いて他国に干渉することは慶を沈める大罪です」 「……李斎」 「お許しください。戴を憐れむあまり、私は罪深いことを考えました。……けれども、それはいけません。景王は慶の国主でいらっしゃる。慶の民に対する以上の哀れみを、戴に施されてはなりません」  ──花影《かえい》、貴女《あなた》が正しい。  李斎の手を握り返す強い力があった。 「決して戴を見捨てようとは思わない。できる限りのことはする。してみよう、と延王にもお願いしてみるつもりでいる。……けれども、できるかぎりのことを超えたら許してもらいたい。私は、ただの一時も良い時代を経験したことのない景の民に、もう一度混沌を覚悟せよ、とはとても言えない……」 「そのお言葉で十分です」  李斎は微笑んだが、本心を言えば、見捨てないでくれ、と縋《すが》りたかった。だが、それだけは、できない。目の前の人物は、慶にとって必要な王だ。慶の民からこの王を取り上げることだけは、してはならない──。       2  陽子が客庁《きゃくま》を出ると、庭院《なかにわ》に面する回廊に腰を下ろして、大中小、三つの人影が待っていた。 「……何をしているんだ?」  陽子が声を上げると、一人が弾《はじ》かれたように立ち上がる。 「陽子、中で何を話してきたの? まさか……」 「なんで祥瓊《しょうけい》がこんな時間に、こんなところに」 「鈴《すず》が呼んでくれたのよ。ずっと探していたんだから。陽子が現れて、人払いをしてあの人の牀榻《ねま》に入っていった、って。──何を話したの? まさか、大変な確約を」 「したよ」  陽子が言うと、祥瓊は小さく息を呑む。対して、その足許に坐った鈴は、ただ小首を傾げていた。 「分かってるの? それは──」 「うん。だから、できる限りのことで許してもらう、そう確約してもらった」  祥瓊《しょうけい》は大きく息を吐いてその場に座りこんだ。 「……驚かせないでよ……もう」  鈴が呆れたように祥瓊を見た。 「だから、陽子は慶を見捨てるほど莫迦《ばか》じゃないわ、って言ったのに」 「私にはそれほど利口に見えなかったの」  酷いな、と苦笑しつつ、陽子は祥瓊の肩を叩く。そうこう言いながらも、景麒《けいき》や他の誰かに報《しら》せ、あるいは牀榻《ねま》に踏み込んでくるような真似はしないでいてくれた。 「それで、虎嘯《こしょう》は?」  問うと虎嘯は、大きな体を小さく丸める。 「いや……その、俺は陽子の護衛が仕事だからな」  陽子は笑い、 「では戻ろう。今日は一日、逃げ廻っていたから、溜《た》まった仕事を片づけないと。……すず、悪いけど、李斎を頼む」 「任せておいて」  手を振る鈴に笑って、祥瓊と虎嘯を連れ、回廊を戻ると、途中の路亭《あずまや》に今度は二つの人影があった。 「……ここで何をしているのか、と訊くべきかな?」  足を止め、呆れて問うた陽子に、大小二つの人影は顔を見合わせる。 「いや……儂《わし》は月を眺めておっただけでな」  遠甫《えんほ》は言って、浩瀚《こうかん》を見る。浩瀚は、 「私は主上をお捜ししておりました。疲れたので太師に付き合っていただけですが」  なるほどね、と陽子は四人の顔を見渡した。 「……心配は要らない。当の李斎が、兵を出してはならない、と言ってくれたから。分かっていても他に助けを求める術がなかったということだろう。できる限りのことはすると確約したけれども、できる限界を超えたら許して欲しいと言ったし、李斎もそれでいいのだと言ってくれたから」  遠甫も浩瀚も、安堵《あんど》したように頷いた。 「なので太師と冢宰《ちょうさい》には大いに働いてもらわなければならない。天の許す限度の中で、戴に何をしてやれるだろうか。至急調べて奏上せよ」  翌日、この件に係わりのある官吏の間で有司議《ゆうしぎ》がもたれた。それは夜を徹して翌日にまで及んだが、これという解決策を見つけ出すことはできなかった。 「主上の例から考えて、とにかく泰王を慶にお連れすること、これが大前提です」  浩瀚《こうかん》は言う。相変わらず涼しげな顔をしていたが、どことはなしに憔悴《しょうすい》したふうが見えた。 「しかしながら、泰王が戴《たい》を脱出された様子がございません。もしも戴をお出になられたのであれば、どこかへ保護をお求めになるでしょうし、ならば噂なりとも聞こえてきそうなものです。それがない以上、未だ戴におられるのだとは思いますが」 「確認する方法はないのだろうか?」  陽子は言って、積翠台《せきすいだい》に集まった面々を見渡した。口を開いたのは、延王尚隆だった。 「鳳《ほう》を使って直接諸国に問い合わせるのが早いだろうが、必ずしも王に保護を求めたとも限らない。戴を脱出した臣下や、かつての同輩、知古などを頼り、阿選を恐れて身を隠しているのであれば、問い合わせて分かるものだとも思えないが」  浩瀚は頷く。 「いずれかの王──国に保護を求められるのであれば、雁《えん》を措《お》いては考えられません。近隣随一の大国であり、虚海《きょかい》を挟んだ対岸です。しかも泰王は延王と誼《よしみ》がおありになり、国交もおありになる。他国に保護を求められるのであれば、まず雁だと思われますが」 「そうか……」 「官の言の一致したところでは、他国の知古のところに身を寄せておられるということも、ほぼ考えられないだろうと。泰王は武勇のお方です。しかも政変からは六年もの歳月が経っています。仮にも将軍として名声のあった方が、阿選を恐れて六年もの間、ただ隠れているとは思われず、ただ隠れるのでなければ、知古の許に身を寄せてそれでよしとなさるとは思えません」 「だろうな……。一旦は知人の許に身を隠したとしても、戴をどうにかするためには、所在を明らかにして戴の民を集めるなり、せねばならないわけだし……」 「そういうことです。おそらくは泰王は未だに戴におられる。ただし、李斎殿がその所在を知らなかったことからしても、どこかに捕らわれているか、あるいは期を窺《うかが》って潜伏しておられるかのどちらかであろうと思われます。前者のほうが可能性は高いでしょうが、いずれにしても、泰王を保護するためには、まず戴に乗り込んで泰王をお捜しするところから始めねばならず、これは天の摂理に抵触する可能性があります」  陽子は考え込み、 「捜すだけなら、軍勢は必要ない──これはどうだろう。私か、あるいは誰かを勅使として立て、最低限の手勢を連れて戴に入る。個人的にとはいえ、景麒が訪問したことがあるのだから、私が戴を訪問すること自体は変なことではないだろう? 訪問するとなれば手勢を連れて行くのも当然のことだし、行ってみたら肝心の泰王がおられないので捜す──ということでは」  浩瀚はちらりと陽子を見る。 「それならば天のお目零《めこぼ》しを頂ける可能性があるのではないか、と言う声もありましたが、なにぶん定かではないうえ、主上に万一のことがあれば慶にとっては大事です。これは可能性としてないものにしようと官の意見が一致しましたので、不可能でございます、とお答えしておきます」  その場にいた麒麟の一方は溜息を落とし、もう一方は声を上げて笑った。陽子も苦笑しながら、 「……一応、不可能だと言うことで聞いておく。だが、すると?」 「打つ手があるとすれば、泰台輔なのではないかと。李斎《りさい》殿の証言によれば、台輔がお姿を消された時、鳴蝕があった様子、ならば泰台輔は蓬莱《ほうらい》か──さもなければ崑侖《こんろん》に流されたと考えることができます。台輔を捜すことには問題が無かろうと。ただし、実際にどうやって捜すのか、という問題がございます」 「問題なのか?」 「まず、蓬莱に渡ることのできる者には限りがございます。神籍または伯位以上の仙籍をお持ちの方に限られる。しかも、主上にお聞きした限りでは、蓬莱にせよ崑侖にせよ、大量の人員を派遣して手当たり次第に捜すことができるような場所でもございませんでしょう」 「それは……どうだろう」  首を傾けた陽子に、六太が口を挟んだ。 「大々的な捜索はできない。それは考えないほうがいい」 「まあ……難しいとは思うけど」 「難しい以上だ。伯以上の仙を掻《か》き集めて人員を確保することは可能だろう。だが、胎果でない連中には、あちらで確固とした存在でいることができない」  陽子は瞬く。つまり、と六太は苦笑した。 「蓬莱はぜんぜん異質な場所だ、ということなんだ。本来は混じってはならない世界だ。それが混じってしまうのが蝕で、その蝕によって卵果《らんか》が行き、人が来る。やってきたのが海客であり、山客《さんきゃく》だ。海客は蓬莱からやってくる。ほとんどの場合、大陸の東に流れ着く。海客《かいきゃく》はこの世界の民と何ら変わりのない人間だし、言葉が通じないことを除いては、まるきり民と見分けがつかない。そうでない者が見ても何の違和感も催さない。──だろ? 本当に、単にあちらの人間がこちらに来ただけ、という体裁だな」 「ああ……そう、確かに」 「だったら、こちらの人間も、あちらに流されることがあっても良さそうなもんだ。だが、実際には、こちらの人間は、一部の特殊な者を除いて、あちらに渡ることができない。流されて行くことができるのは卵果だけだ。まだ形を持たない人だけ、ということになる」 「形がない?」 「そう。命はあるが、まだ形がない──そういう場合でなければ、あちらに渡ることができないんだ。特例はあるものの、こちらとあちらはそういう関係にある。来ることしかできないんだ。行くことはできない」 「でも、景麒《けいき》は実際に渡って蓬莱《ほうらい》に来たわけだし」 「そう。麒麟は渡ることができる。伯以上の仙、あるいは神籍に入ったものは渡ることができると言われている。だが、実際のところ、この身体でぽんと向こうに渡って、この身体でいられるのは、神籍にある胎果《たいか》だけだと思ったほうがいい。景麒が渡ったとき、どうだった?」  六太に問われ、景麒は頷いた。 「延台輔に言われていた通り、私は歪《ゆが》んだ者でした」  歪んだ者、と陽子は問い返す。 「私は主上を捜しに蓬莱にまいりました。その前に延台輔に相談したのですが、その時に歪んだ者になるだろう、と言われました。その時にはよく分かりませんでしたが、実際に行ってみて分かりました。確かに──私は、私として確固としてあることができませんでした」 「さっぱり……分からない」 「言葉にするのが難しいのです。蓬莱の民は、得てして私が見えないようでした。見えても幻のように見え、あるいは別のものに見えていたようです。きちんと見える者もいるようでしたが、その場合にも、声が聞こえなかったり、あるいは言葉が通じなかったりするし、逆に声しか聞こえなかったりするのです。人の形を保っていることが難しく、ひどく不安定でした。唐突に獣形に戻ろうとしたり、遁甲《とんこう》する時のように溶《と》けてしまおうとするのです。私の存在がこちらにいる時のように、きちんと形を保つことができたのは、主上が近くにいた時だけでした」 「そうだったのか……?」  陽子が驚いて訊くと、景麒は頷く。 「確かに、あちらは我々がいてはならない世界です。──そう、絶えず世界が、我々の存在を拒もうとするのです」  六太は頷く。 「胎果でない連中は、向こうで確固として存在することが難しい。幽鬼《ゆうき》のようにしか存在できない。長時間しっかりした形を留めていることができず、なんとか形を保っていても、影のように曖昧で不安定だ。王や麒麟でさえそうだから、伯位の仙程度では、それがもっとひどい。しかもあちらは、こちらの存在を知らない。そこに得体の知れない幽鬼じみたのが大挙して行けば大騒ぎになるぞ」 「そうか……」 「しかも、もしそれを強行することにしたとしても、泰麒の顔を知っているわけじゃないだろう。たとえ李斎に似顔絵を描いてもらっても、六年も経ってるし、泰麒は胎果だから、あちらでは姿が変わっている」  陽子は首を傾げた。 「確かに私は、こちらに来た時に見た目が変わったけれども……それは、もう一度あちらに戻るとどうなるんだ?」  戻るな、と六太は素《そ》っ気《け》なく言った。 「胎果は異界の女の胎から生まれるだろ。生まれた時には、父母に似た肉の殻を被ってくる。それを胎殻《たいかく》と言うらしいんだが。こちらに戻れば、本来の──天に定められた姿形に戻る。麒麟ならこの、きんきらした髪になるわけだ」 「そうだよ……ね。あちらで生まれつき金髪のはずがないし」 「そう。理屈はよく分からないけど、これは同じ皮の裏表らしい。そういう感じなんじゃないかな。蓬莱に戻ると、蓬莱の時の姿に戻る。単純に戻るだけなら、俺なんかとっくによぼよぼの爺を過ぎて白骨になってるはずだけども、そういうこともない。こっちで成長が止まった時に胎殻のほうも歳を取るのをやめたみたいだな。若干のずれはあるみたいだけど、まあよく似た範疇だと思って間違いなさそうだ」 「……ということは、たとえ李斎を連れて行っても、泰麒の顔が分からない?」 「そういうことになる。ただ、麒麟なら麒麟の気配が分かるから。泰麒が卵のとき蓬莱に流されたろ。それを蓬莱で見つけたのは俺なんだよな」 「延麒が?」 「うん。遊びに行ったら──あ、いや。探しに行ってたんだよ。そしたら麒麟の気配があった。それで蓬山に報《しら》せて、蓬山から迎えが行ったわけなんだが」 「では、麒麟ならば捜すことができるわけだ」 「できるけど。ただ、気配が分かると言っても、そのへんにいれば分かる、って程度だから。しかもあのときは、蝕の抜けた方向から、蓬莱にいるだろうってことは分かっていたんだが、それでも十年かかってる。今度の場合は、蓬莱と崑侖《こんろん》のどちらに抜けたかすら分からないし、本当にあちらに渡ったとも限らない。俺と──たとえ景麒が手を貸してくれたとしても、たった二人じゃ何年かかるか分からないぞ」 「では、それが十二人なら?」  陽子は何気なく言ったが、これには唖然としたような沈黙が返ってきた。 「あ……空位の国もあるから、十二麒麟全員が揃うことはないだろうけど。……何か変なことを言ったか?」  尚隆は溜息をつく。 「陽子、こちらでは他国に干渉をしないのだ。それがこちらの流儀だからな。自国のことは自国で処断する。他国に協力を求めることはしないし、協力することもない」 「延王は私に手を貸してくれましたよね?」 「それは俺が胎果で、変わり者だからだ」 「度外れたお節介《せっかい》なんだ」  六太は半畳《はんじょう》を入れて、 「……だが、本当にそういうものなんだ。こちらでは国同士が協力して何かを行うということをしない。一時的に他国に援助を求めることがあっても、あくまでも国と国との関係の中で行われることだし。そもそも隣国であっても、必要がなければ国交すら持たないような世界だからな」 「じゃあ、十二も国があるのに、団結して何かをやったことはないのか?」 「歴史で見る限り、ないと思うぜ」 「それは、してはならないことだからなのか? 兵を他国に向かわせてはならないみたいに罰に当たるから?」  さあ、と六太は尚隆と顔を見合わせた。 「確認したことすらないのか? ……呆《あき》れた話だな」 「……それは、そうかも」 「だが、他に方法がないだろう。泰王は自ら戴を脱出できないのだろう。だからこそ今まで何の噂も聞こえてこない。泰麒もあちらに流されるかどうかして、自力で帰還はできない。できないからこそ、今まで戻ってきていないんじゃないのか? 泰王も泰麒もいないで戴の民に何ができる? 李斎のような者がいても、民を組織して兵を挙げることすらできないできたんじゃないか。戴は自分の力で自国を救うことができない。だったら他国が手を貸すしかないんだし、麒麟の数が足りないと言うなら、諸国に依頼して手を貸してもらうしかないじゃないか」  そもそも、と陽子は呟く。 「戴で政変が起こった時、可怪《おか》しいとは思わなかったんですか。鳳《ほう》が鳴いてもいないのに王が交代するなんて、どう考えても不自然でしょう。なのに戴の様子を窺《うかが》おう、何が起こったのか確認しようとはしなかったんですか?」 「勿論、したとも」  尚隆はいったが、六太はあっさり、 「その当初だけな。公式の使節と非公式の手勢と、それを戴に向かわせて、鴻基《こうき》の中に入れない、中を窺い見ることができないとなると、さっさと静観を決め込んだだろう。以来、そのまま放置してきたんだ。言っておくが、俺は何度も、戴がどうなっているのか調べろ、救済方法を探せ、と進言したぞ」 「なるほどな」  陽子は微かに笑む。 「所詮は他国のこと、なるようになれ、というわけだ?」  ぎょっとしたように息を呑《の》む気配が室内に満ちた。主上、と諫《いさ》めるような小声は景麒のもの、浩瀚《こうかん》も遠甫《えんほ》も驚いたように硬直している。尚隆は不快そうに眉を顰《ひそ》めた。 「景王には言葉が過ぎないか」 「けれども事実じゃないのですか? 静観していればそのうち泰果《たいか》が生《な》って、それで全部が振り出しに戻って雁は安泰でいられる、そういうことなんじゃあ?」 「ま、そういうことだな」  尚隆より先に答えたのは六太だった。 「六太」 「他国に干渉しないのが慣例だの何だと言って、そんなもんは言い訳だろうが。実際、陽子のときには呆れるほどお節介を焼いたわけだからな。尚隆は、手を出すきっかけを見つけられなかったんだ。泰王も泰麒もいない、誰も助けを求めてこなかったから。あえてそのきっかけを見つけようとするほど、熱心じゃなかった──泰と雁の間には虚海《きょかい》があるから」  尚隆は何かを言おうとしたが、六太はその前に大きく手を振った。 「つまんない言い訳をするなよな。結局のところ、お前にとって問題なのは荒民《なんみん》なんだ。他国から荒民が流れてくれば、雁の国情に係わる。だから慶にしろ柳《りゅう》にしろ、動向を気にするし、手助けもする。だが、戴との間には虚海が控えている。あれを渡って雁に流入してくる荒民は少ない。地を接した慶の場合に比べれば、ものの数には入らない。静観しても、とりあえず雁の根幹が揺らぐことはない」 「雁大事と言うわけだ」 「そういうこと」 「……俺は雁の王だぞ」  尚隆は声を荒げる。 「無論、雁大事だ、それが悪いか。俺はそのためにいるのだからな」  な、と同意を求めるように六太は陽子を見た。 「こいつは、ご覧の通りだ。お前だけでも、何とか努力をしてやってくれないか、陽子。俺にできることは協力する。どうにかして、ちびを連れ戻してやりたいんだ」 「ちび」 「こんなに小っこかったんだ。気の小さなやつでさ。──誼《よしみ》がないわけじゃない。あったのは数えるほどだが、まだ生きていて辛い思いをしているなら、助けてやりたい」 「できる限りのことはする」  尚隆は卓を叩いた。 「慶はまだ安寧にほど遠い。それを景王自らが、自国を措いて他国のために労を割《さ》くというのか? それこそ思い違いだぞ」 「胎果《たいか》の誼《よしみ》だ、放っておけない」 「胎果の誼で忠告してやる。お前はそんなことをしている場合ではない」 「では、雁《えん》なら動いてくれるのか?」  尚隆は少しの間、言葉に詰まり、 「ええい、何から何まで──俺を何だと思っている! 俺は確かに雁の小間使だが、他国の用まで片づけてやる義理はないのだぞ! 雁だけでも問題は山積みしておるんだ、それを棚上《たなあ》げして、泰を助けろと雁国王の俺に言うのか!」  陽子は六太を見た。 「延麒、私が何とかがんばってみる。──なに、慶の復興は若干遅れるかもしれないが、民には雁に流入すれば、お優しい延王が養ってくれると言っておこう」 「──陽子!」 「ああ、そうだ。いっそのこと王師を編成して、安全に民を雁との国境まで送れるよう、旅団を作ろうかな」 「そりゃ、名案だ」 「恩義のある俺に、脅迫まがいの真似をする気か」 「同じことだろう」  陽子は失笑した。 「雁は北方で唯一、豊かで安定した国だ。北方の国々に何かが起これば、民は止めても雁を頼る。このまま戴が荒れ果てれば、戴の民の全ては、筏《いかだ》を組んででも雁に向かおうとするだろう。妖魔や虚海がその妨げになっても、民にはそれしかないのだから」  陽子は自分の両手を見下ろす。いつも、あまりに小さいと確認せざるを得ない、その掌。 「慶が他国のことを考えている状況にないのは確かだ。まだ復興の途中で、逆さに振っても他国のために割く余剰などない。だが、このまま戴を放置もできない。なぜなら、戴の民の行く末には、慶の民の行く末もかかっているからだ」 「……慶の民?」 「玉座は永遠ではないだろう? 私は慶を立て直すつもりでいるけれども、本当にそれができるかどうかは分からないし、途中で道を誤らない保証もない。私が斃《たお》れた後、民がどうなるのか──それは戴の処遇にかかっている」  言って、陽子は自国の臣──景麒と浩瀚《こうかん》、そして遠甫《えんほ》を見た。 「慶の復興さえままならないのに、泰を救っている場合か、とお前たちは言いたいだろう。それは私も承知している。けれども、私は泰を救う気でいる。できる限りのことはする。それは戴の民のためだけではなく、慶の民のためでもあると思うからだ。慶にも同じことが起こらないとも限らない」 「主上」  景麒は諫《いさ》めるような声を上げたが、陽子は首を振った。 「もちろん道を失う気などない。良い王になりたいとは思っている──本当に。けれども誠心誠意それを望めば、必ず結果がついてくるというものではないと思う。破滅するつもりで破滅した王などいないだろう。ましてや戴の場合のように、逆賊によって国を荒らされることもある。だから、私が斃《たお》れたとき、あるいは私が道を失ったときのために、民を救済する前例を作っておきたい。王がいなくても民が救われるような道を敷いておきたいんだ」  言って陽子は、唖然としたふうの尚隆、六太を見る。 「私が戴に労を割《さ》けば、そのぶん慶の復興は遅れます。民は焦《じ》れて慶を見捨てるかもしれない。慶よりも雁がいいと言って出ていく民を、止めることなどできはしません。先だってはついに巧《こう》が倒れました。巧の北方の民も、やはり雁を頼らざるを得ないでしょう。そうやって巧が慶が戴が雁に覆い被されば、さしもの雁も荷が重いでしょう。雁一国で救済に当たろうとするならば、当然のことです」  ずっと考えていたんです、と陽子は呟く。 「それは本当は、今のことじゃなかったのだけど。もっと慶が落ち着いて、国に余裕ができて、それなりの国になったら、他国の荒民《なんみん》を救済するための方法を考えようって。国が荒れたから民は逃げ出す、逃げ出した先の国は已《や》むを得ず抱え込む──そうではなく、もっと積極的に、荒れた国を支援し、民が国を逃げ出さなくても次の王が立つまでの間を凌《しの》ぐことができるような、そんな方策はないだろうか、と」 「陽子……」 「せめて義倉《ぎそう》があればな、と。各地に義倉がありますね? 飢饉や戦乱が起こり、民が物資に困ったときには義倉を開けて民に施す。──そういうものが国と国の間にもあればいいのに、と思っていたんです。どこかの国が負担を背負わなくても、諸国が余剰を貯めておいて、どの国にせよ、荒民《なんみん》が出たときにはそれを開く。漠然とそんなふうに考えていたのだけど、李斎が駆け込んできたのを見て、どこかそういう場所も必要なんだな、と思いました。ここに行って助けて欲しいと訴えれば、他国が仲裁に入ってくれ、義倉を開けてくれる、そういう窓口が必要なんだと思ったんです。……覿面《てきめん》の罪なんてものがあるとは知らなかったし、他国には介入しないという慣例があることも知らなかった。ものを知らないから、簡単に考えていたのだけれども」 「陽子は面白いことを考えるな……」  半ば呆れたように六太が言う。 「私が考えたわけじゃない。これはそもそも、あちらにあった仕組みなんだ。延麒がいた頃にはなかったと思うけどね」 「へえ……」 「誰もやったことがないなら、やれれないものか試してみたい。諸国に依頼して力を借りることはできませんか」  陽子は尚隆を振り返った。 「俺にそれをやれとぬかす気か」 「私がやっても構いません。もっとも、私のような青二才が言い出したのでは、どこの王も振り返ってくれないかもしれませんが」  尚隆はむっつりと黙り込む。やがて、 「──大国、大国と勝手に祭り上げおって。先には戴が、つい先だっては慶だ。慶がやっと落ち着いたと思えば巧が倒れる。おまけに柳まで雲行きが怪しい。雁の周囲ばかりこうも次々と。俺は万能ではないぞ。雁は豊かだが無尽蔵《むじんぞう》ではない。次から次へと周囲の国が乱れて、雁に倒れ込もうとしている。なぜこうも俺一人ばかりが背負い込まねばならん」  吐き捨てる尚隆を、六太は呆れたように見た。 「あれ? 気がついてなかったのか、何でなのか」 「何だ」  六太は、にっと笑う。 「そりゃ、お前が疫病神《やくびょうがみ》だからさ」  尚隆は盛大に顔を顰《しか》めた。 「粉骨砕身して働いて、挙げ句の果てにこの報いか。……泰麒を捜す。俺が采配をすればいいのだろう」 「ありがとうございます」  陽子は破顔し、一礼する。 「この借りは後々、必ず返させていただきます」 「いつの話だ」 「それは勿論」  陽子は笑う。 「延王が斃《たお》れたときに。雁が騒乱に巻きこまれる頃までには、慶を立て直しておくと約束します。安心して頼ってください」       3  李斎《りさい》の許に陽子がやってきて、泰麒を捜すことになった、と報《しら》せてくれたのは、夕餉の最中のことだった。 「諸国からどれくらいの協力が得られるのか、どのくらいで泰麒を見つけることができるのかは、やってみないと分からないけど。とりあえず、ほんの一歩だけ、前に進むことになったから」  感謝の言葉もない李斎に笑って、彼女はあたふたと客庁《きゃくま》を出ていった。こうして戴のために時間を割いてくれている分、陽子は深夜まで自国の処置に追われている。 「……なんて、有り難い」  呟《つぶや》いた李斎に、良かったね、と声を掛けてきたのは、給仕のために客庁へやってきていた桂桂《けいけい》だった。 「たくさんの王様が協力してくれるんだったら、きっと見つかるね」 「絶対よ」  きっぱりと言ったのは鈴《すず》で、これに対し、李斎はぼうっと頷くしかなかった。なにひとつ前進せず、ただただ絶望と戦うしかなかった六年もの歳月に比べ、何という進展だろう。  ……やっと戴は救われ始める。  それを思うと、喜びでその夜は眠れなかった。臥牀《しんだい》の中で何度も陽子の言葉を反芻《はんすう》していた夜半、その喜びは唐突に不安へと変わった。……もしも、それでも泰麒が見つからなかったら。  見つかるかもしれないと思うと、喜びが深かっただけに、それが失望に転じたときのことを考えると恐ろしくてならなかった。陽子を疑うわけではない。ただ、李斎は思うままにならない時間をあまりにも長く過ごしてきた。期待は裏切られ、希望は悉《ことごと》く潰《つい》える。──そうでなかった例《ためし》はない。  泰麒が無事に戻ってくるなんて、そんな喜ばしいことが本当に起こるものだろうか。見つかることなどないのではないか、捜している間に泰麒に何事かが起きるのではないか──考え始めると、今度は不安で眠れなかった。  胸の息苦しさに堪えかね、李斎は苦労して臥牀を降りた。李斎の容態が少しばかり落ち着き、ようやく鈴は不寝番《ねずのばん》をやめて自室に退《さ》がることができるようになっていた。手を借りることはできない代わりに、牀榻《ねま》を出たことを咎《とが》められることもない。  萎《な》えた身体を家具や壁で支えながら伝い歩き、李斎は長い時間を掛けて堂室の扉を開けた。少し夜風を入れたかっただけなのだが、扉を開けると、それで力尽きてその場に坐り込んでしまった。こんなにも身体が萎えている、と思うと、焦燥感に襲われた。  ……たとえもし、泰麒が戻ってきたとしても、それからどうすればいいのだろう。  泰麒がいれば、王気を頼りに驍宗《ぎょうそう》を捜すことができるかもしれない。だが、そのためには泰麒を連れて戴へと戻らなければならなかった。そんなことが自分にできるのだろうか。こんなに弱った身体で、しかも利き腕を失って。これでは泰麒を守ってやることすらできない。戴には妖魔と兇賊が跋扈《ばっこ》しているというのに。──身体が萎えたことで、心が萎えているのかもしれない。あるいは、戴を抜け出し、安全な王宮の中で保護されていることに身も心も安堵《あんど》してしまったのかも。振り返ると戴は恐ろしい場所に思えた。そこに自分が泰麒を抱えて戻ることなど考えられない──。  李斎は回廊に座りこみ、鬱々《うつうつ》とした気分で壁に凭《もた》れかかっていた。軒の先、庭院《なかにわ》には月の光が落ちている。どこかで物寂《ものさび》しく虫が鳴いていた。  泰麒が戻ってきても、そこからどうすればいいのか分からない。泰麒が本当に戻ってくるとは信じられない。泰が救われることはないような気がする。……根拠もなくそう思えてならない。いつの間にか、失望に対して心の準備をすることに馴染《なじ》んでしまっている。  ……だって、ずっとそうだった。  戴を災異が襲うようになったのは、驍宗が姿を消して何年目のことだろうか。世に言う、王の郊祀《まつり》が世界の理を整えるのだ、と。阿選は郊祀をしたろうか。それとも正当な王の郊祀でなければ、世界が整うことはないのか。  いずれにしても、戴は荒れ始めた。それは、玉座が空位であったとき以上だった。  驍宗を失って何度目かの夏、李斎は驍宗を捜して文州に入った。秘かに、阿選に所在を掴まれないよう、伝手《つて》を頼り、知古の庇護を受けながら文州に入り、轍囲《てつい》に向かった。驍宗はその手前、琳宇《りんう》の陣営から消えたのだ。  琳宇はもともと、文州随一の玉泉を持つ街だった。最古の玉泉、函養山《かんようざん》を首《はじ》め、周囲には大小の玉泉が点在し、鉱山の麓にはそれぞれの門前町が築かれていた。それらの玉泉はしかし、ほとんどが掘り尽くされ、今では端々に残った泉から玉を取り出していると聞いていた。その泉さえ、このところ、急激枯れている、と。それも災異の一環なのか、李斎には分からない。  琳宇近郊と言うだけでは、あまりにも曖昧模糊《あいまいもこ》としている。あるいは轍囲の民なら驍宗の行方を知っているかもしれない、轍囲の民が驍宗を匿《かくま》う可能性は十分にあると李斎は踏んだが、行ってみると、轍囲という街自体が消失していた。煤《すす》けた瓦礫《がれき》だけを残し、轍囲は置き捨てられていた。もちろんその瓦礫の中に、生きている人間の影はなかった。ただ、焼け残った祠廟の祭壇に、荊柏《けいはく》の白い花が捧げられていた。あるいは轍囲の生き残った民が、人目を恐れ夜陰にでも紛《まぎ》れて驍宗の無事を祈願に来ているのかもしれない。  祠廟の隣には、炎に炙《あぶ》られ、まるで立ち枯れたかのように里木《りぼく》が悄然と立っていた。その寂しい風景は、否が応でも国の柱を失った戴の寄《よ》る辺《べ》なさを李斎に自覚させた。  李斎自身も夜陰に紛れ、人混みに身を滑り込ませて隠れていなければならなかった。市井を忍び歩くようにして、驍宗の行方を知る者はいないか、あるいは英章《えいしょう》、臥信《がしん》やその軍勢の行方を知る者はいないか訪ね歩いたが、成果はほとんど得られなかった。辛うじて、琳宇の郊外で戦闘が起こり、土匪《どひ》と禁軍が正面から対決したが、その戦闘以来、禁軍がひどく浮き足立ち、土匪が攻めてきても戦闘に応じないようになった、と聞いた。おそらくは、それが驍宗が姿を消したときなのだ、と思う。  戦闘のどさくさに紛《まぎ》れ、王を討つ──普通ならあり得ることだが、驍宗に限っていえばそれは考え難かった。驍宗は剣客として聞こえている。なまじな相手では驍宗を討ち取ることはできまい。ただ、驍宗は阿選《あせん》の軍を率いていた。驍宗がうかうかと阿選を信じ、阿選の麾下《ぶか》を信じていたなら、戦闘の最中、驍宗の身の回りは阿選の麾下ばかりだったはずだ。多勢に無勢で討ち取られ──あるいは捕《と》らわれることも考えられるが、驍宗はそこまで阿選を信用していただろうか。あえて阿選の手勢を割《さ》き、半数を文州に連れてきたことを思えば、驍宗は最初から阿選を疑っていたようにも見える。  方々の戦場、方々の廃墟を訪ね歩きながら夏を過ごし、その夏の終わりに雪が降った。煤でも含んでいるのか、灰色のべたつく雪は、不吉の前兆としか思えなかった。事実、その年の冬は厳しかった。大量の雪が降り、雪に備えた北方の家でさえ、雪の重みに堪えかねて倒壊するほどだった。  寒く雪の多い冬に続き、乾いた夏がやってきた。戴には稀な暑い夏になった。農地は干上がっていった。なのにまた冬が来る──。  その翌年からだったと思う。頻繁に妖魔が現れるようになったのは。空位が続いた戴のこと、それまでも皆無ではなかったが、それが目に見えて増えた。古老は、王が無事であるなら、妖魔が現れるはずなどないと言う。驍宗は死んだのだ、と確信を込めて言われるようになったのは、この頃からだ。  民は今頃、どうしているのだろうか、と李斎は庭院《なかにわ》の夜空を仰いだ。李斎がこうしている今も、戴の民は苦しんでいる。夏が終わろうとしている。戴に恐ろしい冬がやってくる。  ……救ってください。  李斎は今も、衝動的に、叫んで縋《すが》りたい気分になることがある。景王を知り、周囲にいる人々を知れば知るほど、それが恐ろしい罪深いことだと身に沁《し》みて分かる。それを分かっていてもなお──。 「……けれども、他に術《すべ》がない……」  阿選の凶行を止める者が必要だ。妖魔を討伐し、冬を越えるための物資を恵んでくれる力が。それが得られなければ、戴はもうあと何年も保たない。今年か、来年か、あるいはその先か。いずれにしてもある冬が通り過ぎ、雪が融けるとその下から、最後の戴の民が凍って姿を現すのだ。 「そんなところで、どうなされた?」  声がして振り返ると、庭院の入り口に老爺が一人、立っていた。 「いえ……何でも」  太師の遠甫《えんほ》だった。ここは遠甫の邸なのだから、当然のことなのかも知れないが、ここに移って以来、遠甫までも頻繁に李斎を見舞ってくれる。慶の──少なくとも景王の周囲にいる人々は、誰もがとても暖かい。それを思うたび、陽子に縋って兵を出してくれ、訴えそうになる自分が恐ろしい。 「起きておられても宜《よろ》しいのか?」 「ええ……もう」  ひたひたと歩いてきた遠甫は、李斎が腰を下ろした回廊の階《きざはし》に腰を据えた。 「泰台輔を捜すために、延帝がお力を貸してくださるとか」 「……はい」 「にしては、憂鬱《ゆううつ》そうでいらっしゃる」  そんなことは、と李斎は呟《つぶや》いたが、勿論遠甫には通じなかっただろう。 「左様でございましょうな。捜して簡単に見つかるものとも限らず、たとえ見つかったとしてもその後の課題は山積しておる。台輔が戻られれば泰王をお捜しすることは容易くなるかもしれないが、そのためには台輔に戴へお戻り願わねばならず、場合によってはそれで本当に台輔を失ってしまう可能性もある」  はい、と李斎は首肯《しゅこう》した。 「泰王をお捜しするにも、手勢は必要、しかし戴で、それだけの人員を見つけることは難しかろうと聞いておりまする。なんとか手勢を見つけても、泰王をお捜ししているその間にも民には苦難が伸し掛っておる」 「……冬が来ます。初雪が降るまでに、もう何ヶ月もありません」 「思うてみれば、戴は辛い国じゃな。露天で冬を凌《しの》ぐ術《すべ》がない」 「本当にそうです。……慶の冬は暖かいのでしょうね」 「戴に比べればな」  李斎は悄然と項垂《うなだ》れた。 「暖かい国があって、そうでない国がある……。戴も慶のようだったら、どんなに良かったでしょう。せめて人が身を寄せ合い、互いの体温で冬を乗り切れるようだったら。どうして世界には、暖かい国と、そうでない国があるのでしょうか」 「そうじゃの」  李斎は月を仰ぐ。 「天帝はなぜ、戴のような国をお作りになったのでしょうね……。せめて人肌で乗り切れる程度の冬なら──あまりに不公平です」 「それは言うても詮方《せんかた》あるまい」  ですが、と李斎は唇を噛《か》んだ。 「世界は天帝がお作りになったのではないのですか。ならばなぜ、天帝は戴のような国をお作りになったのです。あれほど無慈悲な冬のある──私が天帝なら、せめて気候だけでも恵まれた国を作ります。冬に凍ることも夏に乾くこともない、そういう世界を」  ふむ、とだけ遠甫は応える。 「民が飢えていれば恵みを施します。偽王に苦しんでいれば偽王を討ちます。それでこその天、なのではないのですか?」 「それは……どうじゃろうな」 「なぜです? 天は王に仁道を以て国を治めよと仰《おっしゃ》いました。なのになぜ、仁道のために兵を出すことを罰されるのです? 驍宗様を玉座に据えたのも天です。天帝が驍宗様こそが王者だとして、自ら玉座を勧めたのではないのですか。なのになぜ、天は王を守っては下さらないのです」  遠甫《えんほ》は沈黙する。 「天帝は本当においでなのですか? おいでならなぜ、戴を救ってくださらないのです。血を吐くような戴の民の祈りが聞こえませんか? まだ祈りが足りないと仰《おっしゃ》るのですか? それとも戴を滅ぼすことが、天のお望みなのですか?」 「李斎殿……」 「天帝がおられないのなら、それも結構。救済すら恵んでくれない神になど、いて欲しいとも思いません。けれど、おられないのなら、なぜ兵をもって国境を越えてはならないのです? それを罰するのは誰ですか? 罪と見定め、罰を下す者がいるなら、なぜその者は、阿選を罰してはくれないのです!」  震える片手の上に、温かな手が載せられた。 「……お気持ちは分かります。じゃが、激されてはお身体に障《さわ》る」  李斎は息を呑み、そして吐き出した。 「……申しわけありません。取り乱しました……」 「お気持ちは分かりますとも。我らは所詮、天の摂理の中で生きておる。……そこにありながら、関与できない……理不尽なものでございますな」 「……はい」 「ですが、ここは人の世でございます。天のことなどお気になさるな。どんな摂理があろうとも、その中で生きていく術《すべ》は見つかるもの。少なくとも、慶の主上はそのために心を砕《くだ》いておられる」 「はい。……失礼を申しました」 「そうお悩みにならんことじゃ。……誰もまだ、戴を見捨ててはおりませぬ」  李斎は頷いた。月はただ無情に下界を見下ろしている。       4 「よう」  そう暢気《のんき》な声を上げて、六太《ろくた》が正寝《せいしん》の陽子の許へやってきたのは、彼と尚隆が一旦|雁《えん》に戻ってから、十日ほどのことだった。 「……今回も突然のお越しですね。よくここまで」  入ってこれたものだ、と陽子が言外に含ませると、六太はにっと笑う。 「前にも来たしな。さすがにこの髪だと、どこの誰だとは訊《き》かれないや。……でも、陽子のとこの門番は話せるな。凱之《がいし》とか言ったか、見知り置いてやってくれ」  陽子は軽く溜息をつく。 「神出鬼没であらせられる」 「俺はそれが身上なんだ。……というわけで、陽子にも出掛ける用意をしてもらいたい。大至急だ」 「出掛ける?」 「そう。諸国に話が通った。恭《きょう》と範《はん》、才《さい》、漣《れん》、奏《そう》の五国が協力してくれる。うちと慶を併せて七国だ。芳《ほう》と巧《こう》は空位だからそもそもの数のうちには入れられないし、柳《りゅう》と舜《しゅん》からは色好《いろよ》い返答はもらえなかった。  陽子は軽く腰を浮かせた。 「五国……」 「とにかく、できる限りの手を使って、崑侖《こんろん》と蓬莱《ほうらい》に捜索隊を出す。奏が誼《よしみ》の深い恭、才と協力して崑侖を引き受けてくれた。俺たちは範、漣と協力して蓬莱を受け持つ。範と漣からは台輔を雁に寄越してもらえるよう手筈が整っている。慶にしなかったのは、慶の国庫に負担を掛けるのはどうかと思ったからなんだが、気を悪くするかな?」 「勿論、雁で結構です」  うん、と六太は笑って、 「至急ということにはしているものの、中には漣の御仁《ごじん》もいる。日程の調整は今やってるところだが、遠路駆けつけてくることを考えれば、まだ少し先になるだろう。その間に一緒に行って欲しいところがある」 「私に……? どこへ」  蓬山だ、と六太は答えた。 「蓬山、ですか?」  蓬山は、世界中央黄海にある麒麟が生まれる聖地だ。陽子も一度だけ行ったことがある。新たに登極した王は、そこで天啓を受けることになっている。 「蓬山に行って何を……?」  陽子が首を傾げると、 「ヌシに会うんだ」 「ヌシって……まさか、碧霞玄君《へきかげんくん》?」  碧霞玄君は蓬山に住む女仙たちの主《あるじ》だが、陽子は玄君にあったことがなかった。 「そ。何しろ、これからやろうとしていることには前例がないからな。これも何かの勉強だし、そもそもの発起人は陽子なんだから、陽子を連れて行けと尚隆に言われている。蓬山まで飛べる騎獣があれば、荷物は最低限でいい。急いでくれ。客人が揃う前に戻って来なきゃならない」  陽子は慌《あわ》てて準備をした。後事を浩瀚《こうかん》に委《ゆだ》ね、景麒から使令を借りた。てっきり陽子は、禁門から出立するかと思ったのだが、それをいうと、六太は笑った。 「下から行ったんじゃあ、どれだけ掛かるか分からない。雲海の上を一気に行く」  陽子は瞬いた。蓬山の山頂部は凌雲山《りょううんざん》の常で、雲海の上に突出している。しかしながら蓬山の山頂には、無人の祠廟以外、何もなかったように記憶していた。少なくとも、人が住んでいる様子はなかった。 「まあ、行ってみれば分かる」  言われて、陽子は景麒から借りた班渠《はんきょ》に騎乗した。そこからひたすらに飛んで一昼夜、騎乗したままうとうととして目覚めた早朝、金剛山の山頂が群島のように並ぶ海域を抜け、日没が近づこうという頃にようやく五山の姿を認めた。  蓬山は五山東岳、山頂には白く壮麗な廟堂が建つ。その門前に舞い降りる前に、陽子は佇《たたず》んでいる人影に気づいた。玲瓏《れいろう》とした女が、飛来する騎獣を仰ぎ見ている。 「……な?」  六太が笑う。なるほど、行けば分かる、と言うはずだ──陽子はそう思った。陽子は碧霞玄君《へきかげんくん》の顔を知らないが、待ち受けた人物の身なりから、それが玄君自身であることは想像がついた。 「毎度のことながら、わざわざのお出迎え、恐れ入ります」  真っ先に降り立った六太がそういうと、その女は軽く声を上げて笑った。 「それはこちらの申すこと。延台輔にはいつもながらの唐突なお越し、ほんに台輔はいつまで経ってもお変わりにならぬ」 「ま、俺はそれが身上だ。──玄君に紹介したい」  六太の言に、彼女は涼《すず》やかな眼差しを陽子に向けた。 「こちらは景王のようにお見受けいたす」  陽子は驚き、玉葉の顔を仰ぎ見た。 「よく……ご存じで」 「蓬山のヌシじゃからの」  玉葉は軽く声を上げて笑う。 「紹介が済んだところで、取り急ぎ、相談したい。……ついでにちょいと休ませてもらえると嬉しいんだがなあ」  彼女は笑って、祠廟のほうへと六太を促す。扉のない門の向こうには白い石畳の広い庭院《なかにわ》、ただし、それを囲む墻壁《へい》も回廊もなく、ただ、一郭に赤い小さな祠だけがある。正面は正殿だが、玉葉はそこへは向かわず。朱塗りの祠の前に立った。扇で扉を一つ叩き、開く。陽子がかつて通ったときの記憶では、そこには玻璃《はり》の階段があったはずだが、今は白い階段が下へと延びていた。  驚いている陽子を振り返り、六太は苦笑する。 「気にするな。この人はどっちかというと、化け物の部類だ」  玉葉《ぎょくよう》は涼しげな笑い声を上げ、陽子らを中へと促した。  禁門と同じ理屈だろう、さして長くはない白い階段を下りると、同じく白い建物の中だった。床に降りて振り返ると、閉まったはずの扉がない。そこには白い壁があるだけ、八角形の建物の、その他の面には壁が無く、緑に苔生《こけむ》した岩肌が迫っている。 「こちらへ」  玉葉が案内したのは、ほど近い宮だった。奇岩に囲まれた広々とした建物の中に入ると、すでに茶器と軽食が用意されている。蓬廬宮《ほうろぐう》に住まうはずの女仙の影はどこにもない。 「とりあえず人払いをしておいたが、それで宜《よろ》しゅうござったろうか」 「本当に察しのいいことで感心するよ。──単刀直入に訊くが、蓬山では、戴の事情をどこまで知っている?」 「再三、雁から泰果《たいか》はないかと問い合わせがあったゆえ、泰麒の御身に何か宜《よろ》しからぬことがあったことぐらいは想像がつく」 「それ以外は?」 「泰王が御座におられぬようじゃな」 「それで全てだ。戴に偽王が立った。泰王も泰麒も行方が知れない。泰王は戴を出ていないようだから如何《いかん》ともしがたいだ、泰麒だけでも捜したいと思っている。泰麒は鳴蝕によってあちらに流された可能性が高い」  玉葉は黙って茶器に湯を注いでいる。 「ただし、俺だけの手には余る。諸国に助けを借りようと思っている。そのうえで泰麒を捜し、こちらに連れ戻す。戻してそれで、戴に帰して終わりにはできまい。戴には冬に備え、物資が必要だ。偽王の目を逃れ、泰麒に泰王を捜してもらうにしても、それなりの人員と後《うし》ろ盾《だて》が要る」 「……国同士が、相互の付き合いを越えて、一致して事に当たった例はないようじゃえ」 「理《ことわり》に触れるか」 「さて……。泰麒を捜して連れ戻すまでは良かろうが、その先は如何《いかが》なものかの。これはおそらく理に触れよう」  しかも、と玉葉は蓋《ふた》をした茶器を六太の前に進めた。 「泰麒が流され、今に至るも戻っておられないことを考えれば、泰麒はこちらに戻ることができぬと思ったほうが良かろう。如何なる事情があってのことかは分からぬが、もしも事情ではなく、何らかの理由でそれが適わぬとすれば、その障碍《しょうがい》を如何にして取り除くか、という問題もござろう」 「そうなんだ。……どうだろう?」 「ふむ……」  呟いたきり、玉葉は黙り込む。しばらくの後に、頷いた。 「何にせよ、このままでは泰麒が不憫《ふびん》じゃ。……確認してみよう」  頼む、と六太が言うや否や、玉葉は立ち上がる。 「本日はゆるりと休まれるが良かろう。女仙を捕《つか》まえていずれの宮なりともお好きにお使いなされ。明日の午《ひる》にはお目に掛かる」       5  立ち去った玉葉を見送ってから、陽子は困惑して六太を見た。 「これは……どういうことなんだ?」 「どういう、と言われても。見ての通りだ。今回の件は、なにしろ前例がない。どうすればいいのか分からないし、だから相談したんだが」  それは分かるが、と陽子は口籠《くちご》もった。陽子の胸にある釈然としない感じを、どう言い表していいのか分からなかった。 「玄君はどういう方なんだろう?」 「ご存じの通り、蓬山のヌシだ。玄君が女仙を束《たば》ねている」 「その玄君に相談してどうなるんだ?」 「答えを与えてくれる。だから来たんだぜ?」 「なぜ玄君が答えを知っているんだ?」  ああ、そうか、と六太は溜息をひとつついた。 「陽子には呑み込んでおいてもらいたいことがある」  六太は言って、陽子を見据える。 「この世には天の定めた摂理《せつり》がある」 「それは知っているが……」 「漠然と分かっている、だろ? これは、そういうことじゃないんだ。摂理という枠組みが世界には、ある」  陽子は首を傾げた。 「それは天が所与のものとして人に授けた──あるいは、人に課した絶対的な条理だ。これは誰にも動かすことができない」  よく分からない、と言いかけた陽子を制するように、六太は軽く手を振った。 「いいか。この例を挙げるのが、一番分かりやすいだろう。今、俺たちの前には覿面《てきめん》の罪という問題が立ちふさがっている。兵をもって国境を越えてはならない、という条理が泰を救おうとすると邪魔をするんだ。実際に過去、王師が国境を越えた例がある。遵《じゅん》帝の故事がその例だ。遵帝は王師を範に向かわせた。その結果、遵帝も采麟《さいりん》も突如として斃《たお》れた。遵帝はその日、格別の不調もなく、平生通りだったという。それが外殿を出ようとしたところで唐突に胸を押さえ、階《きざはし》を転がり落ちた。官が慌《あわ》てて駆け寄ったとき、遵帝の身体からは血が流れ出て石畳を小川のように這っていたという。驚いて助け起こすと、遵帝の身体は海面のように変じ、押さえれば皮膚から血が滲み出した。遵帝はすでに絶命していた」 「そんな……」 「斎麟はもっと酷い。遵帝に変事が起こったことを報せようと、官が采麟の宮殿に駆けつけると、そこにはもう采麟の残骸しか残っていなかった。使令が彼女を食い散らした後だったんだ」  六太は顔を顰《しか》め、卓子《つくえ》の上で指を組む。 「これが尋常の死でないことは確かだ。王がそのようにして死ぬなんてことはあり得ない。同時に、使令がそうも唐突に麒麟を喰うなどということもあり得ない。麒麟を喰うのは使令の特権だが、場所を構わず荒らすことはない。どの麒麟もそれなりに息を引き取るし、遺体は棺に入れられ、殯宮《もがりのみや》に安置される。殯の間、棺の置かれた堂《ひろま》は封印され、殯が済むと出されるわけだが、その頃には棺の中はほぼ空になっている。──そういうものなんだ」  陽子は軽く喉元を押さえた。当の麒麟から麒麟の末路を聞くのは、胸が痛む。 「尋常でないことが起こった。しかも遵帝には位を失うような落ち度がなかった。仁道に篤い徳高い王で、遵帝が王師を範に向けたことにしても、誰も疑問には思わなかった。遵帝は範を苦しめるために王師を向けたわけではない。他国にも鳴り響く慈悲深い王が、慈悲によって民を救うために王師を範に向かわせたんだ。官も民も、それを支持しこそすれ、非難したりはしなかった。にもかかわらず、遵帝と采麟の末路はそれだった。何の予兆もなく、王や宰輔が死に際して通るべき段階は全てすっ飛ばされた。明らかに、尋常のことではなかったが、最初、誰もそれと王師の行動を結びつけたりはしなかった」 「延麒は遵帝とは……?」 「面識はない。遵帝は俺が生まれるより遙か以前にいた王だが、宗《そう》王が会ったことがある、と言っておられた」 「奏《そう》の……」 「宗王が登極して間がない頃、遵帝は盛んに奏を支援したらしい。そして唐突に斃れた。現在の宗王が登極なさった頃、才《さい》は治世三百年、南に著名な大王朝だった」  延麒は茶碗を揺らし、覗き込む。 「なぜ遵帝が倒れたのか、その理由は誰にも分からなかった。そしてその後、新たに王が登極したが、その時には御璽《ぎょじ》の国氏が変わっていた。そこで初めて、遵帝は罪によって斃《たお》れたのだ、ということが明らかになった。これには先例があったからだ。かつて戴の国氏も、代《たい》から泰《たい》へと変わっている。これは時の代王が、失道《しつどう》によって麒麟《きりん》を失い逆上し、次の麒麟の生誕を阻《はば》もうとして蓬山に乱入、女仙の全てを虐殺して捨身木《しゃしんぼく》に火を掛けた、それ以来のことだと言われている。他にも似た例があって、国氏が変わるのは王に重大な罪があった場合だと知られていた。そしてここで初めて、王師が国境を越えたことで遵帝は罪に問われたのだと了解されたわけだ」 「それに匹敵する罪……」 「そういうことだな。たとえ仁のためであろうと、兵をもって国境を越えてはならない、という条理があることが、その時に理解された。兵を他国に派遣することは、その理由如何に拘らず罪なんだ」 「ちょっと待ってくれ。その条理を定めたのは、いったい誰なんだ? 天帝?」 「分かるもんか。俺たちに分かるのは、そこに条理がある、ということだけなんだ。実際、天綱には、兵をもって他国に侵入してはならぬ、と書いてある。この文章は、間違いなく天の条理を書き写してあるんだ。世界には条理がある。それに背けば罪に当たり、罰が下されることになる」 「でも、遵帝の行為を罪だと認めたのは誰なんだ? 罰を下したのは? 誰かがいるはずだろう?」 「とは限らないだろ。たとえば王と宰輔はその登極に当たり、階《きざはし》を登る。陽子も登ったろう。天勅を受ける、というあれだ。それまで知らなかったはずのことが、頭の中に書き込まれる。そのときに、王と宰輔の身体の中に、条理が仕込まれた、と考えることもできる。天の条理に背けば、あらかじめ定められた報いが発動するよう、身体の中に仕込まれていると考えれば、少なくとも遵帝を見守り、その行為の正否を判じ、罰を下す決断をした何者かの存在は必要ではなくなる」 「御璽は?」 「同様に御璽に仕込まれていると考えることはできるだろ?」 「それでも問題は同じなんじゃないのか? 全てを仕込んだ──仕込むべく用意したのは誰なんだ?」  さてなあ、と六太は宙を仰いだ。 「天帝がそれだ、と俺たちは説明するわけだが、実際のところ、俺は天帝に会ったという奴を知らないんだよな……」  陽子は頷いた。 「私もだ……」 「天帝がいるのかどうかは知らない。だが、世界には条理がある。これは確かだ。そして、それは世界を網の目のように覆い、これに背けば罰が発動することも確かだ。しかもこれは事情を忖度《そんたく》しない。遵帝《じゅんてい》が何のために兵を出したのか、その行動の是非なんかは問題じゃないんだ。いわば天綱に書かれている文言に触れたか触れなかったか、ただそれだけの、自動的なものなんだよ」  陽子は軽く身震いをした。足許から悪寒《おかん》が這《は》い昇ってくる。 「そのもう一つの証左が、俺たちが陽子を助けた、あの件だ。行為だけを言うなら、雁《えん》の王師は尚隆の指示によって国境を越えた。どう考えても覿面《てきめん》の罪に当たるはずだ。確かに陽子は雁にいたが、陽子は別に俺たちに援助を求めてきたわけじゃない。偽王を討ちたいから助けてくれと言ったわけじゃなかった。単純に対応に困って保護を求めてきたのを、俺たちが取り込み、景麒だけでも偽王の手から取り戻す必要がある、と言って説得した。形としては景王が雁の王師を使ったという体裁を整えたが、それは体裁だけのことで、実状は遵帝の行った行為と何ら変わりがなかったことは、当の俺たちが一番よく知っている。──だが、条理はそれでも構わない。ただ景王が雁にいる、それだけの体裁が整っていさえすれば罰は発動しないんだ」 「しかし……それは可怪《おか》しくないか?」 「可怪しいとも。ちょうど悪党が、法の裏をかくやり方に似ている。確かに、天綱には兵をもって他国に侵入してはならぬ、とは書いてある。だが、他国に兵を貸してはならぬ、とは書かれていない。同時に、景王がそれを望めば、もはや侵入とは言えないだろう。王師の先頭に景王がいれば、それは確実に侵入という表現には当たらない。──驚いたことに、それで通るんだ」 「そんな……」 「それがいいとか悪いとか、そんなことを言っても仕方がない。この世はそういうものだ、と呑み込むしかない。だが、ものがそういう性質のものであるだけに、時々解釈に困ることがある。……実際のところ、俺たちがああして王師を貸したのは陽子が初めての例じゃない。俺たちは天の条理がものすごく教条的に動くことに気づいていたし、ならば当の王がいれば条理には触れないのではないかという結論に達していたが、最初の例の時にはひどく迷った。こんな裏をかくようなやり口が通るのか、自分たちでも疑問だった」 「……なのにやってみたのか?」 「まさか」  六太は顔を顰《しか》める。 「そんな博打《ばくち》ができるもんか。──だから、今回のように玄君にお伺いを立てたんだ」 「玄君に」 「そう。ここ、蓬山の主は玄君だ。一説によれば王夫人《おうふじん》が主だとも言うが、実際に女仙を束《たば》ねるのが玄君であることを、少なくとも俺は知っている。蓬山で生まれたわけじゃないが、蓬山で育ってきたからな。では、蓬山で住まう女仙を仙に任じたのは誰だろう?」 「それは……玄君じゃないのか? 少なくとも王ではないだろう」 「その通りだ。蓬山の女仙を飛仙《ひせん》と呼ぶ。それは、どの国の王が任じたわけでもなく、ゆえにどの王に仕えるわけでもないからだ。実際、蓬山の女仙はどの国の仙籍簿にも載っていない。王とは別の世界で、別個に仙籍に入れられ、玄君に仕えている」 「それでは、十三番目の国がある、ということにならないか? 少なくとも玄君は王に匹敵する立場にあるわけで」 「そういうことになるだろう? だが、ここは明らかに国じゃない。国土はあっても民がいない。しかもこの国土を統《す》べる王には麒麟がいない。そもそも、玄君は蓬山を統べるわけじゃない。蓬山には政《まつりごと》というものが存在しない」 「……では、ここはいったい何なんだ?」 「天の一部だよ。少なくとも、俺はそう思っている」 「……天」 「そう考えるしかないんだ。蓬廬宮《ほうろぐう》は、ただ麒麟のためにだけ存在する。麒麟を育て送り出し、王を生産するために存在しているんだ。しかもいずれの国にも属さず、独自に存在していながら国ではない。飛仙とは、天によって任じられた仙のことだ。その飛仙を任免する権を持った誰かは、確実に天に所属している」 「では……玄君は」 「それが分かんないんだよな」  六太は溜息をついた。 「あんたが仙を任じるのか、なんてことを訊《き》いて、真正面から答えてくれるような親切な御仁じゃないからな。ただ、玄君でなければ、玄君の上位に仙を任じる権を持った誰かがいる。それは王夫人かも知れないし、他の誰かなのかも知れない。いずれにしても、その誰かに玄君は仕えている。つまりは天も組織化されているんだ。天という機構があり、その末端に女仙はいて、玄君はそれを束《たば》ねている」 「天がある……」 「神の世界があるんだと思う。伝説では天帝は玉京《ぎょっけい》におられ、そこで神々を束ね、世を整えるという。本当に玉京があっても、俺は驚かない。ただし、俺は寡聞《かぶん》にして神と会ったという者を知らない。伝説でなら聞いたことはあるが、どうやら神は人に接触しないんだ。求めて神に会う方法はない」  だが、と六太は言った。 「ただひとつ、ここだけは常に人と接する。玄君に聞けば、少なくとも天の意向を問うことはできる。実際に玄君が意向をどうやって確認してくるかは知らないが。ともかくもここが唯一の接点であり、玄君は唯一の窓口になり得る人物なんだ」       6 「諸国が一致して泰麒の捜索をする、これは天の条理に反しない」  玉葉はそういった。一夜明けて、通告通り午《ひる》のことだった。 「大丈夫なんだな?」 「ただし、神籍あるいは、仙籍に入り、伯以上の位を持つものでなくては、虚海を渡ることはできぬ。これは動かすことができぬ」 「先刻承知だ。だが、それでは人員が足りない。天綱には、置くべき官の決まりがあるが、新たに官位を設けてはならない、という記述はない。このために新たに伯位の官を設けることはできるか」 「ならぬ。伯位を超える位は天にとっても数々の特権を付与した特免の位、これを授けることができるのは、定められた通り、王の近親者、そして冢宰《ちょうさい》、三公諸侯に限る。それ以外の者に特免の位を与えることは適《かな》わぬものと考えられたほうが良かろう」  六太は軽く舌打ちをする。 「では、女仙を借りることは」 「それも今回はならぬ、と心得られよ。蓬山の女仙は妾《わらわ》の免許なくば、蓬山を離れて動くことが適わぬ。妾は今回、女仙にその免許を与えない。なぜなら、崑侖《こんろん》、蓬莱《ほうらい》へ泰麒を探しに行くためには、頻繁に呉剛《ごごう》の門を開き、蝕を起こす必要があるからじゃ。現在、蓬山には塙果《こうか》がある。蝕が蓬山に波及して塙果を異界に流すことだけはあってはならぬ。女仙には何を措いても、塙果を守ってもらわねば」 「ああ……そっか、蝕か」 「これは条理ではなく、玉葉からの頼みじゃが、蝕を起こすことは最低限に願いたい。たとえ虚海の彼方で呉剛門を開いても、それがどう波及するか予断を許さぬ──それが蝕というもの。心掛けてもらえれば恩義に思う」  心得た、と六太は言い、陽子は頷く。玉葉は微笑み、 「ただし、九候と王の双方が国から欠けてはならぬ。天綱には、王がなければ九候の全《すべ》て、王があっても九候のうち余州八候の半数以上が在《あ》らねばならぬとあるが、これは天の条理であると心得てもらいたい。ここでの『在る』は、国にいる、という意味だと解釈なされよ。余州八候の半数──四候以上が一時に国を空けてはならぬ」  六太は玉葉を睨《にら》んだ。 「国にいる、という意味だというのは初耳だ。だったらそう書いておけよ」  玉葉は軽く笑う。 「その苦情は天帝に申し上げるのじゃな」 「これだから、天の条理は油断がならない。──まあ、いい。他には」 「諸国合意の上でも、兵をもって他国を侵してはならぬ。これは断じて動かない。泰王がおられぬ以上、戴へ派兵することはまかりならぬ」 「了解済みだ。──泰の様子を見るために、兵を入れるのはどうだ」 「条理には、侵してはならぬ、とあるが、兵が他国に立ち入ることを禁じているわけではない。たとえば王が他国を訪問する際には、必ず身辺警護のために兵卒を同行するであろう。これを禁じる文言はない。また、使節として兵士のみが他国に向かうことを禁じる文言もないし、ゆえにこれまでも頻繁に行われてきた。問題は、兵士が他国に入ることではなく、入った兵士の行動が『侵す』という文言に当たるかどうかにかかっている」 「……微妙だな」 「戴の場合は、より微妙じゃ。どういう場合が『侵す』に当たるか、これはたとえば、その国の王の国策に背《そむ》く行為である場合が挙げられる。遵帝がこれじゃな。氾王《はんおう》が民を虐《しいた》げた。それは非道とはいえ、正当な氾王が採った国策であることは確実じゃ。遵帝はこれを妨げた。ゆえにこれは『侵す』に当たる。空位の場合は、時の朝廷が決した方針が、すなわち国策であると見なされる。──ただし」 「泰王は死んでいない。戴は空位になったわけじゃない」 「その通りじゃ。たとえ偽王による偽朝といえど、それが朝廷の決であるならば、これに干渉し妨げることは侵入に相当する。じゃが、戴にはまだ正当な王がおられる。偽王は普通、空位になった王朝に偽って王が立つことを言う。戴の場合は、正しくは偽王とは言えぬ。前例がないので、何と呼べばいいのか定かではない」 「阿選の朝廷が、天の言う朝廷に相当するのかが問題か……」 「そういうことじゃな。こればかりは前例がなく、はっきりと定めた条理もない。どの目が出るかは妾《わらわ》にも判じかねる。ただ、国策とは王の方針ではなく、得てして朝廷の方針を言うことはお心に留め置かれたほうが宜しかろう」 「難儀だな……」 「布陣はならぬ。他国の国土を、天によって認められた広さから一夫《いっぷ》たりとも削ることは許されませぬ。戴国の王、戴国の民が、立ち入ることのできぬ土地を、他国の兵士が確保することは国土の占拠にあたる。たとえどう理屈をつけようと、陣営を設けた時点で覿面《てきめん》の罪に当たると心得ておかれよ」 「了解した」  延麒は他にも二、三の問いを発したが、それはいずれも曖昧な条理に明確な線引きをしようという、そういう行為に陽子には見えた。居心地の悪い違和感があった。玉葉は明らかに天綱に対する解釈を述べ、前例を加味して答えを与えようとしている。まるで全てに条理が先んじる──それも成文化された条理が先んずる印象を受けた。  何となく、玉葉は昨晩一晩で、その条理に対する解釈と前例を調べ上げてきたのだ、と言う感じがしてならなかった。では、その条理とはいったい、何なのだろう?  陽子はこの世界に連れてこられて以来、世界を見えるままに受けとめてきた。妖魔という魔物の跋扈《ばっこ》する世界、神仙が奇蹟を行い、数々の不思議が満ちる。それは御伽噺《おとぎばなし》にそうだと定められているように、ここにおいては当然のことだと丸飲みにしてきたのだが、ここはそういう牧歌的な空想世界とは別物なのではないかという印象を受けた。  なぜ妖魔がいるのか、なぜ王には寿命がないのか、なぜ生命は樹木から誕生し、何をもって麒麟は王を選ぶのか。それら、当然としてきたことの全てを、不可解に思うべきだったのかもしれない。そういう種類の──あえて言うならば──薄気味の悪い違和感。  その違和感は、言葉にできないまま、蓬廬宮を退出するときまで続いた。  再び白い階段を抜け、山頂に出る間に、陽子は何とか言葉にしてみようと足掻《あが》いたが、やはりそれは巧く言葉にならなかった。 「玄君の言っていることは分かったな?」  六太に問われ、陽子は頷く。 「俺はこのまま奏へこれを伝えに行く。挨拶もしなければならないし。陽子は戻って尚隆からの指示を待て」 「……分かった」  じゃあな、と軽々とした声を残し、六太を乗せた|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》は南へ向かって消えていった。 [#改ページ]       ※  穢濁《あいだく》は降り積む。二年、三年と過ぎるうちに、それは着実に彼を蝕《むしば》んでいた。鬱金《うこん》色をしたはずの彼の影は、その翳《かげ》りを深くしていった。そして──と汕子《さんし》は思う。  皮肉なことに、彼の影が穢《けが》れていけばいくほど、汕子たちは呼吸が楽になっていくのだった。あれほど困難に思われた、泰麒の影から抜け出ることも、意外に容易《たやす》く可能になった。あるいはそれは、汕子たちが汚れから力を吸い上げているせいなのかもしれず、さもなければ、汕子らを覆《おお》った殻が次第に薄く脆《もろ》くなってきていることの証《あかし》なのかもしれなかった。  ひょっとしたら、と汕子は悪寒《おかん》のする思いで自己を省みることがあった。泰麒の影が汚れていくのは、穢濁のせいばかりではなく、汕子たちのせいなのかもしれない。  泰麒に危害を加えようとする者を、汕子は排除した。そのたびに鬱金の色が濁り錆《さ》びてくるような気がする。  だが、汕子にすれば、排除は選択の余地のない当然のことだった。汕子は泰麒の傅母《うば》だ。泰麒が金色の果実として生を受けるのと同時に生まれ、生涯を泰麒と共に過ごすべく定められている。泰麒の生命が尽きれば、同時に汕子の生も終わる。そんなにも、汕子はただ泰麒のためにだけ存在しているのだ。王を選び、生国に下り、宰輔の地位に就いた麒麟は、もう汕子に養い育てられる子供ではなかったけれども、それでも汕子は依然として泰麒の僕だったし、泰麒のために存在していた。傲濫《ごうらん》もまた、そうだ。傲濫は決して泰麒のために生を受けたわけではなかったが、契約によって結ばれた縁は汕子のそれに劣るものではない。麒麟と使令が結ぶ契約は、麒麟が王に対して結ぶ契約に匹敵する。汕子だけではなく、傲濫もまた、今や泰麒を守るためだけに存在しているのだ。  その汕子らの目の前で泰麒に危害が加えられるのを、どうして黙って見過ごせるだろう? 泰麒の命令があればともかく、あるいは、泰麒が全身全霊を捧げる王のためならばともかく、汕子にとっても傲濫にとっても、泰麒に加えられる暴力を耐えて容認する理由は、どこにもなかった。  最初は警告だった。泰麒に不遜の手を出せば、必ず報いがあるのだと汕子は証明して見せなければならなかった。それでも不埒《ふらち》な行為はやまなかった。相手が泰麒を軽んじるなら、それは過ちだと汕子は思い知らせてやらなければならない。牢獄に囚われ、看守の専横を許しているのは、ゆえあっての選択であって、決して泰麒の神性が失われ、身分を失ったからではない。特に相手が害意をもって泰麒に危害を加えようとするなら、これは万死に値する。法をもってしても宰輔を害するは死罪、罪を減じられることはあり得ない。  そうやって排除してもなお、次々に逆賊は現れた。払い除けても払い除けても湧いて出るそれを排除するたび、汕子の──傲濫の制裁からは余裕も容赦《ようしゃ》も失われていった。そしてそのたびに逆賊の害意は増し、泰麒の影の鬱金《うこん》の色が濁《にご》ってくるような気がする。濁れば濁るほど、注ぎ込んでくる気脈が痩《や》せる。  この汚濁が汕子《さんし》らのせいだったとしても、汕子は他にどうすればよかったのだろう?  ……こんなことがいつまで続く。  絶望的な気分を僅かに救ってくれるものがあるとすれば、何かの弾みに汕子が触れ、慰《なぐさ》めを与えると、泰麒が喜んでくれることだった。悲しいことに、泰麒は汕子のことも、蓬山のことも戴のことも覚えていないようだった。だが、それでも汕子の指の感触だけは忘れずにいてくれるのだ。  ……お側にいます。ついています。  慰める度、ほんの少し闇の中に明るい金が射《さ》して、汕子はそれで僅かなら報《むく》われる気がする。 「必ずお守りしますから……」  呟いた汕子の姿はしかし、翳《かげ》った闇の中で徐々に輪郭を失いつつあった。  汕子は自身で気づいていない。自分が自己を律することができなくなりつつあることに。思考は狭まり、頑《かたく》なになった。そういう形で、自らにも穢《けが》れが付着しつつあることを、汕子は微塵《みじん》も理解していなかった。  そして同時に、泰麒自身もまた、自己にそういう変化が起こりつつあることを、露ほども認識していなかったのだった。  ──いや。彼は勿論、自己の周囲に事故の多いことを認識していた。しかしながら、彼はそれを「亀裂」の一環だと理解していた。  彼は物心ついてからずっと、自分は異分子なのではないかという疑いを抱いてきた。自分という異物が存在するために、周囲の何かが巧くいかないのだという罪悪感にも似た意識を抱いていた。彼の存在は常に周囲にとって落胆の種であり、困惑と困苦の種なのだと感じてきた。そしてそれは、年ごとに拡大し、確信へと変わっていった。  彼は今や、確実に異分子だった。周囲にとって不快の元凶であり、災厄の種子だった。いつの間にか彼と世界の間に刻まれてしまった亀裂は、時と共に目を逸らしようもなく深まっていった。亀裂に橋を渡そうとする母親の狂おしい努力は、どこかの時点で放棄されてしまった。  彼は孤立し、そして孤立せざるを得ない自分を理解していた。自分に係わるものには災厄が降りかかる。「祟《たた》る」という噂が流れた。そしてそれは、彼の属性のひとつになった。彼は自分が、周囲にとって不快で危険な生き物なのだと了解した──せざるを得なかった。  彼はそれを、自分でも不思議なほど淡々と受け入れた。  なぜなのだろう、と彼自身思うことがある。小さい頃には、自分が異分子のように思えることが、ひどく辛く、悲しかった。だけれども今は、それほど辛いとも悲しいとも思えなかった。  慰めてくれる何かがいるせいなのかもしれない。精霊のような何かが自分の周囲にいて、温かな慰撫《いぶ》を与えてくれていることに、彼はいつからか気づいていた。だからこの孤立を、真の意味での孤立だとは捉えていないのかもしれない。あるいは、他人に係わることは即ち、その人物を危険に曝《さら》すことで、それが実際に起こったときの苦しみを考えれば、どんな関係も持たないほうが数倍ましだと感じていたのかもしれない。だが──それよりなお、数段奥深いところで、彼の何かが変質していた。  ……僕は、ここにいてはいけない。  彼はそう感じていたが、それにはさほどの苦しみを伴わなかった。それはかつてどこかでとっくに覚悟し、受け入れたことなのだという気がしていた。幼い頃、母親が彼のせいで泣くことは、彼にとって何にも勝る重大事だった。彼は今もそれを辛く感じはするのだが、母親を哀《あわ》れに思うたび、もっと先に憐《あわ》れまねばならない誰かがいるような気がしてならなかった。母親より、家族よりももっと先に、案じてやらねばならない誰か。  歳と共に膨《ふく》らんでいったのは、悲嘆や孤愁《こしゅう》よりも焦りだった。何か大切なことを忘れている。絶対に忘れてはならない、あまりに重大な何か。こうして彼が無為に存在している間に、取り返しがつかないほど損《そこ》なわれ、失われていく何かがあるような気がする。  なぜ思い出すことができないのだろう。  どこかで喪失した一年。思い出そうとする度、懐かしく、愛《いと》しく感じる何か。思い出すことができないまま、日一日と彼はそこから離れていく。大切なそれとの距離が絶望的なまでに開いていく。  ……帰らなければ。  でも──。  どこへ? [#改ページ] 五 章       1  陽子が蓬山《ほうざん》から戻ると、正寝《せいしん》で女史《じょし》が待ち受けていた。 「陽子──妙なお客様があるのだけど」 「客?」  首を傾げると、祥瓊《しょうけい》は頷く。陽子が蓬山へ向けて旅立って間もなく、国府へ陽子を訪ねてきた者があったという。 「氾《はん》王が裏書きなさった旌券《りょけん》を持った使者がやってきて、陽子に会いたいと言っているようなの。陽子はいなかったので、とりあえず堯天《ぎょうてん》の舎館《やど》で待ってもらっているのだけど。これが使者の残していった氾王からの親書」  陽子は首を傾げながら、それを受け取った。慶は過去、範《はん》と国交を持ったことがない。ひょっとしたら、延王《えんおう》延麒《えんき》が連絡を取ってくれた例の件についてだろうか。  親書を開くと、ほのかな芳香と共に、すばらしく流麗な文字が出てきた。その手跡といい、涼しげな墨の色と、ごく淡《あわ》い藍《あい》の紙色との取り合わせといい、品格と美しさを感じさせたが、陽子は深呼吸をして身構えなければならなかった。祥瓊《しょうけい》がそっと陽子の顔を覗き込む。 「……読もうか?」 「いい……頑張ってみる」  陽子は四苦八苦して、親書に取り組む。それは型通りの時候の挨拶《あいさつ》に始まり、不躾《ぶしつけ》に使者を遣《つか》わした非礼を詫《わ》びるもののようだった。延王から報《しら》せを受けたこと、協力は惜しまないことを述べたうえで、頼みたいことがある、と書いてあった。戴からやってきた将軍が、慶に逗留しているということだが、是非とも将軍に面会をさせてもらいたい、と。 「李斎に会いたいと言っているみたいなんだけど。舎館《やど》に使いをくれ、と言ってるのかな。あるいは舎館にいる使いと会わせてくれと言ってるのか……」  陽子が手紙を差し出すと、祥瓊は瞬《まばた》いた。 「違うわ。将軍を舎館に遣《つか》わして欲しいと言ってるのよ。個人的に会いたいだけだから、重大なことにはしないでもらいたいって──あら、じゃあ」  祥瓊は目を見開いた。 「……じゃあ、氾王御当人が、堯天の舎館までいらしてるんだわ」  そんな、と陽子は呟いた。 「それはものすごく失礼なことなんじゃあ」 「普通はね。でも、当の御本人が、重大なことにはしないでもらいたいって言ってるんだから。あくまでも個人的に将軍に会いたいってことのようよ」 「なんで?」 「理由は書いてない。……これは私的なことだから、自分が来ていることは見て見ぬふりをしといてくれ、将軍にも身元は言わずにおいてもらえるとありがたいって書いてあって、それで終わり」 「と言われても、李斎はまだとても、舎館《やど》を訪ねていける状態にはないんだが」 「そういってみるしかないわね。こちらからも使者を遣《や》って、事情を説明するしかないんじゃないかしら。台輔《たいほ》と冢宰《ちょうさい》に相談してみたほうがいいと思うわ」  陽子は頷き、慌てて景麒《けいき》と浩瀚《こうかん》に相談をした。とりあえず事情を説明して、氾《はん》王自身に金波宮《きんぱきゅう》まで足を運んでもらうしかあるまい、ということになって、秘かに祥瓊《しょうけい》に舎館まで行ってもらうことになった。李斎はまだ動けない、李斎が治るまで待ってもらうわけにもいかないので、失礼ながら金波宮までおいでいただきたい、と親書を持たせたのだが、この親書を作るのが、ひと騒動だった。 「そんな、どこにでもあるような紙を使っちゃ、駄目」  祥瓊は断固として言って、氾王からの親書を示す。 「これを見れば分かるでしょ。すごく趣味の良い方なんだから、滅多なものを差し上げるわけにはいかないわ」 「そんなことを言ったって、私はそもそも字が下手だし」  陽子は筆を使って文字を書くことに慣れていない。お粗末な字だという自覚はある。 「だからこそ、心配りをする必要があるの。そのへんにある紙に書き殴《なぐ》ったら、塵芥《ごみ》みたいなものじゃない」 「……そこまで言うか?」 「言いますとも。だからってあんまり気取った紙を使うと、かえってみっともないことになるわよね。飾り気のない気の利いたものでなくちゃ。探してくるから、陽子はそこで字の練習をしてて」  溜息をつきながら、陽子は祥瓊の作ってくれた手本を写し、そして彼女が探し出してきた紙に何度も書き直しながら清書をした。それを携えて祥瓊は宵の街に出て行き、戻ってきたのは夜、祥瓊は何とも奇妙な貌をしていた。 「どうだった?」 「ああ……うん。明日、国府をお訪ねくださるそうです。公式の賓客ということになると時間も手間もかかるし迷惑もかけることになるから、くれぐれも個人的な客として扱ってくれ、って」 「そうか。……で、氾《はん》王はどういう方だった?」  氾王はその在位三百年、南の奏、北東の雁に次ぐ大王朝だった。  祥瓊《しょうけい》は何とも言えない表情のまま、上目遣《うわめづか》いに天井を見る。 「……趣味はとても良い方だったわ……一応ね」  は、と問い返す陽子に、祥瓊は引きつった笑みを向ける。 「まあ……会えば分かるわよ」  範からの来客があると国府から報せが上がってきたのは、予定通りその翌日、陽子は蓬山行きの間に溜《た》まった雑事を片づけていた最中だった。取るものもとりあえず、外殿へと向かう。外殿の傍らには殿堂があって、来客をそこに一旦、留め置くことができるようになっている。その堂《ひろま》の中にはいると、中には二人の人影が待っていた。一人は二十代終わりの背の高い貴婦人、もう一人は十五、六の少女だった。どこと言って特徴のないその少女の顔を見て、陽子は一瞬、足を止めた。どこかで見たことのある顔のように思ったからだ。  その少女は、陽子が以前、慶であった少女にどこかしら似ていた。もちろん、当人であるはずがない。なぜなら、その少女は死んでしまったのだから。だが、僅かに胸が痛んだ。似ている、と思うと切ない。  少女は膝《ひざ》をつき、そんな陽子を不思議そうに見てから、拱手《きょうしゅ》した。 「突然のご無礼にもかかわらず、拝謁を賜《たまわ》りまして、深くお礼を申し上げます。ここに範《はん》の主上からのお使いをお連れしました」  言って少女は、背後に同じく膝をついた人物を見やる。では、これが氾王その人だろうか──背筋の伸びる思いで、一礼したその人物を見て、陽子は少し驚いた。特に華美なところはなく、一見して質素にすら見える身なりの麗人《れいじん》だったが、よくよく見れば、身につけた襦裙《きもの》も花鈿《はなかざり》もさり気ないものの見事な代物だった。だが、どう見ても、そのすらりとした長身の持ち主は男にしか見えなかった。似合っているのは確かだし、なるほど、祥瓊の言うように趣味の良い人物ではあるのだろうが──目線のやり場に困っていると、少女は微笑む。 「とにかく主上からのお言葉をお伝え申したく存じますが」  陽子はそれを、人払いして欲しい、という意味だと受け取って頷いた。|※[#「門<昏」、unicode95BD]人《こんじん》を振り返る。 「とにかく大行人《だいこうじん》に命じて、お客様をお迎えするように。それと──」  言いかけたところで、少女が顔を横に振った。 「いいえ。……畏《おそ》れながら、あまり仰々しいことにならないように、と主上からくれぐれも言い遣っております。どうぞ、官の皆様を騒がせないでくださいまし」 「しかし」 「お願い申し上げます。私が主上からお叱りをいただいてしまいます」 「……では、失礼ながら、私的なお客様としてお招きする。お二方はどうぞ、こちらへ」  ※[#「門<昏」、unicode95BD]人が咎《とが》めるような声を上げたが、陽子はそれを一瞥《いちべつ》して黙らせた。外殿から奥へと少女を導く途中、※[#「門<昏」、unicode95BD]人が聞こえよがしに、範は礼儀知らずだ、と呟くのが聞こえた。 「……臣下の躾《しつけ》が行き届かず、申し訳ない」  陽子が詫《わ》びると、少女は笑む。 「景王は主上におなりになったばかりなのですから」  なにやら奇妙な──と、陽子は思った。特に取り立てて人目を引く容姿ではないのだが、奇妙に人を惹《ひ》きつける華やぎが、この少女にはある。瑛《えい》州の片隅で死んだ慶の少女にはなかったものだけれども。 「……どうかなさいましたか?」 「いえ……知り合いに似ている気がして」  左様ですか、と少女は微笑む。もう一方の「使者」は黙って少女の背後に控えていた。特に表情を動かすわけでもなく、先ほどから一言も口を開かない。押しつけがましくはない奇妙な存在感があって、しかも立ち居振る舞いは流れるように優美だった。多分、この人物が氾王のはずなのだが──と、困惑した気分で陽子は二人を連れ、内殿へと向かった。その途中で景麒に会う。外殿へと駆けつけるところのようだった。 「ああ、景麒──こちらは」  陽子は言いかけ、言葉を途切れさせた。景麒が唖然としていた。 「主上……こちらは」 「ああ、氾王のお使いで」  にこりと笑んで、少女が一礼する。呆気《あっけ》にとられていたふうの景麒が慌てて膝《ひざ》をつくのを見て、陽子はぎょっとした。 「では、氾台輔であらせられますか」  は、と声を上げそうになった陽子を、少女は制す。秘め事をするように口許に指を当てた。陽子は改めて少女を見た。少女の長い髪は艶やかに黒い。どう考えても麒麟のそれではなかった。背後に控えた長身の人物が、初めてちらりと笑った。 「どこへお連れいただけるのでしょう?」  少女が屈託なく言うので、陽子は慌《あわ》てて、内殿にある園林《ていえん》のほうを示した。  広大な園林《ていえん》には内殿に付属する書房が続き、その反対には客殿が続く。園林のそこここには路亭《あずまや》や楼閣が建ち、起伏に富んだ園林に隠れ家のような佇まいを見せている。陽子は少女をそのうちのひとつに案内し、そして小臣らを退がらせた。それを見て取って、少女は襟に手をかける。見えないかぶり物を落とし、衣を脱ぎ捨てるような動作をする。鮮やかに明るい透けるような金の髪が現れた。  唖然とする陽子に向かい、彼女は一礼する。 「驚かせてしまって御免なさい。改めて御挨拶いたします。氾麟《はんりん》でございます」  彼女はもう、陽子の知っている如何なる顔とも似ていなかった。それどころか、陽子はこの少女のように美しく、愛らしい容貌をした者を知らなかった。彼女が何かを脱ぐようにした両手には、今、薄い紗《しゃ》のような衣が抱えられている。  ああ、と彼女は声を上げた。 「蠱蛻衫《こせいさん》と言うんです。この身なりでは官を騒がせてしまいますから、主上から借りてきました。でも、景王をすっかり驚かせてしまったみたい。誰かに似ておりました?」 「ああ……ええ」 「では、それは景王にとって大切な方なんですね」  氾麟は花のように笑う。 「これはそういうものなんです。見ている人にとって好ましいように見えるんだそうです。私が鏡を見ても、ぜんぜん変わったようには見えないんですけどね。……けれども、台輔には、やっぱり通りませんでした」 「麒麟の気配が見えましたから」  言って景麒は溜息をつき、一礼をした。 「ともかくも、御挨拶を申し上げます。お初にお目もじ仕《つかまつ》ります」 「はい。こちらこそ」  ぺこりと頭を下げ、氾麟は手近の椅子に勢いよく腰を下ろした。 「景王はお名前をなんておっしゃるの?」 「陽子と……」 「じゃあ、陽子って呼びます。あたしは結構、おばあさんだから、景王もいっぱい知っててややこしくて。景麒には字《あざな》はないの?」 「ございません」 「あら、可哀想に。私は今のところ梨雪《りせつ》です。でも、主上は気まぐれでわたしの字を変えるので、いつまでこの字でいるのか分からないんだけど。……ねえ?」  少女は言って、傍らに佇《たたず》んだ人物を見上げる。陽子は、やはり、と頷く。景麒が驚いたように口を開けた。  くすり、とその人物は笑う。 「範国国主、呉藍滌《ごらんじょう》と申す」  はあ、と陽子は頷き、我に返って、慌てて席を勧《すす》めた。 「申しわけありません。どうぞお掛けください。……すっかり失礼をしてしまったのではないでしょうか」  なんの、と彼は笑う。氾麟は鈴を転がすように笑った。 「こんな訪ね方をしたんだから、礼にそぐわないのは当たり前です。無礼をしたのは、こちらなのだから気にしないで」  言って彼女は小首を傾げる。 「本当に陽子こそ、気を悪くしないでもらえると嬉しいのだけど。主上は、是非とも戴からいらしたという将軍様に会いたいんですって。公式にお訪ねしても時間もかかるし、朝《ちょう》をお騒がせもしてしまうから、こんな形になっちゃったんです」 「それは一向に構いませんが──李斎《りさい》に、ですか?」  陽子が氾王を見ると、彼は頷く。 「雁から聞いた話によれば、瑞州師の将軍だとか。まだお体の具合が宜《よろ》しくないということだが、お会いできるかえ?」 「はい……まだ遠出できるような状態ではないのですが、床払いも済んでおりますし、今は萎えた手足を動かす訓練をしているところで」 「私がどこの何某《なにがし》だかは、あえて言わずとも宜しい。病人を驚かすのは、本意ではないからね。ただ、範からの客人だと言うことで面会させてもらいたい」  陽子は頷いた。 「こちらに連れて参ります」 「よい。一私人が訪ねるのであれば、こちらから足を運んで当然だろうから。案内してくりゃるかえ」  はい、と陽子は氾王を促す。氾麟は椅子に座ったまま、景麒の衣服を握ってひらひらと手を振った。       2  陽子が太師の邸を訪ね、庭院《なかにわ》に入ったとき、李斎《りさい》はちょうど桂桂《けいけい》に手を引かれているところだった。すっかり萎《な》えていた李斎の足も、助けを借りれば前に進むようになっていた。昨日にはとりあえず飛燕《ひえん》に跨《またが》ることもでき、李斎は少し安堵《あんど》している。 「──陽子」  入ってきた陽子を認めて、桂桂は笑った。 「見て、もうずいぶん歩けるようになったんだよ」 「のようだな。無理はさせてないか?」 「大丈夫だよ」  陽子は頷き、李斎に客だ、と伝えた。李斎は陽子の背後に目をやる。陽子の後ろに続いたのは奇矯な身なりの人物だったが、李斎は彼の容貌にどこか見覚えがあるような気がした。 「桂桂、少し外してくれ」  陽子が言うと、桂桂は拘《こだわ》りなく頷《うなず》く。 「じゃあ、飛燕の世話をしてくるね。昨日李斎に、身体の拭き方を習ったんだよ」  そうか、と陽子は笑って桂桂を見送った。そして改めて李斎を振り返る。 「範からのお客人だ。李斎にお会いになりたいと言うことだから」  言って陽子は李斎の腕の下に肩を入れる。李斎はありがたく肩を借りて堂室《へや》へと戻ったが、その間も、範から来たという客人の顔をどこで見たのか思い出そうとしていた。 「具合は宜しいようだね」  李斎が勧めた椅子に腰を下ろして、彼は言う。李斎は一礼した。 「はい。……失礼ですが?」 「私は範から来た。そなたに見てもらいたいものがあってね」  言って彼は、鉄色の麻に黒で瀟洒《しょうしゃ》な刺繍《ししゅう》を施した単衫《ひとえ》の懐《ふところ》から、小さな布包みを取り出した。卓子《つくえ》の上に広げたそれには、腰帯の断片が載せられていた。皮で作られた帯に、燻《いぶ》したように黒銀に輝く帯飾りが並べて留めつけられている。帯の端につけられた金具には、疾走する馬が見事な造作で彫りこまれていたが、肝心の長さ自体は両手の指を広げたほどしかなかった。帯は途中で断ち切られ、しかも断面の皮には赤黒いものが染みついている。  それを目にして、思わず李斎は立ち上がり、そして均衡を崩して危うく転倒しそうになった。 「──これは」 「李斎?」 「そなたは瑞州師の将軍であったと聞く。そなたに見覚えのある品かえ?」  あります、と李斎は声を張り上げた。 「これを……どこで」 「範で。戴から届いた玉の中に交じっていたらしい」 「戴からの……」  これは、と李斎を支えた陽子が問うた。 「主上のものです。間違いありません。これは──」  言いかけて、李斎は気づいた。未だ名乗らない客人の顔に見覚えがある。そう、確かに見たのだ、他ならぬ驍宗の即位礼で。  李斎は陽子の手を離れ、その場に膝《ひざ》をついた。 「これは貴方様から即位のお祝いにお贈りいただいたものだと聞いております」  そう、と氾王は頷く。 「驚かしたくはなかったが、気づかれたか。……よい。立って坐りなさい。身体に障《さわ》ろう」  言って氾王は怪訝《けげん》そうにしている陽子を見た。 「範は古くから戴と国交がある。もっとも、私は先の泰王が嫌いでね」 「……は?」 「とにかく趣味が悪いのだもの。私はどうあっても、金銀を貼った甲冑《よろい》を着て喜ぶような輩《やから》とは馴れ合う気にはなれなくて」  氾王は本気で嫌そうに顔を顰《しか》める。 「けれど、驍宗は悪くなかった。即位の儀にお邪魔したのだけれど、無骨だが趣味は悪くなさそうだったからね。それに泰麒はいいねえ。あの鋼《はがね》色の鬣《たてがみ》は私の好みだったよ」 「……はあ」  陽子が目をぱちくりさせていると、氾王は笑う。 「そうやってお会いする程度の付き合いはあった、ということだね。というのも、範には玉泉は勿論、玉を産出する山がなくてね。けれども玉や金銀の加工にかけては、範は十二国一を自負している。加工する材料となる玉は戴から届く。その荷の中から、これが見つかった」  言って彼はその金具を手に取る。 「ご覧。疾走する馬の鬣の一本一本まで彫られておるであろ。これは私が、泰王即位のお祝いに、冬官の中でも最も腕のいい彫師に細工させたもの。慶賀のためにお送りした品の中の一つに違いない。これだけの細工はもちろんのこと、銀をこのように美しいまま燻《いぶ》して留め置く技術は範の冬官にしかない。戴からの荷の中にこれを見つけたものは、それを察して冬官にこれを送り、冬官がわたしの許に届けてきた」  跪いたままの李斎は、氾王を見上げた。 「これは……これは、どこからの荷に」 「文州じゃな。文州は琳宇《りんう》から届いた礫《いしくれ》の中に交じっておった。琳宇で当時、石を荷出している鉱山はひとつしかなかったと聞いておるが」 「はい──ええ、そうです」  答えた李斎に頷いて、氾王は陽子を見る。 「戴の上質な玉は、玉泉から出る。山の中に水脈があって、そこに種を浸しておくと育つ。その水脈が通っている場所には、砂礫《されき》を巻き込んだ玉の層が帯状にできる。それを掘り出したものを、飾り石として加工するのだが、これはわざわざ玉だけを選別してきたりはしないのだね。山から掘り出して切り欠いたままの石を、文字通りの玉石混淆で送ってくる。そこから石を選別し、良いところを切り出すのは匠の仕事、匠は山の石を一|鈞《きん》幾らで買いつける。その荷の中にこれが交じっていたそうな」 「よく……こんなものが」 「全くだねえ。文州は玉の産地じゃが、他に産物がないために、ほとんどを掘り尽くしてしまったとか。僅かに出る良い玉は驕王の手に渡ってしまい、範に送られてくるものは礫ばかり、それさえ年々減っていた。ことにこの数年は、その礫さえ入っては来ない。もはや全く荷が動いていないのでね。これは、戴から泰王が亡くなられたと、怪しげな勅使が来て──二年もしてから届いたのだったか。その頃から荷が止まるようになったから、ぎりぎりで届いたというところだね。よくぞ間に合ったものだよ」 「……切れています」  陽子の言葉に、氾王は頷く。 「これは刃物で切った傷じゃと、冬官の意見は一致している。表は勿論、帯の裏にも血痕が滲《し》みついておろう。……つまりはそういうことなのだねえ」 「誰かが泰王を斬った……」 「それも後ろからだよ。よほどの変事があったのであろうと案じていたが、肝心の泰に連絡をしても、凰《おう》は答えず、国府からも変事がなかった。今回、雁《えん》から連絡をもらって初めて事情が分かった」  これは、と氾王は帯を布で包む。 「そなたに進ぜよう。切れてはおるが、泰王が身罷《みまか》られたわけではないと聞いて安堵《あんど》した。私の手許に戻ってきたのも奇縁であろ。泰王が自らの所在を報せてきたようでないか?」  はい、と李斎は頷きながら、その包みを押し頂いた。 「奇跡的な縁《えにし》で、そなたら戴の民と泰王はまだ繋がっている。……諦《あきら》めるでないぞ」  ありがとうございます、と言った言葉は嗚咽《おえつ》で声にはならなかった。       3  李斎はしばらく臥室でその帯を見詰めていた。  ──まだ繋がっている。  確かにそうだ、と李斎は自分に言い聞かせた。琳宇《りんう》に近い鉱山で、あのころまでまだ玉を掘っていたのは函養山《かんようざん》しかない。文州で最も古いと言われるその鉱山は、完全に玉泉が枯れ、当時からすでに三等級以下の玉を細々と掘っているだけだったと記憶している。  驍宗が消息を絶ったのは琳宇の外れでの戦闘の最中、そして函養山からこれが見つかった。ならば驍宗は函養山で敵の手に掛かったのだ。それからどうなったのか──それは不明だが、少なくとも李斎は戴に戻りさえすれば、驍宗の足跡を追うことができる。  李斎は息を詰めて指を組んだ。諸国が泰麒を捜してくれるという。だが、もしもそれが巧くいかなかったとしても、李斎の打つ手が尽きたわけではない。  言い聞かせていると、大らかな声がした。 「李斎──桂桂《けいけい》は?」  振り返ると虎嘯《こしょう》だった。 「先ほど、景王が訪ねてこられて人払いなさったとき、厩《うまや》に行くと言っておられたが」 「おかしいな。来るときには厩《うまや》を覗いたんだが、姿が見えなかったんだがな。ちっとも一つ所に落ち着いていないな」  李斎《りさい》は微笑む。 「お元気でいらっしゃる」 「まあ、元気なのは確かだが」 「良い御子《おこ》だ」  まあな、と自身が褒《ほ》められたかのように、虎嘯《こしょう》は照れた笑いを浮かべた。 「あれでなかなか苦労人だが、変に拗《す》ねたところもないし」 「身寄りがおられないのでしたか」 「うん。もともと父母を亡くして里家にいたんだ。姉がいたが、死んでしまって」 「お可哀想に……」 「寂しいだろうが、それを胸の内に納めているから小さくても一人前だ」 「本当に御立派なことです。しかし、虎嘯? 本当に桂桂《けいけい》殿に厩の手伝いなどしていただいてもいいのでしょうか。桂桂殿には勉学やお役目があおりなのでは。それに、飛燕《ひえん》は穏やかな気性だけれど、あれも騎獣の一種だから、万が一ということも」 「なに、本人がやりたいと言ってるんだから」  言って虎嘯は苦笑する。 「殿はいらんよ。桂桂には。立場から言うと奄《げなん》だからな」 「仙籍には入っておられない?」 「まだ小さいからな。陽子は大きくなってから、自分で道を選んで欲しいと思っているようだな。……なんか、妙だな。あんたの口ぶりを聞いていると、桂桂が太子か何かのようだ」 「……そうか?」  李斎にはその自覚がなかったが、振り返ってみれば確かにそうかとも思う。 「そう言えばそうだな……なぜだろう」 「何だ、自分でも分かっていなかったのか」  李斎は頷く。その耳に、邸のどこかから流れてくる歌声が届いた。明るく澄んだ声だ。生き生きとした若い女の声──。 「あれは祥瓊《しょうけい》だろうか。女史《じょし》も女御《にょご》もこちらに頻繁に出入りなさっているようだな」 「ああ──うん。そうなんだ。出入りしていると言うか、ここに住んでいると言うか」  李斎は瞬いた。 「ひょっとして、どらちかは虎嘯の?」  とんでもない、と虎嘯は手を振った。 「預かっているだけだ。まあ、どらちも赤の他人で」 「……あのお二人も?」  李斎《りさい》が問うと、虎嘯《こしょう》は困ったように笑う。 「そうだな、変に思うだろうなあ。……俺はそもそも官吏とは縁のない無頼漢《ぶらいかん》って奴で」 「景王は、虎嘯が義賊を率いていたと言っていた」 「そんな大したもんじゃない。質《たち》の悪い役人がいて、それをやっつけるのに、ちょっとばかり勇気のある連中を集めてたってだけだ。普通だったら反を起こした時点でお尋ね者になるところなんだが、たまたまその勇気ある連中の中に陽子がいてな」 「……景王が? 義民の中に?」  これは内緒だ、と虎嘯は笑った。 「陽子は胎果《たいか》だ。こっちの生まれじゃないんだ──それは?」 「聞いたが……」 「うん。だから、こちらのことが分からないんだ。それで市井に出て、有名な義塾の学頭をしたことのある遠甫《えんほ》の許に身を寄せていた。つまり、勉強に行っていたんだな。それがたまたま、俺の起こした騒ぎの中に巻き込まれる格好になって」 「……そうか」  委細は分からないなりに李斎が頷くと、虎嘯は視線を落とす。 「陽子は登極して間がない。俺はあいつは、立派な王になる素質をもっていると思うが、そう思わない連中もまだ沢山いる。そもそも慶に女王が立ってろくな事があった例《ためし》がねえ。しかも胎果だ。分かって当たり前のことが分からない。だから、みんな不審の目で見る。とりあえず官吏の整理も進めちゃいるが、逆臣も多い。特に処分を逆恨《さかうら》みしている連中がいて、そいつらは陽子に何をするか分からない」  李斎は目を見開いた。王朝の始まりはそういうものだが、景王は喜んで迎えられるに足る王に見えた。 「ろくでもない結果になる前に、女王など潰《つぶ》してしまえ、という連中もいる。だから危険で路寝《ろしん》には素性の知れない官吏を置けないんだ」  言われてみれば、と李斎は納得した。かつていた花殿でも、ほとんど官吏の姿を見かけなかった。正寝だというのに、花殿の周《まわ》りは閑散としていた。李斎の面倒を見ていた女御も、鈴というあの娘だけ、祥瓊《しょうけい》と呼ばれる女史が時折出入りしていたが、李斎はそれ以外の下官の姿を見たことがなかった。 「……それは、私が警戒されているのだと思っていた」 「そういうわけじゃない。今はまだ路寝に人が少ないんだ。俺たちは、以前からいた下官を陽子の周りに置きたくない。よほど人柄のしっかりした信用できる者だけ──それを確認しながら、少しずつ人手を増やしている、というところだ」  李斎は唖然とし、それが普通なのかもしれない、と思い直した。景王の言う通り、戴は仮朝《かちょう》がしっかりしていた。そもそも驕王が朝をそこまで荒らさなかった。驍宗はその重臣の中から、周囲の人望を得て立った。その戴でもあのようなことが起こり得る。 「慶はまだ……大変なのだな……」 「もう少しの辛抱だ。俺はそう思っているがな」  李斎《りさい》は頷いた。未だ朝廷の落ち着かぬ慶、そこに李斎は転がり込んで、登極間もない朝廷を必死で治めようとしている彼女に、罪を唆《そそのか》そうとしたのだ。今更ながら自身の選択の重大さが身に沁《し》みた。恐ろしい過《あやま》ちを犯すところだった。踏み留《とど》まることができたのは、決して李斎自身の功績ではない。  たくさんの負担をかけている。そもそも慶は戴のために割《さ》く余力などないはずなのだ。なのに景の若い王は、国土を支えようとする手の中に李斎までもを引き受け、当然のことのような顔をして、できる限りのことをしてくれている。  ……これ以上を望んではならない。  泰麒を捜してくれるという。それだけで十分だ。たとえ泰麒が見つからなくても、慶に来たことは無駄ではなかった。  そんなわけで、と虎嘯《こしょう》はどこか照れたように言葉を続けている。 「陽子の周りには人が少ないんだ。生活の面倒は鈴の他に一人、もともと俺の仲間だった女が見ているだけだ。女史に至っては祥瓊《しょうけい》という、あの娘しかいない。小臣は俺の仲間だった奴、あとは禁軍の将軍が、絶対に信用できるという人間を厳選して置いてある。だもんだから、俺たちは宮殿に詰めっぱなしなんだ。官邸を貰っても、そこに帰る暇がない」 「それで、こんなところに?」 「そういうことだ。──俺には弟があって」 「実の弟御?」 「そうだ。今は瑛《えい》州の少学《しょうがく》にいる。少学の寮に入っているんだ」 「それは将来が楽しみだな」  まあな、と虎嘯は嬉しげに笑った。 「少学にやりたかったが、実際に行ってしまうと、何と言うか、寂しいもんなんだな。俺には弟以外、肉親がない。鈴とは親しいが、まさか男所帯に一緒というわけにもいくまい。そうしたら、陽子が遠甫《えんほ》と桂桂《けいけい》を預かってくれ、と言う」 「ああ、それで太師のところに」 「そういうこった。俺が預かるのはいいが、まさか大僕の官邸に太師を置くわけにも行かないだろ? しかも遠甫も始終陽子の傍にいるからな。陽子はこちらの政治の仕組みに疎《うと》いから、まだまだ勉強中というところだ。それで遠甫がここを賜《たまわ》って、世話をする俺もここに越してくることになったという──そういうところだな」  言って虎嘯は照れくさそうに笑う。 「そういう俺も、誰かに行儀作法を聞かないとどうにもならん。何しろ出自は場末の舎館《やどや》の親父だからな。桂桂にだって勉強をさせてやらなきゃな。もともとあいつは頭がいいんだ。だから遠甫の面倒を見るのは願ったり適《かな》ったりなんだが、今度は女手《おんなで》がないので、家が回らない。結局、鈴やら祥瓊まで引き受けて、ご覧のような有様になった」 「それは──賑《にぎ》やかだ」  まったくだ、と虎嘯は笑う。 「陽子は人を使うのが達者なんだと思うぜ。分かっていたんだと思う、自分の大僕が、でかい図体の割に寂しがりやだということがな。俺は周囲に人が溢《あふ》れていないと落ち着かないんだ。しかも宮中なんざ、想像の埒外《らちがい》だ。一人で官邸にいろと言われたら、何日も続かなかっただろう。大勢いるお陰で、何とか保《も》ってる」 「おまけに私までが転がり込んでしまった」 「陽子が、ここのほうが気が抜けていいんじゃないかと言ったんだが、煩《うるさ》かったら勘弁してくれ。ついでに、俺たちが不作法なのも気にしないでくれると嬉しいんだが」  とんでもない、と李斎は笑う。それほどまでに信を置いている者たちに預けてくれた、ということが嬉しかった。 「景王は……良い王におなりだろう」 「余所《よそ》の将軍様にそう言われると、嬉しいもんだな。うん……まあ、俺もそうなって欲しいと思ってるよ。巧く行かなかったら辞めちまえばいい俺たちと違って、王や麒麟には他の道がないからな」  確かに、と李斎は頷く。良い王になるか──そうであり続けるか、破滅するかだ。王にはそれ以外の道がない。 「泰王も立派な人だったんだろう? 禁軍の|桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》って奴が、そう言ってた。うちの左軍の将軍なんだが。登極する前からすごい人だって、軍人さんの間じゃ有名だったんだって?」 「そう……私もそう思っていた」 「無事に戻ってくるといいな。泰王も泰台輔も。……まずは台輔か」  李斎は頷く。せめて泰麒だけでも見つかって欲しい。でなければ、戴は救われない。  粛然としていると、軽い足音がした。見ると、桂桂がやってくるところだった。光の溢れる戸口から、花を抱いて駆け込んでくる笑顔。 「北の庭院《なかにわ》に芙蓉《ふよう》が咲いてたよ」  差し出された花のひと枝、李斎はそれと桂桂を見比べた。 「……桂桂殿はいくつにおなりだ?」  訊くと、くすぐったげに、十一になった、と言う。 「……そうか──そうか」  含羞《はにか》んだふうの桂桂の笑みが歪《ゆが》んだ。笑んだまま、水の中に閉ざされ、歪んでしまう。 「……李斎様?」  もう、その笑みが見えない。李斎は手を伸ばした。残された片手の中に置かれる手、小さく、暖かく、気遣《きづか》うように握りしめられる力。 「……貴方《あなた》は、お幸せでいらっしゃるか?」 「僕……? あの、ええ」 「そう……」  李斎、と呼ぶ屈託のない声、李斎を見つければ、まろぶようにして駆けてきて、笑顔を向けてくれた。そこに飛燕《ひえん》がいれば必ず、撫《な》でてもいいか、と──。 「台輔もちょうど、貴方くらいのお歳だった……」  どうぞ、泰麒が戻ってきますように──李斎はその日、初めて祈った。  期待が裏切られることは辛い。それが心の底からの望みであればあるだけ、得られなかったときの絶望は深い。祈ることは期待することだ。だから李斎には、この日までそれができなかった。  戴の民が黙々と祠廟に通うのさえ、李斎は黙って見詰めていた。彼らは吹雪《ふぶき》の最中にも、粛々と祠廟に足を運んでいた。阿選の耳を懼《おそ》れ、誰も何もいわない。無言で祠廟に向かい、そっと荊柏《けいはく》をひとつ、置いてくる。残してくれた恵みに感謝し、それを与えてくれた人の無事を祈願するために。  それしかできない戴の民を哀れに思いながら、李斎自身は祠廟に一度も足を運ばなかった。運ぶことが──できなかった。  泰麒を捜してくれる、と言われてからもそうだった。泰麒が見つかるかもしれないという期待よりも、見つからないかもしれない、そのことのほうを懼れていた。たとえ見つかっても、その先どうすればいいのか。泰麒の帰還がそのまま戴の救済を確約するものではない。泰麒が戻ってくることが、戴にどんな意味を持つのだろう、と。  ……だが、泰麒は光だ。  諸国を逃げる李斎が伝手《つて》を辿《たど》り、身を寄せていた山間の隠者《いんじゃ》は、諦めろ、と言った。 「主上はここにはおられません」  戴国|委《い》州、驍宗《ぎょうそう》が出た山間の里、呀嶺《がりょう》は灰燼《かいじん》に帰していた。驍宗の姿を求め、ひょっとしたら出身地に身を隠しているのではないかと委州に向かった李斎は、雲煙に包まれた呀嶺の痕跡だけを見た。 「それよりも、貴女には休息が必要ではありますまいか」 「休んでなど」 「王のいない国は荒れまする。それを知らぬ者はありません。ですが、王は亡くなられたわけではない。王の郊祀《まつり》がなければ、国が傾くのですか? それとも王の存在が国を保つのですか?」  李斎は首を振った。 「知らない……」 「すでに戴は王のいない時代へ動きだした。貴女はこれまでの長い間、王を捜して、ついに見つけられなかった。──もう宜しいのではないですか」  李斎は目を見開く。 「それは、王を見捨てろと言うことか?」  老人は首を振った。困苦に窶《やつ》れた貌《かお》には達観の色が濃かった。 「まず貴方様の幸福を考えるべきではなかろうかと思うのです。貴方様は、王が救うという民の中に自分が含まれることを分かっておられますか」 「私は……」 「戴の民の幸いを言うなら、貴方様御自身も幸福でなければなりませぬ。貴方様一人が全てを背負って苦しむのなら、民の全てが幸せではないことになる」  李斎は悄然と項垂れた。 「それでも、この国を救うことのできるのは、あの方だけなんだ……」  憐れむような溜息をついて老人が立ち去った後には、彼の孫娘である少女だけが残された。少女もまた憂《うれ》うような眼差しで、物言いたげに李斎を見ていた。 「お前も……王のために放浪するは愚かだと言うか?」  少女は首を振る。 「私にはよく分かりません。私は王を存じ上げません。政《まつりごと》のこともよく分からないのです。主上は雲の上のお方です。台輔だって、はるか高みのお方です。けれども煙が──」 「──え?」 「門前から見下ろすと、委州《いしゅう》が広がっています。そこに煙がたなびいているんです」  ああ、と李斎は頷いた。阿選は驍宗に縁あるもの、驍宗を支持するもの、自らを指弾する者の全てを許さない。意に添わねば一里を焼き払い、己に背くものの一切を根こそぎこの地上から追い払おうとしている。 「南の国では、一年中が春のようだというのは本当でしょうか。奏《そう》には雪が降らないとか。河が凍ることはないのだそうです。冬にも、温かな陽脚《ひざし》が降って、晴れ間がある……青い空が見えるとか」  李斎は頷いた。少なくとも李斎は黄海より南に行ったことはないが、黄海でさえその陽脚は鮮やかで、空は力強いほど近く濃かった。 「戴で最初の雪が降ってから、その雪が融《と》けてしまうまでに、どれくらいの晴れ間があるでしょう? きっと指を折って数えることができるほど。なのに煙が……」  李斎は少女の意を悟《さと》って、思わずその手を握った。 「ほんのたまの晴れ間を、あの煙が覆ってしまうんです。炎が雪を炙《あぶ》って、融《と》けて、瓦礫《がれき》と一緒に凍りつく。──私たち戴の民は、どれほど春が待ち遠しいでしょう。王宮は厚く低い雲に覆われた戴の、ただひとつの晴れ間のような気がします。その蒼天《そうてん》が曇っている。地上の煙が雪雲のように鴻基《こうき》を覆って、この国には晴れ間がない……」  少女は憂いをいっぱいに浮かべた目で李斎を見上げた。 「鴻基は一穴の蒼天にして、一点の春陽、長い冬の最中にも決して凍ることのない煕光《きこう》でございましょう」  凛《りん》と言った少女は、もうこの世のどこにもいない。祖父ともども、李斎を匿《かくま》った咎《とが》で阿選に討たれた。だが、このとき、そしてその後、先に待つ運命を承知で李斎を逃がしてくれたとき、少女の言った言葉を決して忘れてはならないのだ、と李斎は今更のように確認していた。  ──どうぞ、主上を──台輔をお救いください。       4  禁門の上で待て、と例によって唐突に青鳥《しらせ》が来たのは、陽子が氾《はん》王の訪問を受けてから二日後のことだった。雲海の上、禁門の門殿の前で待っていた陽子が迎えたのは雲海を越えてやってきた三人の客人、尚隆と六太、そして今一人、金の髪を持った娘だった。 「氾王が来ているんだって?」  |※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》から飛び降りるなり言った六太に、はい、と陽子は苦笑|混《ま》じりに拱手《きょうしゅ》する。 「道理でぱったり連絡がとれないはずだ」  言って六太は、白い騎獣から降り立った人物を見た。 「廉《れん》台輔だ」  陽子は慌《あわ》てて礼を取る。廉麟は十八ばかりの明朗な雰囲気を持った人物だった。 「廉麟《れんりん》、こっちが景王陽子──隣が景麒だ」  六太は言って、 「そんで? ──範の御仁と小姐《ねえちゃん》はどこだ?」 「多分、お部屋においでだと思うけど」  陽子はこれまた苦笑するしかなかった。堯天《ぎょうてん》に舎館《やど》を取っているから、と言う氾王、氾麟を引き留め、金波宮《きんぱきゅう》に滞在してくれるよう言ったのは陽子自身だが、客人としての氾王はなかなかの難物だった。最初は賓客をもてなすための掌客殿《しょうきゃくでん》に案内したが、趣味が悪いのでいたくない、と言う。結局、勝手に宮殿の園林《ていえん》にある淹久閣《えんきゅうかく》を選んで、しかもこの壺は見苦しいからどけろ、あの絵は見るに堪《た》えないから、あちらのあれに取り替えろ、などと言う。世話をするためにつけた掌客《しょうきゃく》の官は、悉《ことごと》く気に入らなかったらしく、気が利かないから変えてくれ、と主張し、困って祥瓊《しょうけい》をつけると、幸いにも祥瓊は気に入ったようなのだが、今度は傍から離さない。対する氾麟は、範の宝重だとかいう蠱蛻衫《こせいさん》を使って好き勝手に宮殿内を放浪している。突然、正寝にやってきて、どこの官吏が下官を虐《いじ》めていたのは良くないと思う、などと言って去っていく、世話を一手に引き受ける羽目《はめ》になった祥瓊《しょうけい》は、外見は飾っておきたいような美少女だが、その中身は延麒だ、と評していた。 「……なかなか大変だろ、あいつの相手は」  六太が小声で言うので、陽子もそっと問い返した。 「雁《えん》は範《はん》とは?」 「不本意ながら国交はあるかな。範は匠《たくみ》の国だからな」 「玉や金銀の細工では十二国一とか」 「それは認めないわけにはいかないだろうなあ。……範はもともと、何もない国でさ。何で立つにしろ中途半端な国なんだよ。それをあいつが工匠の国として立て直した」 「美術品や工芸品で?」 「細工するものなら、何でもやる。紙や布のような素材から、それを作るための機器や道具まで。特に道具だ。範の作る道具は精度が高い。物差しや秤《はかり》の錘《おもり》を取っても、そこらで作るものとは雲泥《うんでい》の差だ」 「へえ……」 「うちはでかいものを作るのは得意だが──街とか建物とか港とか──そのためには範の工匠の協力が必要なんだよな。だから付き合いは、まあ……深い部類なんだけどさ」  六太は溜息をつく。陽子にはなんとなく、その溜息の理由が知れるような気がした。 「何と言うか……その、いろいろな意味で、変わった御仁だな」 「だろ? 尚隆の天敵なんだ」  六太はちらりと後ろを振り返る。最後尾からは、来て以来、一言も口を利《き》こうとしない尚隆が憮然とした面持ちで蹤《つ》いてきていた。 「それは……分かるような気がする」  呟いたところで、園林《ていえん》の小径をやってくる祥瓊に出会った。祥瓊は足裏を石畳に叩きつけるような勢いで前のめりに歩いてくる。 「ああ、祥瓊──氾王は」  声を掛けると、祥瓊は殺気立った目で陽子を見た。 「臥室《しんしつ》にいらっしゃいます。言っておくけど、今行っても会えないわよ」 「会えない?」 「私が揃えて差し上げたお召し物と簪釵《かんざし》が合わないので、着替えをなさるのがお嫌だそうです。──見てらっしゃい。絶対に着せてやるから」 「……苦労してるな」  ふん、と祥瓊は腕組みをする。 「相手にとって不足はない、って感じよね。でも、私の見立てによれば、あれでいいはずなのよ。連珠《くびかざり》と耳墜《みみかざり》が合わないんだわ。陽子のものを勝手に漁《あさ》るわよ。意地でもいいって言わせてみせるわ」  腕まくりしそうな勢いで言ってから、祥瓊は陽子の背後、小径《こみち》を辿《たど》ってきた人影に気づいたようだった。小さく声を上げ、真っ赤になって道の脇に叩頭する。 「──失礼いたしました!」 「大変そうだなあ」  笑い含みに声を掛けたのは六太だった。 「あの御仁の相手は大変だろ。……中には氾麟《はんりん》もいるのか?」 「はい──ええ、おいでにおなりでございます」 「そっか。ちょいと相談事があるんで、範の御仁が急いで臥室《しんしつ》を出られるようにしてやってくれ」  畏《かしこ》まりまして、と祥瓊は深く頭を下げた。陽子らは、失笑気味にそれを通り過ぎ、奇岩に囲まれた二層の楼閣へと出た。何しろ当の氾王が祥瓊以外の下官を嫌うから、案内を請う者もいない。仕方なく声だけを掛けて中に入ると、堂室《へや》の榻《ながいす》に氾麟が寝そべっていた。──確かに、と陽子は苦笑混じりに思う。氾王の指示で家具を動かし、掛け物を弄《いじ》った堂室は驚くほど趣味の良い建物に生まれ変わっていた。その中に氾麟がしどけなく寝そべっていると、それだけで絵のように見える。 「あら──陽子に景麒」  書物から顔を上げた氾麟は身を起こし、そして勢いをつけて榻《ながいす》から飛び降りる。 「六太も。久しぶりね」 「おう」  飛び跳ねてやってきた氾麟は尚隆の顔をしたから覗き込む。 「尚隆も、お久しぶり。相変わらず田舎臭い格好なのね」 「喧《やかま》しい。それより、お前の飼い主を呼んでこい」 「それは無理ねえ。主上はまだ着替えがお済みでないんだもの」  尚隆は苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような貌《かお》で、 「着る物など、何でもいいだろうが。不満があるなら裸で出てこいと言ってやれ」 「とっても下品な尚隆らしい言い分よね」  言い放ってから、彼女は廉麟に目を留めた。まあ、と可愛らしく声を上げ、優雅に一礼をする。 「お客様とは存じ上げませんでした」 「ああ……廉台輔だ」 「お初にお目に掛かります。氾麟でございます」  にこりと笑って廉麟が挨拶を返す。氾麟は室内に集まった顔を見渡した。 「大変な顔ぶれだけど、ということは、泰麒の捜索が始まるのかしら?」  そういうことだ、と憮然と言って、尚隆は氾麟に坐るように促す。 「雁に来てくれと言ったのに、姿を現さず、消息不明になった連中がいてな」 「あら、それで来てくれたの? だったら良かったわ。私は慶のほうがいいもの。雁の下官は本当に気が利《き》かなくて、しかも喧《やかま》しくって」 「喧しいのはお前だ。とにかく雁と慶、範と漣の四国で蓬莱《ほうらい》を探すことになった。」 「──崑侖《こんろん》は?」 「奏と恭、才が探してくれる」 「大事業ねえ」  氾麟は呟いてから小首を傾げた。 「けれども、こんなことをして大丈夫なの? 前代未聞だと思うのだけど」  大丈夫だ、と答えたのは六太だった。 「俺たちが泰麒を捜すぶんには天の摂理に反しない」 「ふうん? 具体的にどうやって探すの? やっぱりどっと王師を送り込んで?」  まさか、と延麒は渋面を作る。 「それはできない。蓬山の玄君からも、くれぐれも蝕を起こすことは最低限にしてくれと言われているしな。それに、やっても意味がないんだ。泰麒は胎果だ。俺たち麒麟が麒麟の気配を目当てにして探すしかないんだ」  氾麟はぽかんと口を開けた。 「……それ、本気で言ってるの? 蓬莱って広いんでしょ?」 「こちらの一国ほどの広さはないさ。蓬莱そのものの広さを言うならな」 「それだってたいへんな広さがあるんじゃないの? それを探すの? 私を含めてたった四人で? ──それ、今まで六太が言った中でも、最低の戯言《たわごと》だわ」 「難しいことだってことは分かってるさ。そうでなきゃ、そもそも他国に協力を頼んだりしない」 「でも」 「俺はかつて、泰麒を見つけたことがある。それがどこだか、具体的な場所は覚えちゃいないが、大凡《おおよそ》の場所は覚えてる。泰麒がそこに戻ったという保証はないけど、そこから探し始めるしかないだろうな」 「本当に、たったそれだけの手がかりで探し出せると思ってるの? ──呆れた」 「では、見捨てるか?」  六太は氾麟をねめつける。 「他に方法があればそれを採ってる。他にやりようがないんだ。勿論、こんなことじゃ何年かかるか分からない。しかし、戴を何とかしようと思うなら、やるしかないんだ!」  堂室《へや》に沈黙が降りた。やがて、口を開いたのは廉麟だった。 「……使令《しれい》は使えないでしょうか」 「使令?」 「ええ。だって使令は麒麟の気配を知っているでしょう? どんなに遠くにいても、私の気配を感じ取って戻ってきます。ということは、使令なら他の麒麟の気配も見えるのではないかしら。ひょっとしたら、当の私たちよりも」  そうか、と延麒は呟き、そして、どうだ、とどこへも知れず問うた。是、という声がどこからともなく聞こえた。延麒の使令が答えた声だ。 「じゃあ、これはどうだ。妖魔なら?」  返答はない。 「お前たちは同族を召集できるだろう。無論、有害な妖魔を呼び集めるわけにはいかないかもしれないが、さほどに害のない小物なら──どうだ?」  少しの沈黙の後、是、という声があった。 「いいぞ──これで、だいぶ頭数を増やせる」  だったら、と氾麟は声を上げ、ぱちんと手を合わせた。 「範に鴻溶鏡《こうようきょう》があるわ」 「──鴻溶鏡?」 「ええ。鴻溶鏡は映った者を裂《さ》くことができるの。遁甲《とんこう》できる生き物にしか使えないけど、使令や妖魔ならこれで裂いて数を増やせるわ──理屈の上では無限に。裂かれた分だけ能力も薄まっちゃうけど、人捜しに使うのだったら、さほどの能力は必要ないでしょう?」  では、と廉麟が声を挟む。 「漣には呉剛環蛇《ごごうかんだ》があります。これは蝕を起こさずに、こちらとあちらに穴を通すことができます。人は通れませんし、一度に大勢を通すことはできませんが、これを使えば蝕を起こすことは最低限で済みます。──そう、以前にも泰麒のために使いました。延台輔が見つけ出してこられた泰麒をこれで蓬山に運んだんです」  よし、と六太が嬉しそうに頷いたとき、冷静な声が割って入った。 「問題は、泰麒がなぜ戻ってこないのか、ではないかえ?」  振り返ると、臥室《しんしつ》の戸口に白い羅衫《うすもの》も眩《まぶ》しく、氾王が立っている。背後にちらりと、満足そうな顔をした祥瓊が見えた。 「やっとお出ましか? ……なぜ戻ってこないのか、ってのは何だよ」 「おや? 延麒なら不本意ながら蓬莱に流されて、そのまま居着いてしまうかえ」  それは、と六太は口籠《くちご》もった。 「延麒ならそれを幸い、猿山の猿王から逃げ出すだろうが、泰麒はそういう御子《おこ》には見えなかった。何としても戻ろうとするであろ。それが六年、戻ってきていない。戻れぬ事情があると考えるべきだろうね」 「そんなことは分かってら。だが、その事情の知りようがないだろうが。とにかく泰麒を捜してみないことには。それともあんたなら、事情の想像がつくのか」  さて、と氾王は在《あ》らぬほうをを見る。 「あるとしたら、もう麒ではない、ということだろうね」 「もう麒でない?」 「麒麟が王の側に侍《はべ》るのは、麒麟の本性のようなものだよ。民を哀れむのも麒麟の本能、ならば麒麟である限り、泰麒は泰王の許に戻ろうとするだろうし、民のために戴へ戻ろうとするだろう。そのための能力は具《そな》わっている。──それができないのだから、もはや麒ではない、と考えるしかなかろうね」 「どうやって麒麟が、麒麟でないものになるんだ」  分かるはずがない、と氾王はにべもなかった。 「じゃが、泰麒は胎果であろ」 「そうだが……だから?」 「さあ。巧くは言えぬ。氾麟が麟でなくなるのは、身罷《みまか》ったときだけかもしれない。だが胎果の麒麟があちらにいる場合はどうだろう。……単にそう思っただけだよ」       5  李斎が、泰麒の捜索が始まった、と陽子から知らされたのは、夏の盛りの頃だった。倦怠感を伴った暑気は王宮の上にまで忍び寄り、寝苦しい夜は朗報を待ち続ける焦燥感を掻き立て、李斎から安眠を奪った。  じきに見つかるから心配するな、と当初は元気だった六太の表情が曇るまでには、いくらもかからなかった。かつて六太が泰麒を見つけた蓬莱の一地方、そこに泰麒の気配は見あたらない、と言う。さらに捜索の手は伸ばされたが、やはり朗報はない。  眠れないまま、李斎は起きあがって掌客殿へと向かった。掌客殿の周囲に広がる西園《さいえん》、そこにある清香《せいこう》殿が客人たちの宿舎で、それに続く書房の蘭雪《らんせつ》堂という建物が、泰麒を捜索する人々の議場となっていた。李斎は日に何度も、そこに足を運ばずにはいられなかったし、足を運んだ結果、落胆することになっても、それでとりあえず堪え難い乾きのようなものは治めることができた。この夜も、水を欲するように彷徨《さまよ》い出て、蘭雪堂へと向かう。その堂室では、ぐったりしたように六太が椅子に坐り込んでいた。 「……延台輔」  よう、と六太は笑ったが、その顔にはいかにも力がなかった。 「見つかりませぬか?」  ああ、と六太の声は低い。立ち尽くすしかない李斎の落胆に気づいたように、六太は明るい声を出した。 「ま、こんなもんだろう。まだまだこれからってとこさ」  はい、としか李斎には答えられない。李斎には何一つ、手助けができない。国に並びないやんごとない人々が、自らの身体を使って労を割いているのに、李斎はそれを見守ることしかできないのだ。それで遅滞を責めるのは、あまりに僭越《せんえつ》に過ぎよう。 「お茶でも飲んでいかないか? ……って、俺が欲しいだけなんだけどさ」  李斎は微笑み、供案《たな》の上の小さな火炉《ひばち》に火を入れた。水瓶から鉄瓶に水を汲み、火炉にかける。 「……蓬莱《ほうらい》にはいないかもな」  李斎は手を止めた。 「では……崑侖《こんろん》に」 「分からない。ただ、範の御仁の言う通りだ。問題は、泰麒がなぜ自ら戻ってこないのか、そのほうにあるんだと思う」 「お戻りになれない事情があるのでは」 「事情というのは簡単だが、実際にはどういうことだと思う?」 「私には分かりかねますが……」 「泰麒は鳴蝕《めいしょく》を起こした。景麒が再三、強調するんだが、泰麒が鳴蝕の起こし方を知っていたはずがない。起こしたとすれば、突発的な何かがあって、ほとんど本能的にやってしまったんだろうというし、それは俺も同感だ。泰麒は、あちらに渡った──というより、こちらから転がり落ちてしまったんだと思う。そうやって転がり落ちた先は、本当にあちらだったんだろうか?」 「それは……どういう」 「呉剛の門の入り口と出口の間には、何もない道がある。禁門や五門のようなものだと思えばいい。門があって、その向こうがあちら、手前がこちら、そういうものではなく、入り口と出口の間に隧道《すいどう》がある」  ああ、と李斎は頷いた。呪を施した通り道がある。多くはそこに階段があるのだが。 「泰麒がこちらにいない以上、門の中に入ったのは確実なんだろうが、泰麒は本当に向こう側に出ることができたんだろうか」  それは──と、李斎は六太に向き直った。 「間に囚われてしまった、ということですか」 「分からないけどな。泰麒はあちらに抜けられなかったのかもしれない。廉麟の呉剛環蛇《ごごうかんだ》を使ってあちらに通してもらうんだけどさ、降り抜けている間は廉麟の手を握っていなきゃならない。手と言うより、呉剛環蛇《ごごうかんだ》の尾かな。二つある尾の片方を、廉麟の手を介して握《にぎ》っていなきゃいけないんだ。そうしないと、迷う、と言う。中に入ったまま、先に出ることも戻ってくることもできなくなることがある、と」 「泰麒もそのように、迷った、と」 「分からないんだけどな。鳴蝕と呉剛環蛇を同じように考えるわけにはいかないのかもしれないし。……ただ、泰麒は向こうに抜けていないんじゃないか、と思いたくなる。それほど見事に気配がない。泰麒は胎果として流され、向こうで生まれてごく普通の子供として育った。あちらでの親がいて、家があった。俺がかつて泰麒を見つけたのはその生家だったと思われるんだ。それがどこだったのか、申し訳ないことに俺は覚えていない。だが、だいたいの位置は覚えてる。蓬莱国はそれなりに広いが、どの街の近辺だったかぐらいは覚えてる。蝕を起こして本能的に逃げ込んだのなら、郷里へ行ったのかもしれない。だが、郷里にはまるで泰麒のいる痕跡がなかった」 「では郷里ではなかったのかもしれません。どこか──別の場所に」 「そう思って国土を軒並みに探した。郷里を中心に、二方に分かれて北上、南下してみたんだが、やはりどこにも痕跡が見えない。……いや、ざっと探しただけなんだけどさ」  最後は、李斎を慰める調子だった。 「今度はもっと丁寧にやる。そのへんの人間を捕まえて、六年前に何か異変がなかったか聞いてみるのも已《や》むなしだと思ってる。……そのぶん時間はかかるだろうが」 「はい」 「そうやっている間に、崑侖《こんろん》で見つかってくれればいいんだけどな。……いずれにしても、いつまでも氾麟、廉麟を留め置くわけにはいかない。景麒はなおさらだ。慶はまだ未熟だから。どこかで諦めて、気長に探すしかない、という話になるかもしれない。その場合は、李斎には申し訳ないんだが」 「いいえ……仕方のないことですから」  李斎は努《つと》めて冷静に言った。これ以上を求めるわけにはいかないのだ、と自分に言い聞かせる。少なくとも、李斎は隻腕《せきわん》になったものの健康を取り戻してはいる。驍宗《ぎょうそう》に変事が起こったのが、琳宇《りんう》郊外の函養山《かんようざん》だということも分かった。泰麒捜索に何某《なにがし》かの決着がつけば、戴に戻って驍宗を捜すことができる。慶に来たのは無駄ではなかった。確かに李斎らはまだ驍宗と繋がっている。 「……その場合にも、戴を見捨てようという話じゃない。戴からの荒民《なんみん》、あるいは戴に残った民のためにできるだけのことをすると約束するから」 「勿体《もったい》のうござます」  李斎が呟くように零《こぼ》した時だった。さっと暗い堂室《へや》に光が射した。振り返ると、蘭雪堂《らんせつどう》の奥にある戸口から微かに光が漏《も》れている。李斎は立ち上がった。蘭雪堂の奥にある戸口を抜けると、ごく短い曲廊《ろうか》へと続いている。それはひとつ折れ曲がって、その先には孤琴斎《こきんさい》と呼ばれる小さな建物があった。その孤琴斎の中に光が射している。それは天窓から月の光でも射し入ったように見えたが、孤琴斎に天窓など存在せず、しかもこの夜は月がなかった。床が丸く白い光に照らされているのに、光源がない。それもそのはず、床上からではなく、下から照らされているのだ。  呉剛環蛇《ごごうかんだ》だ、と李斎は孤琴斎に踏み込んだ。するりと慶を大きくした光の環から人影が滑り出た。最初に一人、続いてもう一人。二人目が抜け出すと同時に、光は遠ざかるように縮まり、消えていく。 「あら、李斎」  氾麟が声を上げ、そして曲廊から堂室《へや》へと駆け込んだ。 「六太、変なの!」 「変?」  問い返した六太が、大儀そうに背凭《せもた》れから身を起こすと、氾麟が頷く。 「使令が行けないというの。すっかり震え上がって、嫌だって」 「──は?」 「だから、近寄れないし、近寄っちゃならないって言うんだってば!」 「お前じゃ何を言いたいんだか、さっぱり分からん。……廉麟、どうしたんだ?」  それが、と部屋に入ってきた廉麟も不安げな顔をしていた。 「私にもよく分かりません。使令が嫌がるのです。不吉があると言って」 「不吉……?」 「ええ。延麒がおっしゃっていた、泰麒の郷里です。もう一度言ってみようと氾麟と戻ってみたのですけど、あちらに行くのは嫌だと使令が言うのです。不吉と穢《けが》れがあるのだそうです。途方もなく大きな兇があるから、近づいてはならないと」 「何だ、それは? ……だってあそこは前にも行ったじゃないか」 「ええ、そうです。使令が言うには、前にも僅かながらあった、と。……そうなのね、什鈷《じゅうこ》? 説明して差し上げて」  はあ、と惚《とぼ》けた声がして、廉麟の裾《すそ》から白い獣が姿を現した。小型の犬によく似ているが犬にしては尾がない。その獣はその碧《あお》く丸い一つ眼を細める。老人の眉のような、瞳にかかって垂れた毛並みで、困ったような表情を作って見せた。 「ですから、あそこには災いがございます」 「どんな」 「分かろうはずもございません。良くないものです」 「それじゃあ、分からん。──それは以前にもあったんだな?」  はあ、と什鈷は身を縮める。 「思い出してみれば、ということですが。前にもちらりと妙な気がしたのですが、さほどでもない、気に留めるまでもあるまい、という気がしまして。それきり忘れておったのですが、今夜行ってみると、それが途方もなく大きくなっておりました。あれは良くないものです。儂《わし》はあれに近づくのは御免でございます。台輔を近寄らせるなどとんでもない」 「良くないもの、なのか? それは予感がするということか?」 「そうではございません。大きな穢《けが》れで、災いです。兇があるのです。小物のように思えましたが、あれは小物どころではない。近づいてはなりません」 「小物──?」  怪訝《けげん》そうにした六太を、李斎は制した。 「お待ちを。差し出口をお許しください。──それはたとえば、強大な妖魔がいるという、そういうことでしょうか?」  李斎《りさい》が言うと、什鈷《じゅうこ》は飛び上がる。 「そう、そうでございます。それも尋常のものではありませぬ。我らとて、あれの傍に近寄るのは嫌でございます。そこへ台輔をお連れするなど──」  李斎は声を上げた。同時に六太が呟く。 「……傲濫《ごうらん》だ」 「はい?」  李斎は什鈷に駆け寄り、床に膝をついて身を屈《かが》める。 「それはどこです? 泰麒の使令です、きっと間違いありません」 「ですが、あれは使令になるような生易《なまやさ》しい代物の気配ではございませぬ」 「泰麒には饕餮《とうてつ》がおられる。饕餮です、違いますか」  什鈷は耳を立て、毛並みを逆立てた。 「饕餮。そんな」  李斎は残された片手で廉麟の衣に縋《すが》った。 「きっと泰麒です、廉台輔!」  平衡を崩した李斎の身体を、柔らかな手が抱き留める。 「……分かりました。安心なさいまし。必ず泰麒をお連れいたします」 「なりません!」  什鈷が毛を逆立てたまま飛び跳ねる。 「あれは使令ではございりません。あれは妖気でございます」 「臆することは許しませんよ、什鈷。本当に妖魔だとして、それほどの妖魔がかの国にいる理由がありましょうか。泰麒なのかもしれません。少なくとも泰麒ではないと、確かめなければ。お前たちが嫌だというなら、私一人でも参ります」  そんな、と呟き、什鈷は項垂《うなだ》れた。  廉麟、と声を残し、六太は曲廊《ろうか》へ向かう。 「渡してくれ。行ってみる。──小姐《ねえちゃん》はどうする」  氾麟は左右を見渡した。 「私は……行くわ。行きますとも。……でも」  怯《おび》えたように薄い衣を抱きしめる手から、廉麟がそれを取り上げた。 「これは、私にも使えますか?」 「……ええ」 「では、お借りします。氾台輔は、これを他の方々に報《しら》せてください」 「……はい!」  報せを受け、陽子と景麒が孤琴斎《こきんさい》に駆け込んだとき、ちょうど二つの人影が幽光《ひかり》の中から出てくるところだった。 「──延麒、見つかったって?」 「分からない」  答えた六太は、しかしながら連日の倦《う》んだ様子を残してはいなかった。勢い込んで堂室《へや》に戻る六太を追うと、中には雁と範の王が揃っている。 「泰麒は」  これは延王、氾王の双方から、 「分からない。見えない」 「見えない? どういうことだ」 「あれは傲濫《ごうらん》だと思う。泰麒の使令だ。だが、確かにあれではもう使令とは呼べない。使令が震え上がるのも分かる。あれでは妖魔そのものだ。しかも、恐ろしく強大な」  遅れて堂室《へや》に入ってきた廉麟の顔も蒼褪《あおざ》めていた。 「とても大きな穢《けが》れで、大きな兇です。近づけば、私たちにも分かります。場所は分かりました。大きな街ですけれど、あそこに傲濫はいます。でも、麒麟の気配は見えないのです」 「無茶を承知で近づいてみたが、全く何の残滓《ざんし》も見えない。……範の御仁が正しいと思う」 「私が?」  六太はそそけだった顔色のまま頷く。 「麒麟はいない。泰麒はあそこにいると思う。だが、泰麒はもう麒とは呼べない」 「どういうことだ?」  陽子は問うて、六太と廉麟を見比べた。 「分からない。だが、傲濫がいる以上、必ず泰麒はあの街にいるはずだ。少なくとも傲濫が妖魔に戻ってしまったようには見えない。まだ使令として泰麒の支配下にあることは確かだが、麒麟のいる気配は欠片もない。戻りたくても戻れなかったはずだ──泰麒は麒としての本性を喪失しているんだと思う。そうでなければ、あそこまで気配の絶える道理がない」 「そういうことがあるものなのか?」 「知るもんか。あるとしか考えようがないだろう。とにかく虱潰《しらみつぶ》しに探すしかない。探して連れ戻す。方法は選んでいられない。傲濫は……あれは、あちらにとっても危険だ」       6  夏は秋へ向かって滑《すべ》り落ちようとしていた。だが、蘭雪堂《らんせつどう》の中は、依然として重苦しい倦怠感に支配されていた。いくら探しても泰麒《たいき》の所在が分からない。傲濫《ごうらん》の気配だけは顕著だったが、それは麒麟が残す明らかな光跡《こうせき》に比べ、あまりにも曖昧《あいまい》で掴《つか》み所がなかった。六太が持ちこんだ地図は無為に塗《ぬ》り潰《つぶ》されていく。 「傲濫の居場所さえ分かれば、そこに泰麒がいるということではないのか?」  尚隆《しょうりゅう》は訊いたが、これに対する麒麟たちの返答は否、だった。 「そんな簡単なことだったら、とっくに見つけてるわよ、お莫迦《ばか》さん」  肩を窄《すぼ》め、氾麟《はんりん》は呟く。 「……いることは分かるわ。とても嫌な感じがするから。そちらのほうに近づこうとするとさらに嫌な感じが増すから、そちらのほうがより近いんだってことは分かるんだけど」 「では、より近いと感じるほうへ向かっていけばいいだけのことだろうが」  あのね、と氾麟は尚隆を見上げる。 「傲濫が柱のように動かなければ、それで確かに探し出せるでしょうよ。嫌がる使令や、不本意ながら逃げよう逃げようとする自分の本能が余計な雑音を入れなければ、さらに簡単。でも、傲濫は動いているの。しかも力が増したり減ったりするの。多分、傲濫が起きているときと眠っているときとでは、気配の強さが違うんだと思うわ。だから、一生懸命、威圧感の強いほうを捜していても、見失っちゃうの。見失ったのは遠ざかったせいなのか、傲濫が眠ったせいなのか分かんないの!」  氾麟は我知らず、足を踏みならした。蓄積した疲労が、氾麟を苛立たせている。 「俺に当たるな」 「尚隆なんかに当たったら、私のほうが壊れちゃうわよ!」  氾麟は声高く言って、小走りに蘭雪堂を出て行った。呆れて見送る尚隆の顔に、ぺしと扇子《せんす》が投げつけられる。 「そこん山猿。うちの嬌娘《ひめ》を虐《いじ》めるでない」  尚隆は氾王の放った扇子を忌々《いまいま》しげに拾った。 「貴様《きさま》な……」 「台輔《たいほ》たちは最善を尽くしている。最善を尽くしているのにままならぬ──一番それが腹立たしいのは誰だえ? ただ見守っているだけの私やお前が、つべこべ口を挟むようなことではないよ」  氾王に言われ、尚隆は押し黙った。 「特に梨雪《りせつ》は、傲濫《ごうらん》とやらの気配に怯《おび》えているんだよ。其許《そこもと》の小猿と違って繊細にできているからねえ」 「単に臆病なだけだろう。傲濫は別に泰麒《たいき》から解き放たれたわけではあるまい」 「獣は危険に敏感なものだよ。獣としての本性が、危険を拒むのだから仕方あるまい。胎果《たいか》の麒麟と違って、獣としての性がそれだけ強い。本人にもどうにもならないのだから責めるでない」  言って氾王は、廉麟《れんりん》と景麒《けいき》を見る。 「お二人も、無理はなさらぬよう。今日はもう休まれてはいかがか。こうも連日では身体が持たぬであろ。特に景台輔は御公務の合間を縫《ぬ》ってのことゆえ」  そうですね、と廉麟が溜息を落とした。意向を伺うように見つめられ、景麒もまた頷く。どこか後ろ髪を引かれる様子で蘭雪堂《らんせつどう》を退出していった。 「確かに……かなり疲れているようだな」  景麒を見送って尚隆は呟く。氾王は同意した。 「呉剛環蛇《ごごうかんだ》を使ってとはいえ、消耗するようだからね。……どれ、私は嬌娘《ひめ》を慰《なぐさ》めて寝かしつけてこよう」  裳裾《もすそ》が立てる衣擦《きぬず》れを残し、氾王が堂を出て行くと、後には尚隆と廉麟が残された。立ち去る素振《そぶ》りのない廉麟を見やり、尚隆は首を傾げる。 「寝ないのか?」 「……はい。休む前にもう一度だけ潜《くぐ》ってみます。どうぞ延王はお気遣いなく」 「忌々しいが、範のあれの言うことが正しい。何より廉台輔の負担が最も大きい。このままでは身体が保たぬ。休んだほうが良かろう」  呉剛環蛇《ごごうかんだ》を使う限り、その出入りには廉麟が必ず立ち会わねばならない。同行する麒麟たちは交代でできるが、肝心の廉麟は休む間がない。 「私はさほどでもありませんから」 「嘘は言わぬことだ」  廉麟は薄く微笑む。 「……本当のところは、異国に流されておしまいになった泰麒のことを考えると、眠ることができないのです。いったい何が起こったのか、今頃どうしておられるのかと、そればかりが気になって……。頭では、もう大きくおなりだろうと思うのですが、どうしても、あんなにお小さくて稚《いとけな》くていらしたのに、と思えて」 「廉台輔は泰麒にあったことがおありか」 「はい。二度だけ──それも一度は、泰麒が蓬山に戻ったときのことで、汕子《さんし》に呉剛環蛇を提供しただけなのですけど。もう一度は、戴に異変のあった直前です。わざわざ蓬山でのことの、お礼を言いに漣までいらしてくださったんです」  あのときの様子が忘れられない。その直後に不幸があったのだと思うと、真摯《しんし》に別れを惜しんでくれたことまでが切なかった。漣からはあまりに遠い国のこと、二度と会うことはないのかもしれないとは思ったが、こんな形の別離を想像したわけではなかった。 「主上も、とても心配なさっていました。特に、泰麒が泰王と別れることは不幸なことだ、とおっしゃって」 「──不幸なこと?」 「泰麒はとても泰王を慕《した》っておられる様子でしたから。泰王のお役に立って、王に喜んでもらえることが、泰麒が心から望むことだったんです。主上は、私がいなければ王宮に自分の居場所がないように、泰麒も泰王に喜んでもらえなければ居場所を見つけられないのだろうと言ってらっしゃいました。私もそうなのだろうと思います。……いいえ、たとえそうでなくても、麒麟が主と離れることは、とても不幸なことです」 「そんなものかな……」 「私たちは、王がお側にいなければ生きていられないのですもの」  王との別離は身体を裂かれることだ。麒麟は国のためにあり、民のために存在すると言うが、実状はそうではない──と、廉麟は思う。 「国のため、民のためにあるのは、むしろ王です。私たちはその王のためにあります」  廉麟は顔を覆《おお》う。 「王のものなんだもの……」  温かい手が、項垂《うなだ》れた廉麟の肩を叩く。 「手伝えることはあるか?」  廉麟は顔を上げる。 「図面を……地図を見ていていただけますか?」 「承知した」  廉麟は微笑んで孤琴斎《こきんさい》へと戻り、そしてこの日何度目か、銀の蛇の尾が作る幽光《あかり》の中へ潜《くぐ》った。潜って出た先は、緑も山もない石ばかりの荒涼とした街だった。海はあっても岸辺は堰《せ》き止められ覆い隠され、まるでその存在を疎《うと》まれているように見える。  街自体が巨大な空洞のよう、こんな所に──と感じてしまうのは、廉麟がこちらの住人ではないからだろうか。痛ましい気分で、先ほどまでの捜索の続きにかかる。頼りになるのは傲濫《ごうらん》の気配──それを忌避しようとする自分の中の怯懦《きょうだ》だけだった。  無人の夜道を見渡し、より進みたくないほうを選ぶ。傲濫は多分、目覚めている。先ほど、気配を見失い、捜索を諦《あきら》めた時よりも気配が強くなっていた。分かりやすいが、そのぶん身体が怖じける。無意識のうちに、そちらへ行くのを避けようとする。それを強いて抑え、あえて恐怖と嫌悪を誘うほうへと向かい、そして堪えかねて廉麟は膝《ひざ》をついた。 「台輔……廉麟様」  おろおろと什鈷《じゅうこ》が飛び出してきた。大丈夫、と微笑《ほほえ》み、起きあがろうと地についた手、そこに廉麟は、やっとそれを見つけた。蜘蛛《くも》の糸のように細い金の燐光《りんこう》。それは弱く、しかも細く、今にも溶け消えてしまいそうだった。だが、その輝きの儚さで分かる。これは、泰麒だ。まるで病んででもいるかのような暗い光。廉麟たちが残した軌跡の残滓《ざんし》では絶対にあり得ない。  廉麟は顔を上げたが、高い建物の間に敷き延べられた道には、これより他に何の光も見えなかった。まるで足跡のように──あるいは血痕《けっこん》のようにぽつんと残された光跡。 「……何があったのですか?」  漣で会った泰麒の姿と、今ここに残る淡い光跡と。それはあまりに遠く隔たっている。 「……でも、間違いなくここにおいでなのですね」  その光はあまりに淡く、いつ残されたものとも分からない。光跡が途切れてしまい、行き先を辿《たど》ることもできない以上、この街のどこかにいるのだと、すでに分かっていたことを確認したに過ぎなかった。だが、やっと見つけたそれは、廉麟の苦行を報《むく》いるに足りた。 「必ず、見つけて差し上げます。……待っていてくださいましね」  そっと触れた指の先、それは廉麟自身の気配に負けたように溶け消えていった。 [#改ページ]       ※  闇は錆《さ》び付いていく。赤褐色の乾いた血の色に染まった闇は、汕子《さんし》の身体にも錆《さび》色の濁《にご》りをまとわりつかせていく。  同時に汕子は、焦《あせ》りを強くしていった。  ──私の泰麒《たいき》が。  まるで毒のように何かを盛られている。蓄積したそれはどこかの時点から、泰麒の命脈をも蝕《むしば》み始めた。日々それは細くなる。このままでは死んでしまう。──失われてしまう。  殺してやろうか、と歯噛《はが》みする音が錆色の闇のどこからか聞こえた。 「やめて。とりあえず世話をする者が泰麒には必要なのだから」 「虜囚《りょしゅう》だ」 「虜囚である間は殺されはしない……」 「だが、毒を盛られている」  分かっている、と汕子は爪で胸元を裂く。色素のない肌に掻《か》ききられた数条の傷、赤いものが滴《したた》って流れ落ちていく。  ──死んでしまう。殺されてしまう。  焦《あせ》りは、それでなくても病んだ汕子の意識をさらに狭隘《きょうあい》にする。今や汕子には、こちらの世界に住む人間の全てが、敵に見えていた。看守の住む牢獄、牢獄を取り巻き、泰麒を監視し、事あるごとに危害を加えようとする彼ら。  ひとつ報復を行うごとに、闇は錆《さ》びつき汚濁を深くしていく。それは泰麒の命脈を損《そこ》ない、汕子をも汚染していく。もはや汕子には虚海のこちらとあちらの事情さえ判然としない。  分かっているのは、敵がいる、ということだけだった。驍宗《ぎょうそう》を弑《しい》そうとし、玉座を奪おうとする誰か。その誰かは今や、泰麒の命までも取ろうとしている。  ──それだけは、絶対に許さない。  振り返ってみれば、すべてはこちらとあちらの段差に躓《つまず》いた汕子のささやかな誤解から生じた。汕子は、泰麒をとりまく世界が根底から変化したことを、ついに理解できなかった。泰麒を庇護せんがための報復は、新たな迫害を生み、やがてそれは新たな敵意と憎悪を呼び寄せることになった。迫害は激化した。同時に汕子らの報復もまた激化していった。苛烈を極める報復が、さらなる迫害を招き、次第にそれは加速度的に拡大していった。  もはや泰麒は世界に敵するものであり、憎悪される対象だったが、汕子はそれをも理解できなかった。報復によって流された血の穢《けが》れ、押し寄せる怨詛《えんそ》は泰麒の影をさらにどす黒く染めていった。それは汕子の──なにより傲濫《ごうらん》の、妖としての本性を開放する。力だけが増大し、それと反比例するように彼らの理性は侵蝕されていった。  破綻《はたん》はもう目前にあった。 [#改ページ] 六 章       1 「──見つけました」  蘭雪堂《らんせつどう》に駆け込んできた廉麟《れんりん》は声を上げた。景麒《けいき》と六太《ろくた》は席を立つ。眠そうに主の膝に凭《もた》れ掛かっていた氾麟《はんりん》もまた顔を上げた。 「泰麒《たいき》の気配です。それも最近、残されたばかりの」 「どこだ」  大股に歩み寄った六太を伴い、廉麟は孤琴斎《こきんさい》に取って返す。その後を景麒が追い、氾麟は弾《はじ》かれたように清香殿《せいこうでん》へと駆け出していった。  短く屈曲した曲廊《ろうか》の向こう、孤琴斎の框窓《いりぐち》から淡く幽光《ひかり》が漏《も》れている。廉麟の腕に巻きついた銀の蛇の片尾は、まだそこで丸い光明を点していた。廉麟に手を取られ景麒が潜り抜けた明かりの先には、暗く無機的な空洞が広がっていた。  完全に方形の匣《はこ》のような建物、空洞としか呼びようのない殺伐《さつばつ》とした室内には、やはり何の興趣も感じられない殺伐とした机が何十と並んでいる。廃墟にも似た荒廃が漂う牢獄のような堂室《へや》、──その光景に、景麒は見覚えがあった。 「これは……学舎ですか?」  かつて景麒が蓬莱に主を迎えたとき、同様の堂室を見た。 「教室だな」  言ったのは六太で、景麒はいつものように、少しばかり居心地の悪さを感じた。金の光輝は麒麟のそれに間違いないが、そこに立っている子供は、どう見ても延麒に似てはいない。 「泰麒の学校かな」  呟きながら周囲を見回す六太に続き、廉麟が姿を現して、教室の隅に点《とも》った幽光《あかり》が消えた。 「……延台輔、景台輔、あそこに」  廉麟は小走りに机の間へと向かって床の一点を指す。 「これです。使令《しれい》が見つけてくれたのですけど」  廉麟が振り返った相手は、今にも霞んで消えそうに見えた。朧に揺らめき、時として人の輪郭を失い、獣の姿を露呈する。  その影に向かって廉麟が示した先には、深い紺に見える床の上、細い光の線が今にも消えそうなほど弱く、途切れ途切れに続いていた。 「これは麒麟の気配ですね?」 「だと思います。……しかし」  そう答えた景麒の声は、陰に籠《こ》もって聞き取り難《にく》かった。 「あちらに続いています」  廉麟は小さく身震いすることで、その堂室《へや》──教室の壁をすり抜ける。暗く空虚な廊下には、いくつかの影が幽鬼のように彷徨《さまよ》っていた。使令たちが蠢《うごめ》く床の上には、細く鱗粉《りんぷん》を落としたように光の軌跡が残っている。 「あの先で途切れてしまうのですけど、これは泰麒です。しかも数日以内に残されたものだと思うんです」  景麒は眉を顰《ひそ》め、深く頷いた。 「間違いないでしょう……しかし……」  言いよどんだ景麒の先を、淡々と六太が引き継ぐ。 「麒麟にしては禍々《まがまが》しい」  穢《けが》れですな、といつの間にか廉麟の足許に現れた白い小さな獣が言った。獣はその鼻面を床に寄せ、淡い光の軌跡を嗅ぐ。 「血の臭いでございましょう。これはちと厄介な」 「やはり……そうだと思う、什鈷《じゅうこ》?」 「血と怨詛《えんそ》──穢瘁《えすい》でございますな、間違いありますまい。いったい何があったのか。泰麒は病んでおられる。しかも、かなり悪い」  そう言って彼は、床に向けた鼻を忌《い》まわしそうに鳴らした。 「……これは女怪《にょかい》の気配かの。どうにも酷《ひど》い死臭がする」  その臭気は、廉麟にも景麒にも、そして六太にも明らかだった。忌まわしい穢れの臭い、それが本来は澄明であるべき麒麟の気配を禍々しく彩っている。いったい泰麒に何があったのか──委細は分からずとも、ひとつだけ確実に分かることがある。そもそもこの場には、戦場にも似た汚臭が漂っている。 「傲濫《ごうらん》が妖魔の性を取り戻していることといい、汕子《さんし》の気配が荒れていることといい、泰麒の周辺で良くないことが起こってるな」  六太の声に、景麒は呆然と頷いた。血と殺戮《さつりく》の気配。その渦中に麒麟としての本性を喪失してしまった泰麒がいる。これでは──保たない。 「こりゃあ、急がないと拙《まず》い。泰麒はかなり病んでいる。泰麒が病んでいる以上、使令も病んでいると見るべきだ。傲濫も汕子も力を喪失したわけじゃないみたいだが、何の変わりもないのなら、泰麒をこの穢れの渦中に置いておくはずがない」  景麒はその光の軌跡に触れてみる。 「失くしているのは、道理を判ずる理性のほうなのかもしれません。もしも使令が病んだ挙げ句に喪心《そうしん》しているのだとしたら、彼らこそがこの穢れの元凶なのでは」 「かもしれない。何らかの弾みで流血沙汰を起こし、箍《たが》が外《はず》れて止まらなくなったのかも」  ──そして、本性を失くし深く病んだ泰麒には、使令を抑える力が、もうないのだ。 「これの行く先は分かりましたか?」  哀願するように廉麟は周囲の闇に向かって問いかけた。そこここに蠢《うごめ》く無数の影からは無情な沈黙だけが返ってきた。廉麟は顔を覆った。 「近くまで来ていることは確かなのに……」 「探してみよう。どこかで途切れた先を見つけられるかもしれない」  六太が言って、光の見えない暗い空洞の中へ足を踏み出した。景麒と廉麟もそれを追う。廊下の片側に並ぶ虚ろな教室、井戸のような階段、人間の気配が絶え深閑と蟠《わだかま》る闇の中を、淡い光を求めて彷徨《さまよ》う。建物の周囲には、同じく異形の姿を曝《さら》した使令たちが、微かな痕跡を探して這い廻っていた。 「……どこにもいない」  悄然と廉麟が言ったのは、建物中を彷徨い尽くしてからだった。廉麟は、あの細い軌跡の見える教室へと戻って、切なくそれを見下ろした。依然として異臭と、そして淡い輝きを放っているその痕跡。少なくとも昨日、今日に残されたものではないようだが、これよりも新しい痕跡が見あたらないということは、泰麒はもうここにはいないのか。 「延台輔、景台輔、……どうすれば」 「行く先が分からないんじゃあ……」  深い溜息を零《こぼ》した六太に、景麒は硬く言い放つ。 「落胆している余裕はありません。その必要もないでしょう。かつてここにいたことは確実になったのですから、諦めるには及ばない。かつてここにいた、ということは、また来ることもある、ということなのかもしれません。とにかく、ここを起点に捜索を広げていきましょう」  廉麟は頷いて、辺りに向かって呼びかけた。 「半嗣《はんし》」  床に黒々と落ちた影が、粘《ねば》る音を立てて持ち上がった。 「よく見つけてくれました。しばらく見張りに残します。頼みますね」  鎌首《かまくび》を擡《もた》げた不定形の影は、承諾するように身を揺すった。すぐにずるずると溶け落ちて、元の影に戻っていった。       2  孤琴斎《こきんさい》に淡い光が満ちて消える。そこから真っ先に滑り出た六太は、周囲に集まって待ち構えていた人々の顔を見渡し、大きく頷いた。 「泰麒《たいき》だ。間違《まちが》いない。だが、泰麒は病《や》んでいる。それもかなり悪い」 「どういうことなのですか」  咳き込むように言ったのは、李斎《りさい》だった。 「それがよく分からない。多分、穢瘁《えすい》だと思う。血の穢《けが》れによって病んでいる。それもかなり悪い状態だ。泰麒の気配があそこまで細いのは、そのせいもあるのかな」 「では──麒麟の本性を喪失しているわけではなく?」  いや、と六太は目を逸らした。 「やはり泰麒はもう麒麟とは呼べない。力のほとんどを喪失していると見たほうがいい。さらにそれに穢瘁が伸し掛かっている。どうやら使令が暴走しているようだが、それを抑えることさえできないんだ」 「そんな……では、泰麒は」 「気配はあそこで途切れている。だが、必ずあの近くにいるはずだ。できるだけ急いで見つけ、連れ戻さないといけない」  李斎は、幽光《あかり》の中から戻ってきた廉麟《れんりん》、景麒《けいき》の顔を見る。六太も含め、どの顔にも苦渋の色が濃かった。急いで連れ戻さなければ最悪の事態になる、と彼らの表情が告げている。 「……どうにか……どうにかならないのですか」  李斎の叫びに、廉麟が詫《わ》びるように項垂《うなだ》れた。 「今のままでは、とても手が足りません……それに」  言って廉麟は顔を上げる。 「もし、見つけたとしても、どうやって連れ戻せばいいのでしょう?」 「どうやって?」  廉麟は李斎に頷き、救いを求めるように一同を見た。 「泰麒が麒としての本性を失ってしまわれたのなら、今はただの人──蓬莱人だということになりませんか? その人を、故意にこちらへ連れ戻る術があるのですか?」  堂室《へや》の片隅でこれを聞いていた陽子は、はっとした。確か、言われたことがある。求めてこちらに来ることはできないのだ、と。 「本当に只人《ただびと》になってしまわれたのなら、呉剛環蛇《ごごうかんだ》を通すことができません。いえ、そうでなくてもあのように膨《ふく》れ上がった使令《しれい》がいては。蝕を起こして強引に通す術があるのかもしれませんが……」  六太が考え込むように首を傾げた。 「やってみないと分からないな……。だが、泰麒は今や、こちらにとっては異物かもしれない。だとしたら、こちらは泰麒を拒む。しかも、無理に通すことができたとしても、あちらにもこちらにも甚大な被害が出るんじゃないのか」 「……私は」  陽子は口を開いた。 「景麒と契約をすませていたが、天にも認められた王ではなかった。その私が何とか景麒に渡してもらえたのだから、麒麟としての本性を失っていても、泰麒だって渡ることはできるんじゃないか? そう──そもそも、私も泰麒も胎果《たいか》なのだし」 「陽子は、ほとんど王だった。泰麒はほとんど麒じゃない。……何が起こるか分からない。天がどう見なすか」 「やるしかないであろ」  拘《こだわ》りもなげに言ったのは氾王だった。 「連れ戻らねば、戴は沈む。甚大《じんだい》な被害があろうとも連れ帰るか、さもなければ一思いに泰麒を殺害して泰果《たいか》を待つか」 「無茶苦茶を言うな」 「泰麒を殺《あや》めるのが嫌なら、被害は覚悟するしかなかろう」  分かっている、と吐き出す六太の声に被《かぶ》って、氾麟が怖《お》じ気《け》たような声を上げた。 「あの……泰麒がもしも只の人なら、仙に召し上げることはできない?」 「仙に──」 「仙に召し上げれば、虚海を渡ることができるんじゃないの? 蝕がある以上、被害のあることは避けられないけれど、それなら被害は最小限で収まるんじゃあ」  そうか、と六太は呟く。 「だが、どうやって仙に召し上げる」 「主上がお渡りになればいいんだわ。王が渡れば、それだけ蝕は大きくなる。けども、只の人を強引に渡すよりもましかもしれないじゃない」 「乱暴だが一理ある」 「でしょ?」  六太は頷いて、自らの主を見た。 「お前……行くか?」  問われた尚隆は、壁に凭《もた》れ、腕を組んでいる。やがて、 「行ってもいい」  そう呟《つぶや》いて、漏窓《まど》から外を見やった。 「……五百年ぶりの祖国というわけだ」  漏窓《まど》から射し入る月光が、尚隆の面に複雑な陰影つけていた。尚隆は目を細め、そしてその場を見渡す。 「陽子──いや、景麒、お前だ。おれは奏《そう》へ行ってくる。誼《よしみ》を結ぶ機会だ、一緒に来い」 「奏へ……ですか?」  困惑したように問い返す景麒に頷く。 「泰麒は蓬莱《ほうらい》で見つかったと報《しら》せておく必要があるだろう。ついでに、できるだけ使令が必要だと泣きついてみよう。──六太、お前は蓬山《ほうざん》だ。もう一度、陽子を連れて行って、これまでのところを報告してこい」  例によって玄君《げんくん》に伺いを立てるのだ、と陽子は納得したが、李斎は怪訝《けげん》そうに尚隆を見返した。 「……蓬山が何か?」 「玄君に会ってきてもらう。泰麒の様子も、使令の様子も尋常ではない。無理に渡せば何が起こるか分からぬ。そもそも渡すことが叶うのか、渡して連れ戻していいものなのか、何もかもが定かではない。玄君にお伺いを立てておく必要がある」  尚隆の言に、さらに李斎は首を傾げた。 「それは……どういう。蝕と碧霞玄君《へきかげんくん》に何か関係があるのですか?」 「蝕との間に関係はないが。天には天の理《ことわり》がある、ということだ。行為の是非を量《はか》ることができるのは天だけだが、天は我々と接触しない。唯一、窓口となるのが玄君だからな。廉台輔には御苦労だが引き続き──」 「お待ちください!」  李斎は声を上げた。 「それは、玄君を介して天の意向を問う、ということなのですか?」 「そういうことだが」 「では──では、天はあるのですか!?」  尚隆は頷く。李斎《りさい》は何者かに背後から襲《おそ》い掛《か》かられたような気がした。 「天がある? では……では、どうして天は戴をお見捨てになったのです!?」 「李斎」 「天があり、天意があり、天の神々がおられるのなら、なぜもっと早く戴を──こんなことになる前に助けてはくださらないのですか!? 戴の民は血を吐くような気持ちで天に祈念を」  阿選《あせん》の目を懼《おそ》れ、夜陰に紛《まぎ》れて、粛々と祠廟に並んでいた人々。その名を出すこともできないゆえに、荊柏《けいはく》の実をただ祭壇に供えて。深まる荒廃、冬を越えることは年ごとに難しくなっていった。木の実一つが生死を分けようかという困窮の中で、供え物を捻出し、一本の香を焚《た》くことが、どれほどの願いを背負っているか。 「自分たちの手でできることが何一つなかったからこそ、民はひたすら祠廟に足を運んでいたのですよ? それでもなお、天が救ってくださらないからこそ、私は罪を承知で景王をお訪ねしたのです。天が……天の神が僅かの救いなりとも恵んでくだされば、私は利き腕を失ってまで海を渡ったりしなかった……!」 「それは言っても詮無《せんな》いことだ」  けれど、と言いかけ、李斎は凛《りん》と尚隆を見る。 「では、私もお連れください」 「今は急ぐ。そなたは身体を厭《いと》うていろ」 「もう治りました」  言い放つ李斎を、尚隆は見返した。 「その腕で騎獣に乗れるのか?」 「大丈夫です。飛燕《ひえん》なら乗せてくれます」 「騎獣か? ものは?」 「天馬《てんば》です」 「足は速いな……。蓬山までなら飛びきることができるか。……強行軍になるぞ」 「構いません」  では、と尚隆は李斎に言う。 「行ってくるがいい。他ならぬ戴のことだ。その手で天意を掴《つか》んでこい」       3  李斎《りさい》たちは、休む間もなくその未明、金波宮《きんぱきゅう》を飛び立った。雲海の上をひたすら越える。慶国の凌雲山《りょううんざん》を転々と辿《たど》り、食事を摂《と》る間も惜しんで蓬《ほう》山を目指した。黄海《こうかい》を取り巻く金剛《こんごう》山、その峰で僅かな眠りを得たのは堯天《ぎょうてん》を発って三日目、申し訳なく思うのは、明らかに李斎《りさい》が陽子と延麒《えんき》の足を引っ張っていることだった。たとえ馴《な》れた飛燕《ひえん》でも、片腕で騎獣を駆るのは思った以上の難事で、しかも飛燕はそもそも|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》ほども速くない。しかしながら飛燕でなければ、今の李斎には乗りこなすことができないことも確実だった。──こういうとき、気にするまいと心に決めた喪失が胸に重い。  無言で労《ねぎら》ってくれる陽子と延麒に励まされ、四日目にようやく蓬山に着いた。やっと、と思うと同時に、これほど容易《たやす》いのか、と李斎は思わずにいられなかった。李斎はかつて、雲海の下、黄海を踏破して蓬山へと往復した。その時の苦労を思えば、何と言う違いだろう。雲海の上を飛べば、これほど容易い──つまり天は、それだけの代償を昇山《しょうざん》する者たちに求めているのだと思うと、口の中が苦かった。  それは、白い祠廟の前に一人の女が立っているのを見て、さらに深まった。陽子に聞けば、何を報せずとも、玉葉《ぎょくよう》は来訪者のあることをちゃんと察しているのだ、と言う。  玉葉は延麒から事情を聞くと、李斎らに休んでいるよう申しつけて消えていった。朱塗りの扉から蓬山を下り、宮のひとつを宛《あて》がわれ、陽子と共に落ち着いて、李斎はその場に突っ伏した。 「……李斎? どうした──具合でも?」  李斎は首を振る。意味もなく泣けて堪《たま》らなかった。 「玄君《げんくん》は、私を覚えておいででした」  ああ、と陽子の困惑した声が降る。玉葉は、延麒に「戴の者だ」と言われた途端、昇山者の中にいた者だろう、と言い当てたのだ。 「なぜなのです? ──私は、玄君になどお会いしていない!」 「李斎……」 「玄君は、何も報《しら》せていなくても、我々の来ることをご存じだった。会ったこともない私のことを覚えておられた。それはなぜです?」  見上げた陽子は、困ったように李斎の背を撫でている。 「何もかも見通しておられるのですか? ならば戴で何が起こったか、それだってご存じだったはずだ!」 「けれど……李斎、戴は遠いから」  心許なげに陽子は言う。李斎は激しく首を振った。 「私は──かつて、黄海を越えて昇山しました。景王は、黄海の旅がどういうものだか、ご存じですか?」 「いや……私は」 「妖魔の跋扈《ばっこ》する不毛の土地です。たくさんの昇山者が群れを集って蓬山を目指しましたが、幾人もの同行者が命を落としました。道もなく休む場所もなく、本当に荒野としか呼びようのない場所を、妖魔に怯《おび》えながら命賭けで越えるのです。二月近くもかかるその道のりを、私は丸一日で飛んでしまった。雲海の上を越えれば、たったこれだけのことなんだ」  陽子は李斎の目を見ながら、黙って耳を傾けている。 「昇山の者たちは、天意を諮《はか》るために蓬山を目指します。それはなぜですか? そこに麒麟がいるからですか? ただ麒麟に会うだけなら、雲海の上を越えてくればいい。そうすれば誰もが安全に、麒麟に面会することができるんです」 「ああ……そうだな」 「黄海を越えねばならぬと思うから、民はみんな二の足を踏む。しかも一度入れば、簡単には出られない。長い長い旅になります。それがたった四日です。これだけのことで往復できるのであれば、民はもっと容易く昇山できる。王が登極するのだってずっと簡単になるはずです。──違いますか?」  確かに、と陽子は首肯した。 「そもそも、天は民の人柄を見比べ、最も王に適する者に天命を授けると言います。私はそれを疑ったことがなかった。けれども、天は実際にある、と言う。そう言われて初めて私は疑問に思います。それはどういうことなのですか? 天が不可思議な力で──玄君が我々の来訪や、会ったこともない昇山者の顔を知っていたように、誰が王なのか見通している、ということなのですか? では、昇山するまでもなく、王は決まっているということではないのですか。ならば、何のために私たちは命を賭けて黄海を越えねばならなかったのです?」  陽子は眉を顰《ひそ》めた。──確かに、可怪《おか》しい。 「麒麟に面会し、天意を諮《はか》ってみなければ誰が王だか分からないというのなら、それはとても高いけれど、国と民のために必要な代償です。ですが、そうでないのなら、それはいったい何なのですか? 黄海で死んでいった者たちは、何のために死んだのです?」  これはいったいどういうことなのだろう──と、陽子は考え込んだ。  確かに李斎の言う通りだ。天が予《あらかじ》め民の全ての資質を見通し、中から最前の者を王として選択することができるなら、昇山などという手続きは必要ではない。それはできない、麒麟の目を通さなければ、王として適するかどうかを見抜けないというのであれば、なぜ陽子のような例──まったくこちらのことを知らず、泰果として生まれ、ごく当たり前の高校生をやっていた人間に天命が下る、などということがあるのだろう。景麒は王気があった、と言う。だが、王気とは予め王たる者が定められていて初めて生じ得るものではないのか。 「これほど高い代償を──しかもゆえなく要求しながら、そうやって選んだ王に対して、天は何の手助けもしてくださらない。驍宗《ぎょうそう》様に、王として何の落ち度があったというのですか。それは勿論、瑕疵《かし》のない王などいないでしょう。天にすれば、見限るだけの理由があったのかもしれません。ならばなぜ、阿選《あせん》を黙認なさるのです? あれほどの民が死に、苦しんでいるのに、なぜ正当な王を助け、偽王を罰してはくださらないのです!」 「李斎……」 「天にとって──王は──私たちはいったい、何なのです!?」  陽子は唐突に思った。──神の庭。  そういうことなのかもしれない。この世界は、天帝の統《す》べる国土なのかも。天の玉座に天帝があり、陽子が六官を選び、官吏を仙籍に入れるようにして神々を選び、女仙を登用する。  思った瞬間、目眩《めまい》を感じた。──では、李斎のこの叫びは、民の叫びだ。  確かに陽子はかつて、これに似た叫びを慶の街で聞いた。 「李斎……私はその問いに答えられない。けれども一つだけ、今、分かったことがある」 「分かったこと?」 「もしも天があるなら、それは無謬《むびゅう》ではない。実在しない天は過ちを犯さないが、もしも実在するなら、必ず過ちを犯すだろう」  李斎は不思議そうに首を傾ける。 「だが、天が実在しないなら、天が人を救うことなどあるはずがない。天に人を救うことができるのであれば必ず過ちを犯す」 「それは……どういう……」 「人は自らを救うしかない、ということなんだ──李斎」       4 「泰麒《たいき》はおそらく、角を失っていると思う」  神と人の間に住まう狭間《はざま》の女はそう言った。蓬山に辿り着いた、その翌日のことだった。 「……それは、どういうことなんだ? 何を意味する?」  六太の問いに、玉葉《ぎょくよう》は眉を顰《ひそ》めた。 「そなたら麒麟の麒麟たる所以《ゆえん》は、角にあると考えられるがよかろう。そなたらは、二形の生き物なのじゃ。麒麟が人に化けているのでもなく、人が麒麟になるのでもない。人と獣の二つの形を持っている。じゃが、泰麒には角がない。獣としての泰麒は形を失った。封印されてしまったと考えるのが正しかろう」 「じゃあ残った人としての泰麒は?」 「延台輔の言う通り、只人《ただびと》だと考えるのが良いと思う。泰麒は転変《てんぺん》できず、蝕を起こすことも天命を聴くこともできぬ。すでにある使令《しれい》は泰麒の一部じゃから、失われることはないが、新たに使令を下すことはできぬ」 「連れて戻ることはできるか?」 「通常の蝕で只人を通すことはできぬ。蝕に巻き込まれて流れて来てしまうことはあるが、これは不測の事柄。意のままにすることはできぬ。付近にいれば、偶然巻き込まれる確率は増すが、確実に虚海を越えられるとは限らんようじゃの」 「何とかする方法はないのか?」  ない、と玉葉は声音を低くした。 「蝕は摂理の中にはないのじゃ。天の意志で起こることではないゆえ、天が自在に支配することは叶わぬ。そんなことができていれば、みすみす泰果《たいか》やそなたを蓬莱《ほうらい》に流してしまうようなことはなかった」 「そりゃそうだ……」  六太は息を吐いた。 「では、これはどうだ? 誰か王が渡って、泰麒を一旦仙籍に召し上げる」 「たとえ仙に召し上げたところで、伯以上の位を持つ仙でなくては、虚海を渡ることはできぬ。前にも言ったように伯位を超える位を新たに設けることは許されぬ」 「じゃあ、どうしろってんだ? そこに泰麒がいるんだぞ? 泰麒の肩には泰王と──ひいては戴の民の命がかかっている。なのに見捨てろと言うのか!?」  玉葉《ぎょくよう》は深い溜息をついた。 「泰麒には角がない。あの器はすでに閉ざされておる。天地の気脈から切り離された麒麟が、生き延びることのできる年限はあと幾らもないであろう、というのが、上の方々の見解だの。自ら正《ただ》されるのを待て、と」  黙って控えていた李斎《りさい》は、思わず腰を浮かせた。 「それは死ぬのを待て、ということですか!?」  玉葉は顔を逸《そ》らす。 「そもそも、その上の方々とはいったい誰なのです」 「さて……」 「それは天帝諸神のことですか? そんな方々がいて、泰麒が身罷《みまか》られ、再び泰果《たいか》が生《な》り、戴に新しい麒麟と王が立つのを待てと仰《おっしゃ》るのですか──仁道をもって国を治めよと言ったその口で!」  玉葉は沈黙する。 「それでは泰麒はどうなるのです? 泰麒にどんな罪があったというのですか。泰王は如何《いかが》です。天帝が自ら泰麒を介して玉座に就けた王なのではないのですか。その王に罪咎《つみとが》なく死ねと仰るのですか。残される民はどうなるのです。戴の民は六年というもの、阿選の圧政を耐えてきました。このうえ、泰麒が亡くなられるのを待てと言うのですか。そして新しい泰果が実って孵化《ふか》し、さらに新たに王が選ばれるまで待てと? それは何年後のことなのです!」 「それは……」 「五年ですか、十年ですか? ──玄君《げんくん》、戴はそんなに保ちません。それとも天は、新王が登極するまでの間、戴から妖魔を追い払い、冬の厳しさを和らげてくれるのですか」 「李斎……」  延麒《えんき》が李斎の腕を引く。李斎はそれを振《ふ》り解《ほど》いた。 「天帝は王に、仁道《じんどう》をもって国を治めよと言われたのではないのですか。それが天綱の第一だったはず。にも拘《かか》わらず、その王の上におわす方々が、仁道を踏みにじると仰るのですか。かくも容易《たやす》く民を見捨て、仁道を踏みにじる方々が、これまで道を失った王を裁いてきたのか!!」  玉葉は深く重い溜息を零《こぼ》した。 「天には天の道理がある。玉京《ぎょっけい》はその道理を通すことが全てなのじゃ」 「では、その玉京とやらにお連れください。私の口から天帝諸神に懇願します」 「それはできぬ。……李斎、妾《わらわ》とて、泰麒を不憫《ふびん》には思う……」 「では、泰麒をお助けください!」  玉葉は憂いを込めた目で李斎を見た。 「泰麒を連れ戻って、それからどうするのかえ? 泰麒の使令はどうやら道理を失っている様子、そのまま泰麒の傍に留め置けば、妖魔のごとき災いを為そう。たとえ連れ戻っても使令は泰麒から引き離さねばならぬ。じゃが、使令すら失《な》くせば、泰麒は身を守る術さえないのじゃえ? 王気も見えぬ。泰麒がいたからといって、泰王を捜せるものでもない」 「それでも、戴には台輔が必要です」 「諸国は泰を助けることができぬ。兵をもって阿選《あせん》とやらを討つことは叶わぬ。連れ戻したところで泰麒は孤立無援じゃ。泰を救いたい、救わねばならぬという意志と、なのに何一つできぬという己の間で苦吟《くぎん》せねばならぬ。──その結果がどうなるであろうな? 転変もできず使令もない麒麟に何ができるのかえ? みすみす兇賊に討たれる以外に?」  私がおります、と李斎は叫んだ。 「使令に代わって、命に代えても台輔はお守りします。……いいえ、私ではとても使令の代わりになどならないでしょう。ですが、戴には台輔を待っている民がいます。台輔がおられれば、民は台輔の元に馳せ参じるでしょう。私一人の手では及ばずとも、多くの民が台輔をお守りいたします」 「それで阿選が討てるかえ? 何もできない泰麒が一人加わっただけで討てるものなら、とうにそなたら、討っておろ?」 「玄君ともあろうお方が、そのような愚かをおっしゃるのですか!」 「李斎」 「台輔に何ができるか、そんなことがそもそも関係あるとでもお思いか。台輔は麒麟です。その台輔に阿選を討てるはずがなく、戦においてどんな働きもなさることができようはずがない。それでも台輔は必要です──分からないのですか? 台輔がそこにいるかいないか、それが民にとって……私たちにとって、どんなに大きなことなのか」 「じゃが……」 「台輔は、私たちの希望なのです。玄君。台輔も主上もおられない戴には、些《いささ》かの煕光《きこう》もない。何をしてくださるかは、今は問題ではありません。戴の民には、希望のあることを納得するために台輔の存在が必要なのです……」  玉葉はあらぬほうを見る。しばらく苦吟するように奇岩の間から射し入る光の帯を見詰めていた。 「……延麒」 「はい」 「雁《えん》の三公の誰かを、一時、罷免できるかえ」 「一時なら」 「泰麒の戸籍を雁に用意しや。泰麒にはもともと戸籍がないが、戴の荒民《なんみん》ということで体裁だけが整えば良い。しかる後に、延王君を渡らせよ。仙籍に入れて三公《さんこう》に叙《じょ》す」 「麒麟を雁の国民にできるのか?」 「してはならぬ、という文言はないの。自国の麒麟は戸籍に含まれぬ、とはあるが、他国の麒麟についての言及はない。三公についても同様じゃ。その国の民でなければならぬとあるが、それが他国の麒麟であってはならぬという記述はない」  玄君、と李斎は歓喜の声を上げた。だが、玉葉は振り返らなかった。 「礼は言わないほうが良かろう。泰麒だけを連れ戻っても、何の解決にもならぬ」 「泰麒は?」  口を挟んだのは陽子だった。 「泰麒には角がないという──それは、どうにもならないのですか?」 「場合による。こればかりは泰麒に会ってみなければ分からぬ。連れ戻ったら、一度ここへ連れて来や。治癒《ちゆ》が叶うようなら手を貸そう。いずれにしても、使令は一度引き離さねばならぬ。必ず連れてくるよう」  玉葉は頷《うなず》き、李斎らを見た。 「……天には理《ことわり》があり、この理を動かすことは誰にもできぬ。是非を言うても始まらない。全ては理があってこそ成り立っておるのだから。天もまた条理の網の中、民に非道を施すことなど許されぬ──それだけは、天も地も変わりはない。それを決して疑わぬよう」  李斎は無言で、ただ頭を垂れた。       5  李斎が待ちかねた言を聞いたのは、蓬山から戻ったその日のことだった。  蘭雪堂《らんせつどう》に駆け込んできた廉麟《れんりん》は、蠱蛻衫《こせいさん》を脱いで声を上げる。 「李斎──いました!」  李斎は凍りついた。待ちかねた報せを受け、嬉しいより恐ろしくて身体が動かない。 「使令たちが、泰麒のお姿を発見しました。傲濫《ごうらん》と汕子《さんし》と──確かに」  ああ、と李斎は呻く。残された左手で胸を押さえ、そして顔を上げた。 「それで、泰麒は」 「御無事です。私が行ったときには、すでにその場を立ち去っておられましたが、気配を辿《たど》ることができました。あの建物の中におられます。使令を残しましたから、二度と見失うことはありません」  李斎は天を仰いだ。不思議にも、天に向かって謝辞が漏《も》れた。──そう、天が存在するものなら、過ちもあろう、不備もあろう。だが、それを正すこともできるのだ。過たない天はそれを正すこともない。  それで、と氾麟《はんりん》が声を上げた。 「尚隆《しょうりゅう》が迎えに行くのね? どうするの?」  妖でなく、しかも二形を持たない王は、呉剛環蛇《ごごうかんだ》を潜《くぐ》ることができない。神とは言ってもその塑形は人でしかない。 「どのみち戻りは泰麒が一緒だ。呉剛の門を開く」 「……大きな蝕になるね」  仕方なかろう、と尚隆は呟く。 「できるだけの司令を使って、災異が最小限に留まるようにする。それでどの程度のことができるかは分からぬが、とりあえず宗王に願って、あちらの三国からも使令を借り受けている。あとは鴻溶鏡《こうようきょう》か。使える限り裂いて、できるだけのことをするしかあるまい」  氾麟は頷く。 「それで──いつ?」  氾王の声に、尚隆は短く答えた。 「明日」  どこで門を開くかが、慎重に検討された。虚海の果てが望ましく、それも陸地からできるだけ離れるに越したことはないが、遠く離れていれば被害を免《まぬが》れるというものでもないところが蝕《しょく》の度し難いところだった。 「これが本当の、運を天に任せるってやつだ」  六太が言って使令を呼ぶ。騎獣は虚海を越えられない。使令が尚隆を運ぶ。 「──悧角《りかく》、頼んだぞ」  悧角にそして、景麒から借り受けた班渠《はんきょ》、最も足の速いこの二騎を連れ、半日をかけ、できるだけ大陸から遠ざかる。気脈に隠伏《いんぷく》した無数の使令がそれに従う。  清香殿《せいこうでん》の露台からそれを送り出した六太は、ようやく息を吐いた。蓬山で陽子らと別れ、まっすぐ雁へ駆け戻り、玉葉に言われた通り采配《さいはい》して書面を整え、御璽《ぎょじ》を携《たずさ》えて戻ってきたのが今朝のこと、ようやくこれで、全ての準備は整った。 「……お疲れ」  欄干《らんかん》に顎《あご》を乗せていると、背後から声がする。振り返ると、陽子が立っていた。 「かつてないくらい、よく働いた……。陽子はいいのか、公務に行かないで」 「さすがに今日は手につかないみたいだ。身が入ってないと言って、浩瀚《こうかん》に叩き出されてしまった」 「あらま」 「もっとも、同じことを私が今朝、やったんだけどね。景麒《けいき》に」  六太は声を上げて笑う。 「まあ、そうだろうな。景麒に懐《なつ》いていたからな、ちびは。景麒も弟のような気分がしてたんじゃないのか。奴にしては驚くべきことに、よく面倒をみていたようだから」  景麒が、と陽子は目を丸くする。 「珍しいだろ?」 「……仰天するほど珍しい」  軽く笑い合った時だった。慌ただしく氾麟《はんりん》が駆けてくる。何気なく振り返った六太は、氾麟のその貌《かお》から、良くない報せなのだと悟った。 「──どうした」 「様子を確認に行ってた廉麟《れんりん》が戻ってきて。泰麒は、こちらを覚えていない、って」  莫迦《ばか》な、と六太は呟《つぶや》き、蘭雪堂《らんせつどう》に駆けつける。中ではそそけだった顔色をした廉麟と景麒、そして李斎《りさい》が棒を呑んだように立ち尽くしていた。 「廉麟──」 「延台輔、泰麒が……」 「会ったのか? 覚えないってのはどういうことだ」  廉麟は青白い貌で首を横に振る。 「泰麒は? 穢瘁《えすい》はそんなにひどいのか」 「ひどいのは確かです。でも、御無事です……ええ、とにかくまだ命はおありです。けれども泰麒は、こちらのことを覚えていらっしゃいません。ご自分が何者で、使令たちが何で、何が起こっているのか──まるで」  くそ、と延麒は吐き捨てる。 「角か。──そういうことだったのか!?」 「そう……角がないせいなのかも。延台輔……どうすれば」 「どうするもこうするも」  記憶があろうとなかろうと、呼び戻さないわけにはいかない。あのままにしておけば、泰麒の寿命は知れている。しかも度を失った使令がいる。あちらに置いておいても災いを成すだけ、真に解放されてしまった饕餮《とうてつ》が、何をやらかすかは想像もつかない。 「尚隆に報《しら》せは」  私が、と氾麟が言う。 「残った使令に追いかけさせたわ。遁甲《とんこう》できるから、すぐに追いつくと思う」  よし、と延麒は呟《つぶや》く。 「とにかく、泰麒はこちらに連れ戻さないといけない。本人が嫌がるなら、攫《さら》ってでも。あとは……もう知るもんか。ひょっとしたら角さえ治してもらえれば、それで思い出すかもしれない」  言って延麒は李斎を見る。 「それでもいいな? 覚悟できるな?」  はい、と李斎は痛々しいほどに白い顔で頷いた。       6  ──その夜、蓬莱《ほうらい》と呼ばれる国の遙《はる》か海上、海面に落ちた月影に異変が起こった。  四方に陸の光は見えない。見事に凪《な》いで疵《きず》ひとつない海面が、敷き延べたように広がっていた。船の姿は勿論、生き物の姿さえも見えなかった。ただ、その中央にぽつんと、白い石のように月の影が落ちている。  縮緬皺《ちりめんじわ》を刻む水面に映《うつ》り、歪《ゆが》んでは砕《くだ》ける月の影が、ふいに膨《ふく》れて真円を描いた。  その真円の光の中に、突然、水面下から黒い影が躍《おど》り出た。無数の影は宙に舞い上がり、そこで一旦、動きを止める。その下方で月の影は細り、元の形を取り戻すと、再び波にその形を砕かれた。気脈が乱れる。それはそのまま気流の乱れと化して、怒濤となって海を泡立て始めた。  現れ出た使令たちは遠い岸を目指す。鴻溶鏡《こうようきょう》によって分かたれた妖魔、黄海から召集された妖魔を含め、それは未曾有の数に昇った。彼らは粛々と岸辺へ打ち寄せ、そしてそこで声を上げた。唸《うな》りを上げる風の中、ここに、という彼らの叫びが、さらに逆巻く風を誘う。迎えられる者をその岸辺に呼び寄せる声、迎える者を呼び寄せる声、それらが風音に混じって浜辺に渦巻く。それはやがて、岸辺からはひとつの影を、荒れ狂う海上の彼方からは、ひとつの騎影を呼び寄せた。  岸辺に彷徨《さまよ》い出てきたほうは、風雨の中に混じる声なき声が、自分を呼んでいることを自覚していた。彼の中で長く封じられてきた獣の本性に、それは届き、響いた。何と言っているのか分からない。なぜ呼ばれるのかも分からない。──けれども、来いと言っている。  ……迎えが、来る。  長く彼の本性に伸し掛かっていた重い蓋は、動こうとしていた。奇《く》しくも、それを動かしたのは、彼を捜す者たちが残していった見えない金の糸だった。彼を求めて彷徨《さまよ》う者たちは、それと意図しないまま彼の周囲に、蜘蛛《くも》の巣のように軌跡を張り巡らせていたのだった。それは彼の、今や漆黒《しっこく》に染まった影の中に、細く金の命脈を辛うじて注ぎ込んだ。  そして、ついにその蓋をこじ開けたのも、やはり彼を捜していた者だった。廉麟《れんりん》は、間違いなく岸辺に辿り着いた彼を見届けた。ふと蠱蛻衫《こせいさん》を取り、転変《てんぺん》してみる気になった理由は彼女自身にも分からなかった。彼女はただ、かつて会った自分を訴えたかったのかもしれないし、貴方は麒麟なのだ、と訴えたかったのかもしれない。彼女自身は、その行為が彼にとってどんな意味を持つのか分かってはいなかった。人として蓬山に呼び戻され、麒麟と呼ばれながらそれを自覚できず、麒麟が如何なる者かも真に理解はできなかった彼が、初めてそれを受けとめたのが景麒による転変であったことなど知る由もない。それは、彼が「彼」から「泰麒」へと成り変わった瞬間の、ひとつの象徴だった。  廉麟が金の軌跡を残してその場を駆け去った時、彼は思い出していた。  ──泰麒である自分を、戴を──王を。  風は雨を含んで夜の岸辺へと突進する。それに押し流されるようにして彼方から騎影が辿《たど》り着いた。それが吹き寄せられたのは、灰色の陰鬱な海岸だった。波頭が千切《ちぎ》れて礫《いしくれ》のように飛散する中、ひとつの影が汀《みぎわ》に立ち尽くしていた。  尚隆《しょうりゅう》はただ、悧角《りかく》の背からその影を見下ろした。見下ろされた者も、ただ尚隆を見上げてきた。 「──泰麒か」  問われたほうは、明らかに震えた。  見《まみ》えたのは、虚海の彼方、共に胎果で故国での姿を知らない。たとえ泰麒が虚海の彼方を覚えていても尚隆が分かるはずもなく、また尚隆も泰麒と分かるはずがない。──ただ、濡れた髪が巻き上げられて昏《くら》い光を弾き、それが尚隆にこの者特有の希有な色を想起させた。そして、その漆黒の双眸が。勁《つよ》いものの撓《たわ》められた、その、色。 「泰麒、と言って分かるか」  相手は頷いた。口は開かない。尚隆は悧角の背に騎乗したそのまま、有無を言わさず手を伸べた。指を相手の額に翳《かざ》す。 「──延王の権をもって太師に叙《じょ》す」  言うや否やの弾指《だんし》、とっさに目を瞑《つむ》って一歩を退《さが》った相手の、空を掻《か》いた腕を握って悧角《りかく》の背に引きずり上げる。自らは飛び降り、その獣の背を叩いた。 「悧角、行け!」  それは体を翻《ひるがえ》し、波頭に切り崩される汀《みぎわ》を残し、逆巻き押し寄せる風を切り裂いて疾走し始めた。見送った尚隆の足許で班渠《はんきょ》が促す。その背に飛び乗り、そして尚隆は背後を振り返った。疾走する班渠の背から視線で岸を薙《な》ぐ。  押し寄せる波に翻弄《ほんろう》されている岸と、岸に向かって広がる街と。すでに国はなく民もなく、ましてや知人の一人もない。──ならばそれは、まぎれもなく異国だ。  故国を時間の中に沈め、現れた異国に彼は軽く目礼をする。  ──国と人との弔《とむら》いに代えて。  東から雲が押し寄せる。風が吹いて、未明の堯天山《ぎょうてんざん》の峰を洗う。雲の鈍色《にびいろ》に黒く一点が現れて、六太は思わず爪先立った。それは一点から二点に分かれ、風に吹き押されるようにして飛来し、峰にぶつかるような速度で到達すると、広大な露台の奥へと弧を描いて舞い降りた。走り寄る先にあるのは、人影を背に乗せた使令の一対、人影の一方が使令とともに駆け寄る人々を振り返り、そしてもう一方は使令の背に伏したままその場に傾いて落ちた。  景麒は我知らず、六太と先を争う体《てい》で駆けつけ、そして足を止めた。六太もまた蹈鞴《たたら》を踏む。短く呻《うめ》くような声を発した。  白い石の上に落ちた人影は周知の年齢よりも僅かに少《わか》い。硬く目を閉じた土気色の顔にはおよそ生気がなく、あまりにも衰弱の色が濃い。石の上に散った鋼の髪は、景麒らにすれば無惨に思えるほど短く、投げ出された腕も病んだ色をはっきりと顕《あらわ》して細かった。見るからに痛々しく、助け起こしたくは思っても、それ以上一歩たりとも傍に寄ることができない。──圧倒的な屍臭。 「……ちび、なのか……?」  言いながら六太は僅かに退る。景麒もまた、無意識のうちに退った。  厚く濃く怨詛《えんそ》が泰麒《たいき》を取り巻いている。それは押し迫る壁のようにして、景麒らを排除する。濃厚な血の臭いと吐き気のするような屍臭、凝《こご》ったような怨詛で、それが目に見えないのが不思議なほどだ。 「……どうして、こんな」  六太は呟いて、根負けしたように数歩逃げた。景麒は辛うじてその場に踏みとどまったが、それ以上は断固として近寄ることができなかった。 「あれが、泰麒《たいき》か?」  景麒は振り返る。陽子に頷いて、肯定を伝えた。陽子は軽々と、その見えない障壁を突き抜けていく。その後をまろぶように李斎《りさい》が追った。 「ねえ、これは何なの!?」  主に縋《すが》ったままの氾麟が叫ぶ。 「こんなの穢瘁《えすい》じゃない──血の穢《けが》れなんかじゃないわ! これは泰麒自身に対する怨詛じゃないの!」       7  泰麒は速《すみ》やかに蓬山へと運ばれた。例によって門前で待っていた玉葉《ぎょくよう》は、抱え降ろされた姿を見て、眉を顰《ひそ》めた。 「なんと……」  呟くように言って絶句する。 「どうなのでしょう──治りますか」  李斎は問う。泰麒は蓬莱《ほうらい》では自分の足で歩き、悧角《りかく》にも騎乗したと尚隆《しょうりゅう》は言うが、こちらに戻ってからというもの、ただの一度も目を開けていない。玉葉に従う女仙たちによって抱え降ろされた泰麒は、今も土気色の顔をして、深い昏睡に落ちているように見える。  玉葉は膝をつき、その憔悴した顔を痛ましそうに見下ろした。 「角がない……穢れがある。にもかかわらず、まがりなりにも成獣しておられるのは、さすがは黒麒《こっき》と言うべきか」  呟《つぶや》いて、顔を上げる。玉葉は李斎と陽子、そして尚隆、三者の顔を見比べた。付き添ってきたのはこの三者だけ、麒麟は誰一人、蹤《つ》いて来ることができなかった。 「……これは、妾《わらわ》の手には負えぬ。王母《おうぼ》にお縋《すが》りするしかないであろ」  三者が同時に玉葉の面《おもて》を見返した。 「王母? 王母とは……ひょっとして西王母《せいおうぼ》のことですか?」  李斎の問いに、いかにも、と玉葉は頷く。 「王母ならば泰麒を助ける術をお持ちかもしれぬ」 「西王母が……おられるのですか? 実際に?」 「無論、おられるとも」  来や、と声を残し、玉葉は廟へと向かう。そこにはかつて陽子も尚隆も足を踏み入れている。中には壇上に王母と天帝の像があるだけだ。無数の文様が彫りこまれた壇上、白銀《しろがね》の屏風《へいふう》を背に設《しつら》えられた白銀の御座、そこに坐った白い石の人物像、四方の柱間に掛けられた珠簾《みす》が、その胸元までを隠している。  玉葉はその像に一礼し、さらに建物の奥へと向かった。段の奥にある壁の左右には白い扉がある。そのうちの左側にあるひとつを玉葉は叩いた。そうしてしばしを待つ。やがて扉の向こうから、ちりんと璧《いし》を打ち合わせるような音がした。玉葉は扉を開ける。廟堂《びょうどう》の大きさから考えて、その扉の向こうなどあるはずもないのに、扉の奥には白い堂が続いている。  玉葉にはいるよう促され、陽子は扉を抜けた。  そこは堂であって堂ではなかった。白い床の広さは廟堂のそれほど。中央に壇があって白銀の御座があることは変わらなかったが、珠簾《みす》は上げられている。  まるで同じ堂室《へや》が二つあるようだった。だが、こちらには天井がなく、奥の壁がなかった。玉座の背後で純白の壁を作っているのは、いかほどの高さがあるとも分からない大瀑布だった。いったいどこへ流れ落ちていくのか、辺りは水煙にけぶり、振り仰いでみても遙か彼方《かなた》から白い光が射してきているとしか分からない。その白々とした明かりが落ちる玉座の一方に、一人の女の姿があった。玉葉に倣《なら》って跪拝《らいはい》しながら陽子らは彼女を窺《うかが》い見る。  ──これが、西王母。  尚隆でさえ、その姿を見るのは初めてだった。真の神は決して下界と交わらない。他の二者にいたっては、その女神が実在することさえ知らなかった。  碧霞玄君《へきかげんくん》の美貌は衆目の認めるところであろう。それに対し、西王母の容姿には愕然《がくぜん》とさせられる。──醜いわけではない。あまりにも凡庸《ぼんよう》だったのだ。  泰麒を運んできた女仙たちが、彼女の足許にその身体を下ろした。目線だけを向け、彼女はゆったりと坐したまま、身動きひとつしなかった。 「……見苦しいことよね」  声はひたすら無機的で抑揚を持たない。  玉葉は深く一礼した。 「御覧ぜられます通り、拙《せつ》の手には負えません。王母のお力にお縋《すが》りしとうございます」 「よほど憎まれ怨まれたと見える。自身への怨詛《えんそ》でかくも病んだ麒麟など例がなかろうな」  その声に何の情感も窺えないのは、音もなく落ちる瀑布が声音の微妙な彩《いろど》りを吸い取っていくからなのかもしれなかった。あるいは最前から、全く動かない身体、動かない表情のせいなのかもしれない。 「使令が道理を失い、暴走したようでございます。泰麒自身の罪咎《つみとが》ではございません。角を失い、病んだ泰麒には、猛り狂った使令を押し留める力がなかったのでございます」 「……使令は預かる。清めてみよう」 「泰麒は」  沈黙が落ちた。彼女は動きを止めた。李斎《りさい》には王母が、彫像に変じてしまったように見えた。彼女の背後に落ちる水煙だけが動いているものの全てだった。それは純白の粉が流れ落ちているようにも見える。あるいは舞い上がっているようにも。 「お見捨てにならないでください」  李斎の声に、王母の眉だけがぴくりと動いた。 「戴にはこの方が必要です」 「病を取り除いても、何ができるようになるわけでもない。──お前、その身体で兇賊を討つことができるかえ」  情感もなく言われ、李斎は失われた右の上肢を握《にぎ》りしめた。 「……いいえ」 「泰麒もお前のようなもの。もはや何の働きもできぬ」 「それでも──必要なのです」 「何のために?」 「泰が救われるために」 「なぜ、お前は戴の救済を願う」  問われて、李斎ははっと言葉に詰まった。 「それは……それが当然だからです」 「当然とは?」  李斎は口を開きかけ、そして言葉を見失った。そもそも自分は、なぜこうまでして泰を救いたいと思っているのだろう? 「泰王や泰麒が恋しいかえ? 自身のいた朝《ちょう》が恋しいか?」  ──それもあった、と李斎は思う。勿論、李斎は驍宗を崇敬していたし、泰麒を愛《いと》しく思っていた。その二人から重用される自分が誇らしく、そういう自分を一員として受けとめてくれていたあの場所が恋しかった。  だが、李斎とて分かっている。失われたものは取り返せはしないのだ、と。李斎は多くの麾兵《ぶか》を失った。朝廷で誼《よしみ》を得た官の多くも失っている。確か天官長の皆白《かいはく》は行方が分からないままになったと聞く。冢宰《ちょうさい》の詠仲《えいちゅう》も傷がもとで死亡したと聞いた。そして地官長の宣角《せんかく》、夏官長の芭墨《はぼく》が後に処刑されたらしいことを、李斎は噂で知っている。垂州で別れた花影はその後どうなったのか──これについては恐ろしくて、とても考えてみる勇気を持てなかった。  失われてしまった人々、六年の歳月。実際、と李斎は王母の足許を見た。そこに横たわっている泰麒は、もう稚《おさな》いばかりの子供ではない。幼かった泰麒は、もうどこにもいないのだ。 「それとも阿選を許せないか?」  それは勿論のことだ、と李斎は思う。阿選は少なくとも泰麒の信を知りながら、泰麒を襲ったのだ。玉座を奪い、戴を苦難の底に突き落とした。多くの民が阿選のために失われた。こんな非道が許されていいはずがない。阿選がこのまま玉座に在り続けると言うことは、道や善意や、慈愛や誠意、そんなものに重きを為して生きてきた、全ての人々の生が根底から否定されることだ。 「自身の汚名を雪《そそ》ぎたいか? それとも戴が恋しいか?」  李斎には答えられなかった。どれも違う、と思えた。 「……分かりません」 「ただただ嫌じゃと駄々を捏《こ》ねる童《わらべ》のようじゃの」  そういうことでは──ない。李斎は目を上げる。白いばかりの空間は嫌でも戴の、雪に降り込められた国土を思い起こさせた。  無数の雪片がひたすらに降って山野も里櫨《まちまち》も覆い尽くしていく。全ての音は彩りを吸い取られ、世界は無音のまま昏睡にも似た停滞へと落ちていく。  李斎は確かに、汚名を屈辱だと感じた。李斎の名を汚した阿選に怒り、そうやって善なるものを踏みにじる阿選に報復を誓った。天が正さないのであれば、自分が正してみせる、と思ったのも確かだ。そして、その機会を窺《うかが》い、承州を転々とするうちに、李斎は多くの知古や理解者を失った。何重にも傷つけられた李斎の思いは、阿選を倒すことでしか癒《いや》されない──そう思っていたこともあったように思う。  だが、それらの思いは、ひとつ冬を過ぎるごとに雪の中に吸い取られていった。 「私にも、なぜなのかは分かりません……」  李斎は瀑布から漂う水煙を目で追った。廃墟から立ち昇る雲煙にも似た。 「ただ……戴はこのままでは滅びてしまいます……」 「滅びてはならぬかえ?」 「はい。……それだけは嫌です。堪えられません」 「なぜ?」  なぜなのだろう──李斎は考え、ふと口を突いて出てきたのは、李斎自身にとっても意外な言葉だった。 「なぜなら、もしも戴が滅びるのなら、それは私のせいだからです」 「──お前の?」 「うまく言えません。そういう気がするのです」  勿論、戴のこの荒廃において、李斎が何かをしたということではない。 「もしも戴が滅びたら、私は多くのものを失います。……懐《なつ》かしい戴の国土も、そこにいた人々も、それらに纏《まつ》わる記憶も、何もかも。けれども、それよりももっと大事なものを失ってしまう気がする……。私はきっと、失ったものを懐かしみ、喪失に泣く前に、自分を憎んでしまうでしょう。呪い──怨む。絶対に許すことができません」  李斎は息を吐いた。 「そう……駄々のようなものなのかもしれません。結局のところ、私はその時の苦しみから逃れるために足掻《あが》いているんです。ただ──自分の気持ちを救うためだけに」  李斎は台輔を見つめ、そして壇上に目を転じた。 「……台輔に何を望んでいるわけでもありません。奇蹟などは望みません。こうして奇蹟を施すことのできる神々ですら戴をお救いはくださらないと言うのに、どうして台輔にそれを望むことができるでしょう」  ぴくりと女神の眉が動いた。 「けれども、戴には光が必要です。それさえなければ、戴は本当に凍《こお》って死に絶えてしまいます……」  王母はやはり声もなかった。如何なる表情もなく、じっと双眸を何もない宙に据えている。やがて彼女は、泰麒の方へ視線をやった。 「……病は祓《はら》おう。それ以上のことは、今はならぬ」  彼女は言って、機械的な動作で片手を上げた。 「退《さが》りゃ。……そして、戻るがいい」  言った途端、轟音を立てて玉座の前に瀑布が流れ落ちてきた。全ては水煙に呑み込まれ、声を上げる間もなく蹈鞴《たたら》を踏む間もなく、目を閉じて気づくと、そこは廟堂の裏に広がる石畳の上だった。緑に覆われた山腹に、がらんとした石畳が広がり、穏やかに雲海から寄せる波の音がしている。  李斎は慌《あわ》てて周囲を見た。女仙たちに囲まれた泰麒、唖然としたような陽子と尚隆──ただ玉葉だけが、石畳の上に平伏していた。深々と叩頭した玉葉は、身体を起こす。李斎を振り返った。 「連れて戻られるがよい。泰麒はしばらく寝ついておられようが、王母がああ仰《おっしゃ》りあそばした以上、この穢瘁《えすい》は必ず治るゆえ」  李斎は玉葉を見返す。玉葉の臈長《ろうた》けた面には、委州の──驍宗の郷里で会い、永久に別れた少女と同じ種類の憂いが深い。 「……それだけなのですね?」  玉葉は無言で頷いた。 [#改ページ] 七 章       1  範《はん》の主従は李斎《りさい》たちの帰還を待って帰国し、淹久閣《えんきゅうかく》を泰麒《たいき》の病床として譲った。蓬山から連れ戻った泰麒は、相変わらず眠ったままだったが、延麒《えんき》や景麒《けいき》らが傍に寄れない、そういうことは最早《もはや》なかった。それを確認し、安堵《あんど》したように廉麟《れんりん》も漣へと戻っていった。 「お会いになって行かれないのですか」  李斎の問いに、旅立とうとする廉麟は首を振った。 「お顔なら拝見しました。御無事も確認しました。……ですから、もう。すべきこともない以上、国を空《あ》けている理由がありませんから」  ですが、と言いかけ、李斎は俯《うつむ》いた。金波宮《きんぱきゅう》に留まり、泰麒を捜すために割《さ》いてくれた時間は、本来なら漣の民のために使われるはずの時間だった。李斎らは、漣から宰輔を奪っていた。心情だけで引き留めることも、引き続き留まることもできるはずなどない。  それに、と廉麟は微笑《ほほえ》む。 「安堵したら、主上が恋しくなりました。早く戻って差し上げないと、主上も困っていらっしゃるでしょう。……ちっとも目が離せない方なんですよ」  李斎は微笑むことでこれに応じ、深く頭を下げて廉麟を見送った。その翌日には尚隆もまた、延麒を残し雁《えん》へと戻っていった。閑散としてしまった西園《さいえん》に、密《ひそ》やかに秋の気配が忍び寄ろうとしていた。  李斎はずっと泰麒の枕辺《まくらべ》についていた。李斎の手に余ることは、桂桂《けいけい》が手伝ってくれた。 「目を覚まさないね……」  萩《はぎ》の花を抱えてきた桂桂は、泰麒の寝顔を見て零《こぼ》した。目を覚ますことが在れば、一番に目に入るように、と桂桂は花の一枝を欠かさずに運んでくる。 「顔色はずいぶんと良くなられた」 「ほんとだね。……泰台輔は麒麟なのに金の髪じゃないんだね」 「黒麒《こっき》であらせられるからな」 「僕、ご病気でこんな髪になってしまったのかと思ったんだ。違うって陽子に教えてもらってほっとしちゃった」  そうか、と李斎は微笑んだ。 「泰台輔はもっと小さな人だと思ってたんだけど」 「大きくなられたんだ。最後にお目に掛かったのは六年も前のことだからな」  李斎《りさい》の目の前で眠っているのは、もう子供ではない。違和感がないと言えば嘘《うそ》になる。幼い泰麒《たいき》は戻ってこない。流れ去った六年の歳月を取り戻しようもないのと同様に。 「六年も辛いところにいらっしゃったんだね」 「……辛い?」 「だから、御病気になってしまったんでしょう?」 「ああ……そうか。そうなのかもな」 「戻ってこられて良かったね」  そうだな、と李斎は答える。その時、微かに泰麒の睫《まつげ》が動いた。 「……泰麒?」  ぱっと桂桂が身を乗り出し、泰麒の目が開くのを見て取って身を翻《ひるがえ》した。 「陽子に報《しら》せてくる!」  桂桂《けいけい》が駆け出していった勢いで、枕辺の萩《はぎ》が揺れた。開いたばかりの朦朧《もうろう》とした眼差しが確かにそれを目で追った。 「……泰麒。お気がつかれましたか?」  李斎は覆《おお》い被《かぶ》さるようにして、その顔を覗き込む。茫洋とした眼差しが李斎を見て、夢見るようにゆっくりと瞬いた。 「戻っていらっしゃいました。お分かりになりますか」  彼はしばらく呆然としたように李斎を見上げ──そして頷いた。 「……李斎?」  微かな声ももう、子供の声ではなかった。穏やかに柔らかい。 「はい……」  李斎は堪《たま》らず泣き崩れた。衾《ふとん》の下の薄い身体を抱きかかえた。 「李斎、……腕が」  抱き返してくれた手が、右の残肢に触れていた。 「はい。不調法で失くしてしまいました」 「大丈夫?」 「勿論です」  身体を起こそうとした李斎を、細い腕が引き留める。 「李斎……ごめんなさい」  いいえ、と李斎は答えたが、多分|嗚咽《おえつ》で声にならなかったと思う。  下官が外殿にやってきたのは、朝議の最中のことだった。下官に耳打ちされた浩瀚《こうかん》は、ひとつ頷き、失礼を、と言って壇上に登った。陽子に一言、耳打ちをする。  そうか、と答えて陽子は頷いた。浩瀚《こうかん》が降り、議事の続きに戻ったところで、背後に控えた景麒《けいき》を呼ぶ。 「……景麒」  怪訝《けげん》そうに身を屈めた景麒に、陽子は小声で告げた。 「泰麒が目を覚ましたそうだ」  景麒は目を見開く。 「退出を許す。……行ってこい」  しかし、と押し殺した声で答える僕《しもべ》に、陽子は笑う。 「いいから」  半ば狼狽《うろた》えて外殿を退出し、景麒は淹久閣《えんきゅうかく》へと向かった。臥室《しんしつ》に辿り着くと、そこにはすでに延麒六太の姿があった。 「……景台輔」  臥牀《ねどこ》の中から掛けられた声には聞き覚えがない。向けられた顔も見知らぬ者のよう、景麒は幾度となく寝顔を見に来た時と同じく、困惑せざるを得なかった。躊躇しながら景麒が枕辺に立つと、ちらりと笑みを残し、黙って六太が退出する。牀榻《ねま》にただ二人残され、景麒はかえって居場所を失ってしまった。 「たくさん御迷惑を掛けてしまったようで、申しわけありません」 「いえ……その、もう宜《よろ》しいのですか?」 「はい。李斎をお助けくださったこと、私をお助けくださいましたこと、心からお礼を申し上げます」  静かに言われ、景麒はますます当惑した。面差しが違って見えるのは勿論のこと、零《こぼ》れるような笑みもなく、稚《いとけな》い口調もない。あの小さかった麒麟はいないのだ、と思うと、喪失感で胸が痛んだ。 「……私の働きではありません。全ては主上のなさったことですから」  顔を伏せて言ってから景麒は、泰麒と会った当時に仕えていた王が、もういないことを思い出した。それほどにも長い歳月が経った。 「景王は胎果でいらっしゃるとか」  そうとだけ言ったのは、事情を誰かから聞いているからだろうか。 「はい。あの……泰麒にたいそう会いたがっておられました。今は朝議の最中で、いらっしゃれないのですが……じきに」  そうですか、という言葉に、景麒は話の接《つ》ぎ穂《ほ》を見失ってしまった。目のやり場に困って牀榻《ねま》の中、視線を泳がせていると、密《ひそ》やかな声がした。 「……長い辛い夢を見ていました」  景麒がはたと振り返ると、病み衰えたふうの顔が微かに笑う。 「覚えていらっしゃるでしょうか。景台輔と初めてお会いしたとき、僕は何もできない麒麟でした」 「……ああ……ええ」 「たくさん親切にしていただいて、たくさんのことを教えていただいて、なのに何も覚えられなくて……景台輔がお戻りになってから、やっと覚えることができたのに、また全部、失くしてしまいました……」 「泰麒」 「辛い夢の中で、僕はずっと蓬廬宮《ほうろぐう》の夢を見ていました。……とても懐かしくて、とてもお会いしたかった……」  言って彼は景麒を見る。かつてのように、真摯そのままの眼で。 「……僕は間に合うでしょうか」 「──泰麒」 「たくさん時間を無駄にしました。なにもかも失くしてしまいました。それでも間に合うでしょうか。僕にもまだできることがあるとお思いになりますか」 「勿論です」  景麒は力を込めて告げる。 「そのために戻っていらしたのでしょう。泰麒がこうしておられるのは、まだ希望が潰《つい》えていないことの証《あかし》です。ご案じなさいますな」  はい、と彼は景麒の言葉を噛《か》みしめるように目を閉じた。       2 「……泰麒《たいき》?」  陽子が間近から見た彼は、はい、と頷く。窶《やつ》れたふうは深かったが、それでも彼は臥牀《ねどこ》の中に起きあがって、しっかりとした様子を見せていた。 「景王でいらっしゃいますか?」 「……中嶋《なかじま》、陽子《ようこ》です」  陽子の言に、彼はちらりと笑う。 「高里《たかさと》です」  陽子は息を吐いた。狼狽《うろた》えるほど奇妙な気分がしていた。 「不思議な感じだ……同世代の人と、こんなところで会うなんて」 「僕もです。──たくさんお世話になって、ありがとうございました」 「お礼を言われるようなことじゃ……」  陽子は言いよどみ、目を伏せる。 「そう──お礼を言われるほどのことができたわけじゃない。少なくとも戴のためには、まだ何もできてないに等しいから」 「僕は感謝しています。連れ戻してもらえて」 「だったら、良かった」  陽子はしばらく口を噤《つぐ》んだ。会ったら話をしてみたいことが、たくさんあったように思う。故国のことを──あれもこれも。だが、こうして泰麒を目の前にすると、あえて話すべきことが見つからなかった。  もう戻ることのない故国だ。陽子とは無関係の世界になってしまった。他愛もない話題を見つけて懐かしむにはまだ生々しい喪失。変に語れば、里心に駆られそうで怖い。そう──多分、陽子が向こうで持っていた家族や同級生や、そんなものの全てがきっと死に絶えた頃にならなければ、ただ懐かしく思い出すために語り合うことなど、できないような気がする。 「向こうは……きっと変わらないのだろうな」  ──元気でいるだろうか、あの人々は。 「そうですね。波風はあっても形が変わるほどではなかったです」 「そっか」  ──ならば、それでいい。  陽子は息を吐き、笑った。 「いま、戴のために何ができるかを相談している。荒民《なんみん》に対する援助は当然のこととして、何とか本国に残った民を救う方法も考えなくてはならない。本当は助けに行けるといいのだけれども、どうやらそれはできないようなので」 「本当にありがとうございます」 「いや。……これは戴のためにだけ、やっていることではないから。それに、お礼を言われるほどのことはできていないんだ。慶はまだ貧しくて。かなりの数の荒民がいるのだけれども、その救済ですらままならないし」  ただ、と陽子は笑った。 「泰麒が戻ってくれて心強いとは思ってる。実は当てにしているんで、できるだけ養生してください」 「僕を?」 「そう。私はいろんなことを言うのだけど、どうもこちらの人にとって、それが全部、突飛なことらしいんだ。たとえば──戴の荒民を救済するため、大使館のようなものを開けないだろうか、と言ったら、諸官にも延王、延麒にも唖然とされてしまった」 「……大使館ですか?」  目を見開いた泰麒に、半ば照れて、陽子はうん、と頷いてみせる。 「そんなに変なことじゃないと思うんだけどなあ……。荒民《なんみん》にだって利益を代弁してくれる組織があるべきだと思うんだ。たくさんの荒民が慶や雁に流れ込んでいるわけだけど、荒民はこちらの事情や都合任せで保護されている。でも、こうして欲しいとか、これはこうならないだろうか、って国に対して掛け合うことができてもいいと思うんだが。どうすれば助かるのかは、荒民自身が一番良く知っているわけだし。最終的には、国が荒れて荒民が生じた時のために、各国に各国の大使館があると安心なんじゃないかと思うんだけど、どうも突飛すぎて理解を得られないみたいなんだな……」  陽子が溜息をついて顔を上げると、泰麒はまじまじと陽子を見ていた。 「……あれ。やっぱり変かな?」 「いえ……そうじゃないです。景王はすごいな、と思って」 「すごいと言われるようなことじゃ……その景王っていうのは、やめてもらえると。同じ日本の男の子だと思うと、何か気恥ずかしい感じ」  泰麒は微かに笑う。 「中嶋さんは、いくつですか」  そう呼ばれると、妙に擽《くすぐ》ったかった。 「ええと、泰麒よりもひとつ上かな。……歳を数えても意味がないんだけどね」  言ってから、陽子は、あ、と声を上げた。 「高里君、と呼んだほうがいいのかな?」 「僕はどちらでも……。小さい頃に一度戻って、その時から泰麒でしたから、あまり違和感はないんです」 「そうか……。私はこちらに来て三年にならない程度だから、泰麒に比べたらぜんぜんもの慣れない部類だな」 「実際にいたのは、一年ですから」  泰麒の声音には懐《なつ》かしむよりも惜《お》しむ色の方が深かった。 「……じゃあ、余計に当てにさせてもらおうかな。もともと私はあちらで、政治とか社会の仕組みにぜんぜん興味を持っていなかったから、漠然とした知識や、思いつきだけでものを言っているところがあって」 「僕もそんなに変わらないだろうと思います。こちらのことは分からないに等しいので。僕がこちらにいたのはたった一年で、半分は蓬山でしたし……。戴にいたのは本当に僅かのことで、しかも子供で、だから社会のことがまるで分からなくて、右往左往しているしかなかったんです」 「それはこれからだよ。いろいろ知恵を貸してもらえると嬉しい。特に、泰麒には当面、戴の荒民の代弁者になってもらえると」 「……はい」  泰麒が頷いた時だった。隣で騒がしい物音がした。李斎の、何事ですか、という叫びが聞こえた。変事か、と陽子が腰を浮かすと同時に臥室《しんしつ》の扉が押し開けられた。       3  臥室に乱入してきたのは、数人の男たちだった。その先頭にいる人物を見て、陽子は眉を顰《ひそ》める。それは内宰《ないさい》だった。天官の中で、宮中|内宮《ないぐう》を司る長。その背後にいるうちの二人は禁門でよく顔を見る|※[#「門<昏」、unicode95BD]人《こんじん》だった。 「──何事だ」  問うまでもなく、来意は明らかだった。彼らはその手に剣を提《さ》げている。 「これは……どういうことか」  乱入者を睨《にら》み据《す》えると、男たちは切っ先を上げた。 「貴女は、慶を蔑《ないがし》ろにしすぎる」  言ったのは内宰だった。 「予《よ》王ほどの暗愚《あんぐ》でないことは認めよう。だが、貴女は国や官を軽《かろ》んじすぎる。素性の知れない民草《たみくさ》を重んじ、慣例を踏みにじり、国の威信も官の誇りも意に介さない」  そうだ、と|※[#「門<昏」、unicode95BD]人《こんじん》の一人が落ち尽きなく剣を握って身を屈めた。 「半獣《はんじゅう》ごときを人並みに扱い、朝への登用を許したのみならず、選りに選って禁軍の将にまでするとは」  陽子は顔に朱が昇るのを感じた。 「半獣ごとき、だと」  咄嗟《とっさ》に剣を取ろうとしたが、水禺刀《すいぐうとう》は置いてきたことを思い出した。 「諸官の体面に泥を塗り、半獣や土匪《どひ》を宮中深くに連れ込んで宮城を汚した。威厳ある官吏を軽んじ、半獣や土匪を重んじて側に侍《はべ》らすのは、結局のところ、己には官が眩《まぶ》しく煙《けむ》たいからであろうが。半獣や土匪相手ならば、己の不足を引け目に思う必要はないからな。諸国の王や台輔を集めて浮かれていれば、己もその仲間になったような心地がするか。──思い上がりも甚《はなは》だしい。いつまでもそんな振る舞いを天が許すと思わぬが良かろう」  陽子は絶句した。ただ目を見開き、喘ぐしかない陽子に代わり、よせ、と※[#「門<昏」、unicode95BD]人を制したのは内宰だった。 「……口汚くて申し訳ないが、そういう見解のあることはご承知願いたい。私は貴女をそこまで見下げはせぬが、他国の王や宰輔を頻繁に王宮に入れることは承伏できない。戴の将軍を匿《かくま》い、そうやって戴の宰輔を保護するが、貴女は自分が慶の王であることをお忘れではないか。これほど他国の王が出入りするのは何故《なにゆえ》か。貴女は慶を他国に譲り渡すおつもりか」 「……違う」 「では、なぜこうも他国のものが、王宮の深部を我が物顔で闊歩する。貴女は慶の国の民を、なんだと思っていらっしゃるのか」 「所詮は女王だ」  一人がそう吐き捨てた。 「私情で国を荒らす。今のうちに正しておかねば、予王のようになる」  陽子は怒りのあまり身体を震わせ──そして、唐突にそれを突き抜けてしまった。  深く虚脱した。民も国も蔑《ないがし》ろにしたつもりはない、むしろ民と国のためを思ったのだと、ここで訴えることに何の意味があるのだろう、という気がした。内実を知りもせず──と怒ることは容易《たやす》いが、本来、内実とは他人に窺《うかが》い知れないものだろう。事実、陽子だって、このような不満を抱いてきた官の内実を察することはできなかった。  ──こんなものか、という気がした。  誰もがその行為、その言動から他者の内実を推し量るしかないのだし、こうに違いないという評価が決すれば、その評価だけが一人歩きを始める。すでに確信を抱いている者、確信を疑う気のない者に何を訴えても届くとは思えない。 「つまりは……今のうちに弑《しい》しておこうということか」  陽子が問うと、内宰らは僅《わず》かに怯《ひる》んだ。 「そうすると、というなら仕方がない。戦う術があれば抵抗するが、生憎《あいにく》剣は内殿に置いてきた。──抵抗のしようもないようだ」 「今更、ものの分かった振りをするな!」  |※[#「門<昏」、unicode95BD]人《こんじん》の声を、苦笑混じりに聞く。 「……どう捉《とら》えても構わないが、泰台輔と劉《りゅう》将軍には危害を加えないでもらいたい。彼らの存在が慶の何かを傷つけるというなら、放り出せば十分だろう。慶に民がいるように、戴にも民がいる。自国の憂いを取り除くのはお前たちの権利のうちだが、他国の民にまでその結果を押しつける権利はない。必要以上に、戴の民を苦しめるようなことはしないでもらいたいのだが」  内宰は冷ややかに陽子と泰麒とを見比べた。 「戴は国が荒れているとか。その最中に、自分たちだけが国を見捨て、他国の保護を受けてぬくぬくとしているような台輔と将軍を失って、戴の民が嘆くとは思えないが」 「それは戴の民に決めさせてやったらどうだ? 戴の民も同じように感じるのであれば、自らの手でお二人を討とうとするだろう。……そういうことで、お二人にまで手を掛けるような真似はしないと約束してもらえないか?」 「約束はできかねるが、努力はしよう」 「せめて、ここを出よう。麒麟の傍《そば》で殺生は控えよ」  待ってください、と背後から腕を握る手があったが、それは振り解《ほど》いた。 「……当の民がいらないと言うのなら、あり続けようとしても仕方がない」  さらに追《お》い縋《すが》ってきた手を、※[#「門<昏」、unicode95BD]人の一人が引き剥《は》がした。内宰らに連れられ、陽子が寝室を出ると、数人に取り押さえられた李斎《りさい》が青い顔をしていた。  ──できれば、自分たちのせいだと、あまり深く気に病まないでもらえるといいのだが。  思ったときに、いきなり横に突き飛ばされた。  驚く間もなく背後で悲鳴と叫びがする。転倒した体《たい》を起こして振り返ると、足許へごとんと鈍い音を立てて剣を握った腕が転がってきた。  叫びがした。李斎に剣を突きつけていた男が、切《き》っ先《さき》を陽子に向けて突進してくるところだった。その切っ先が届く前に、男の胸郭を貫いて獣の前肢が突き出てきた。鋭利な爪を真っ赤に塗らしたそれが抜けると同時に男は頽《くずお》れ、何者かがいたはずの背後には何の姿もなく、ただ遠くに凍りついたように立ちすくむ泰麒の姿だけが見えた。 「──抵抗ぐらい、なさってください!」  陽子が振り返ると、蒼白になった景麒が駆け込んでくるところだった。堂室《へや》の中には数人が転がり、悲鳴を上げた数人が血糊を踏んで逃げ出していく。 「都合良く現れたな……」  陽子は坐り込んだまま苦笑した。 「延台輔が使令《しれい》を残しておられたのです。なぜ抵抗なさらないのですか」 「……丸腰だったからな」 「剣がなくても、抵抗ぐらいは──だから冗祐《じょうゆう》を手放すのはおやめくださいと」 「うん。……まあ、とにかく助かった。ありがとう」  陽子が言うと、景麒は恨みがましく陽子を見てそっぽを向いた。 「主上のお側にいると、絶えず使令が汚れて困ります」  悪い、と笑って陽子は李斎と泰麒を見る。 「……申し訳ない。とんだところをお見せしてしまった」 「いえ──大丈夫なのですか?」  弾《はじ》かれたように李斎が駆け寄ってくる。 「うん。怪我はない。それより李斎、泰麒をどこかへ。ここにいては身体に障《さわ》る。景麒、お前もだ」  陽子は立ち上がり、床に倒れた男たちを見た。  内宰は絶命している。他の二人もどうやら息はないようだった。三人は深手を負っているが、とりあえずまだ命はある。  ──死んでもいい気がした、というのは、たぶん真実ではない。  だが、虚脱したあまり、何もかもどうでも良くなったのは確かだ、と陽子は思う。抵抗するのも怒るのも面倒だった。乱入者に対峙《たいじ》するためには、自分は愚王ではない、と言い張らねばならなかったが、それができるような自身も自負もありはしない。かつてなら、天意がある、だから王だ、という気概を持てもしただろうが、陽子はこのところ天意を奇蹟の一種と見なすことができなくなっていた。そうしたいなら、それも良い。これで重責から解放されるなら、それでもいいか、という気がしていた。 「逃げた連中は取り押さえたぜ」  建物を出てみると、六太がやってくるところだった。そのさらに背後からは、兵が駆けつけてきたのだろう、荒々しい喧噪《けんそう》がする。引っ立てられていくのだろう、呪いの言葉を吐き散らす※[#「門<昏」、unicode95BD]人の甲高い叫びが聞こえていた。       4 「謀反《むほん》に参加したのは、天官ばかりが十一人、首謀者は内宰《ないさい》で、どうやらこれが全てだったようです。怪我人は三人、逃げ出した五人は取り押さえてあります」  |桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》の説明を受けながら陽子が内殿に戻ると、虎嘯《こしょう》が大きな体を縮めて待っていた。陽子の顔を見るなり、その場に平伏する。 「本当に──済まない」 「……どうしたんだ?」  瞬く陽子に、桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は苦笑する。 「謝らせておやんなさい。確かに、あの場に大僕《だいぼく》も小臣《しょうしん》もいなかったのは落ち度だ」 「だが、私が人払いをしたんだ」 「だからといって、目を離しちゃならなかった」  虎嘯は言って顔を上げる。 「虎嘯のせいじゃない。そもそも虎嘯の職責じゃないだろう」  王の警護は夏官の中でも射人《しゃじん》、特に司右《しゆう》の職責だった。公《おおやけ》においては司右の下官である虎賁氏《こぶんし》が、私《わたくし》においては大僕《だいぼく》がそれを指揮する。ここで言う「私」とは、内宮《ないぐう》を指す。内宮とは、王宮の最深部に当たる後宮《こうきゅう》及び、東宮《とうぐう》、西宮《せいぐう》を含む燕寝《えんしん》と、正寝《せいしん》、仁重《じんじゅう》殿、禁門に至る路寝《ろしん》、そして内殿と外殿までを言う。その外側を外宮《がいぐう》と言い、ただし、内殿と外殿を含む。本来、王は内宮の最も表に当たる外殿までしか出ないものだ。そして臣下は、原則として外宮の最も奥に当たる内殿までしか立ち入ることができない。 「大僕の仕事は内宮における警護だろう。西園《さいえん》は掌客殿の一部だ。あれは外宮であって内宮じゃない」 「それはそうなんだ……だけど」  すっかり肩を落とした虎嘯の背を宥めるように叩き、桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は、 「詫《わ》びの言葉ぐらい聞いてやらないと、虎嘯も立場がないですよ。──確かに西園は外宮ですから、虎嘯《こしょう》の管轄外です。そもそも普通は、公式の行事がある場合でなければ、王は内宮を出ないものです。公務で出る場合は、虎賁氏《こふんし》が警護につく。ところが、今回主上が西園でやっていたことは、公務の範疇に入らない」 「それはそうだろう。法や礼典に基づく行為じゃなかったわけだから。公式には賓客はいないことになっていたし、だから本来、掌客殿に客人を訪ねるときに踏むべき手続きも全く踏まなかった。そもそも李斎《りさい》を王宮に入れたところから、完全に慣例や礼典無視の手前勝手な振る舞いだ。……私が悪かった」  陽子はそう詫びたが、|桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》は大仰に顔を顰《しか》めた。 「王様ってのは、手前勝手なものに決まってます。そうでなきゃ、国が荒れたり倒れたりする道理がない。あれは公務ではなかったのだから、虎賁氏の職責ではなかった。それでも警護は必要だったわけだし、虎賁氏と大僕と、どちらがそれに就《つ》くべきかと言うと、大僕だったはずだ、ってことです」  虎嘯はしゅんと項垂《うなだ》れる。 「そういうことなんだ。……それが何しろ、あそこにおられたのは、他の国の王様や台輔ばかりで、俺には敷居が高かったし、事が事だけに、俺が覗《のぞ》き見をしたり立ち聞きをしたりしちゃならないような気がしてたんだ。陽子が親しい奴のところへ一人でほいほい出掛けるのは、内宮じゃよくあることだし、だから──気を抜いてたんだよなあ」  虎嘯らは、西園にはいるまでを警護して、そこから先は遠慮していた。西園への往復を警護すればそれで良いのだと、思っていたことは否《いな》めない。 「それは虎嘯の落ち度だぞ。内宮で警護にぴりぴりしないでいいのは、そもそも危険な人間を一切踏み込ませてないからだ。内殿や外殿なら人目もあるし、宮毎、建物毎に護衛が付いている。だが、西園ではそうはいかん。今回のように、公式においでにならない賓客がある場合には礼典に則《のっと》った警護も置けない。燕朝《えんちょう》に出入りできる者なら誰だって西園に近づくことができたし、実際そうなったわけだろう」  うん、と虎嘯は頷いた。桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は苦笑いし、 「虎嘯には大僕として落ち度があったのだから、謝らせてやらないといけませんよ。その上で、小官から奏上させてもらいたいんですが」 「何だ?」 「今度の件には主上のほうにも落ち度があった。何事にも堅苦しくなく、鷹揚でいらっしゃるのは主上の良いところだとは思いますけど、則《のり》を気軽に無視なされば、こういう弊害が出る。周囲の官には、官としての職分というものがあって、主上のように一存でそれを無視するわけにはいかないんです。慣例や則を無視なさると、慣例や則で枠をはめられた官は蹤《つ》いて行きようがなくなる。なので、この件については、大僕を咎《とが》めないでやってください」 「……結局、そういう話か?」 「言っておきますけど、虎嘯《こしょう》に詫びさせないことと、虎嘯を許すことは別物ですよ。主上はそのへんが杜撰《ずさん》すぎます。虎嘯に詫びさせないのは、落ち度をなかったことにすることです。仮にも王が、罪や怠慢をなかったことにしたらいけませんよ。周囲の者だって、それじゃあ納得しない。偏《かたよ》った寵だと言うに決まってるし、虎嘯だって立場がない」 「ああ、……そうか……」  呟いたところに、浩瀚《こうかん》が入ってきた。 「なんだ──お前たち、ここにいたのか」  言って浩瀚は、真っ先に虎嘯に向かう。 「大僕にはこの度の責を取って、三月の謹慎を申しつける」  待て、と陽子が口を挟《はさ》もうとすると、 「だが、台輔のたっての請願もあり、主上も則を乱して大僕の職分を混乱させたことを認められた。大僕には、逆賊を捉えた手柄もあるので、罪を相殺して不問に処す。──ということにしようと、有司議《ゆうしぎ》では一致しましたがいかがでしょう」  浩瀚は平然と言って陽子に向かう。 「則を乱して、というところか? それはたった今、|桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》に叱られたばかりだ」 「では、これで?」  いいよ、と陽子は苦笑する。桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は声を上げて笑い、捕らえた罪人は秋官に引き渡してある旨、浩瀚に報告すると、虎嘯の背中を叩き、引き連れて出て行った。  それを淡々と見送り、浩瀚は書面を差し出す。 「……内宰は、そもそも現状に不満が強かったようですね。彼はもともと内小臣《ないしょうしん》で、内宰の下、王と宰輔の身辺の世話を一手に取り仕切っていました。主上が抜擢なさって内宰に位を進めたわけですが、現在のところ路寝における主上の側仕《そばづか》えからは閉め出されている。内小臣の時代から、自分は路寝に侍ることができる、それが彼の誇りであったのに、それを踏みにじられて我慢がならなかったようです」  そうか、と陽子は溜息と一緒に零《こぼ》した。 「……おまけに王は、素性の知れない臣下を重用し、則も何も無視して、何やら窺い知れないことを側近とだけやっている……まあ、不満に思って当然なのだろうな」  あの謀反に参加した者は、いずれも天官だった。天官は国の運営に直接の係わりを持たない。王と宰輔の世話をし、宮中の諸事を司ることが職務だ。あるいは、王にそれだけ近い、という誇りの持ち方をしなければ、やっていけないものなのかもしれない。 「もしもそれが、内宰らに対する同情なのでしたら、そんなものはお捨てになることです」  素っ気ないが、強い口調に驚いて、陽子は浩瀚を見た。浩瀚は軽く眉を上げる。 「内宰らが西園に踏み込んだ経過は、劉将軍と泰台輔にお聞きしました」 「相変わらず手回しがいいな」 「それだけの大事だということです。──念のためにお聞きしておきますが、まさか主上は内宰らの言い分にも一理ある、などとは思ってはいらっしゃらないでしょうね?」  陽子は目を伏せる。 「あるんじゃないのかな。……彼らは実際のところを知り得なかったわけだし、知らずに私の行動だけを見れば、あのように思っても仕方ないと思う。慶のためにならない王だと言われれば、そう思うのであればそうなのだろう、としか答えようがない。まさか、そんなことはない、私は慶のためになる王だ、なんてことを断言できるはずもないだろう。それは私が判断することじゃないからな」 「では、説明申し上げます」  浩瀚はさらりと言って、書面を書卓《つくえ》に放り出す。 「まず、主上が良い王であるか否か──これは見る人にもより、見る時にもよりましょう。ただ、今回の件に関しては、主上がいかなる王であるかは問題ではございません。剣をもって人を襲うと決めた時点で道義の上では有罪、その罪人に正義を標榜して他者を裁く資格のあろうはずがない」 「それは……そうだろうが」 「そもそも、私共が内宰らを路寝から閉め出したのは、このような事態があることを懼《おそ》れてのことです。信用できる者でなければお側には上げられない、それが官の一致した見解であり、お側に上げ、重用できるほど彼らに信用が置けなかった、ということです。信用がならない、と判断したのは、彼らの為人《ひととなり》を見てのことでございますね。そして、その判断が誤っていたとは思われません。第一に──半獣ごとき、土匪ごとき、と?」  浩瀚は陽子を見る。 「そのようなことを考える者は、必ず権を振り翳《かざ》す。それに権威を与えるわけには参りませんでしょう。振り回すと分かっている者に、刃物を持たせる者などいない。第二に、それを口にすることを恥じない者に、道のなんたるかが分かるはずもなく、道を分からない者に国体に参与する資格などございません。第三に、実情を知らない者には、批判する資格はございません。にもかかわらず、実情を知ろうとするより先に、憶測で罪を作り、その罪を元に他者を裁くことに疑問を覚えない者に、いかなる形の権限も与えるわけにはいかない、これが第四。さらに第五、そのような自己の不明、不足を自覚せず、己の不遇を容易く他のせいにして弾劾《だんがい》する者に信を置くことなどできかねる。ましてや、法に悖《もと》り道に悖る手段でそれを完遂しようとする人物は危険人物だと言わねばなりません。危険な人物を主上の周囲に侍《はべ》らせるわけには断じて参りません。これが彼らを重用しなかった理由の第六ですが、何か間違っておりますか」  陽子は半ば呆れた気分で、浩瀚を見返した。 「彼らの常日頃の言動を見れば、お側に上げられるほど信用できる者には見えなかった。ゆえに路寝からは閉め出したのだし、それが間違いではなかったことを、図らずも自ら証明したということでございますね」  陽子は書卓《つくえ》に肘《ひじ》をつき、両手の指を合わせる。 「……あえて訊く。もしも彼らを重用していたら、彼らもあんな行動には至らなかったとは思わないか?」 「こちらこそお訊きします。報《むく》われれば道を守ることができるけれども、報われなければそれができない。──そういう人間をいかにして信用しろと?」  陽子は上目遣《うわめづか》いに浩瀚を見たまま、両手の指先を打ち合わせる。 「目が届いていると、言い切れるか? 功を見逃し、たまたま目にした罪だけを取り上げていないと?」  浩瀚は冷淡な目で陽子を見る。 「それは私に対する侮辱《ぶじょく》でございますか? 主上もご存じの通り、私は信の置ける者を、国の主だった官として取り上げる一方で、あえて下官としても働かせております。官で言うなら上、中、下士、兵で言うなら伍長でございますね。そうやって端々《はしばし》まで目を配っているつもりですが、それにご不審がおありか」 「……悪かった」  陽子が詫びると、浩瀚は息を吐いて微苦笑する。 「結局のところ、その人物の為人《ひととなり》の問題でございますよ。そしてそれは、その者がいかに振る舞い、生きているかにかかっているのです。常にそれを問われている。必ず誰かが見ているのですから。そして信ずるに足るものであれば、喜んでその行為に報います。それは、李斎殿の例を見ればお分かりでしょう」 「……李斎の?」 「主上はなぜ李斎殿に手をお貸しになったのですか?」 「なぜ、と言われても」 「金波宮に転がり込んで来られた、その時の無惨な様子を御覧になったからではないのですか。李斎殿がああも傷ついておられたのは、妖魔の巣窟と化した垂州を越えて来られたせい、李斎殿があえてそれを成されたのは、それだけ戴を救おうと必死になっておられたことの証左ではないのですか?」 「それは……勿論」 「戴を救って欲しいと、李斎殿は主上に訴えられた。しかしながら、他国に武をもって入ることは覿面《てきめん》の罪を意味します。──あるいは李斎殿はもとよりそれを承知だったのかもしれません」 「……浩瀚」 「承知で主上の情に訴え、罪を唆《そそのか》すためにやって来られたのかも。ひょっとしたら、そんなことはご存じなかったのかもしれないし、失念しておられたのかもしれない。たとえ承知で罪を唆すためにやって来られたのだとしても、それだけ必死だったということなのかもしれないし、あるいは、戴さえ良ければ慶など知ったことではない、というだけのことだったのかもしれない。李斎殿の内実は、私などには分かりかねます。それでも、主上が李斎殿のために労と時間を割かれることに、私は反対いたしませんでした」 「……ああ」 「それは李斎殿の言動を拝見していたからですね。主上に対する態度、我々に対する態度、あるいは虎嘯に対する態度。なにかにつけて発せられる言葉、行われる行為、それらのものから考えて、私には李斎殿が戴さえ良ければ慶など知ったことではない、と考えられるような方には見えませんでした。私は未だに李斎殿の内実を知ることはできませんが、もしも罪を承知で来られたのであれば、それだけ必死でいらしたのだろう、けれどもその罪深さを自覚なさったのだろう、と思っております」  うん、と陽子は頷いた。 「結局、そういうことでしょう。自身の行為が自身への処遇を決める。それに値するだけの言動を為すことができれば、私のような者でも助けて差し上げたいと思うし、場合によっては天すらも動く。周囲が報いてくれるかどうかは、本人次第です。それを自覚せず、不遇を恨んで主上を襲った。こういうのは、逆恨《さかうら》み、とこちらでは申すのですが」 「……蓬莱でもそう言うみたいだよ」 「逆恨みの挙《あ》げ句《く》、剣を持ち出すような者の意見に耳を傾けるだけの理があろうはずがございません。──これもまた、本人の言動が報いるに値するかどうかを決する、という実例でございますね」       5 「──お身体はどうですか?」  李斎が夕餉《ゆうげ》を抱えて臥室に入ると、泰麒は起き上がって窓の外を見ていた。李斎が一時、身を寄せていた太師の邸宅にある客庁《きゃくま》だった。  大丈夫です、と振り返った泰麒は、しっかりした振る舞いをしているものの、どこか影が薄いように見えてならなかった。その不安を振り払うように、李斎は笑う。 「さっき……台輔が眠っていらっしゃるとき、景王がいらして、大変恐縮してらっしゃいました。また穢《けが》れに当てるようなことがあって申し訳ない、と」 「……彼女のせいではないのに」  そうですね、と李斎は食卓を整える。 「景王は慶の民のことを考えられたからこそ、ああなさったのに……。王であり続けることは大変なことなのだと、この頃、とみにそう思いますむ 「……本当に」  言ってから、しばらく泰麒は口を噤《つぐ》んでいた。やがて、口を開く。 「……李斎、戴へ戻りませんか」 「──はい?」  李斎は最初、泰麒が何を言おうとしたのか分からなかった。首を傾げて聞き直そうとした李斎を、泰麒はひどく真摯な目で見返してきた。 「僕たちは、これ以上の御迷惑を慶にかけることはできません」  李斎は愕然としながら、その言葉を聞いた。泰麒が何を言おうとしているのかをやっと悟って顔面から血の気が引くのを感じた。 「待ってください……台輔、でも」 「慶の波乱の種子になることはできません。これまでにも十分良くしていただいたし、大変なご迷惑をおかけしました。あとはもう、僕らだけで何とかしなければならないところへ来ているのだと思います」 「けれど台輔……そんな、いけません。台輔はまだお身体も。いいえ、そればかりでなく、失礼ながら使令も角も──」  李斎は激しく狼狽《ろうばい》していた。何としても止めねばならぬ、と思った。──そう、李斎はずっと泰麒を捜し出すことができれば、泰麒を伴って戴へ帰るのだと漠然と思っていた。泰麒がいれば王気を頼りに、驍宗《ぎょうそう》を捜《さが》すことができる。だが、泰麒は角を失い、麒麟としての本性を失った。使令も持たない。そして戴は今や、妖魔と兇賊の巣窟であり、李斎には利き腕がない──。  内宰らが起こした事件は、李斎に失ったものの大きさを再確認させた。武器を持った輩《やから》が踏み込んできて、選《よ》りに選《よ》って大切な泰麒と大恩ある景王がいる臥室へ踏み込もうとしていたのに、李斎はそれを止《とど》めることができなかった。武人のようにも見えない者たちに、易々と取り押さえられ、拘束されているしかなかったのだった。  病み上がりで身体が思うようにならないことを差し引いても、李斎はもはや武人として何の役にも立たないことは確実だった。戴へ泰麒が戻ったとしても、その泰麒を守ることさえできない。それはもとより承知していたことだが、ここまで自分が無力になっているとは思わなかった。漠然とそう知っていることと、それを自覚することはこんなにも違う。李斎はそのことに量り知れない衝撃を受けていた。 「駄目です、台輔──。お気持ちは分かりますが、台輔を戴へお帰しするわけにはまいりません。せめて、お身体をお厭《いと》いになって……そう、その間に李斎が荒民《なんみん》から人手を募りましょう。多少なりとも手勢を集めて──」  泰麒は首を横に振った。 「確かに僕には何の力もありません。けれども李斎、僕らは戴の民です」  李斎は立ち竦《すく》む。 「戴は神々すら見放した国です。……そうなのでしょう? 主上はおられず、諸国の善意は届かず、天も戴のために奇蹟を施してはくれません。麒麟ももういないに等しい。それでも戴にはまだ民がいます。李斎と僕と」 「民だなんて──たとえ角を失っておられても、台輔は我が国の麒麟です。台輔は私共の希望です。簡単に失うわけには参りません。戴へ戻り、誰かが主上を捜さねばならず、民を救わねばならないというのであれば、李斎が参ります。──いいえ、李斎はもとよりそのつもりでした。ですが、台輔には安全な場所にいていただかなくては。どうぞお願いです、戴へ戻るなどという……そんな危険なことを」  泰麒と李斎が喪失してしまったもの──そればかりではない。李斎はもうひとつ、大きな危惧《きぐ》を抱いていた。  鴻基《こうき》で異変が起こった直後、李斎は乱を平定するために承州へ向かい、その途中で二声氏を保護した。この二声氏の証言によって阿選の謀反が明らかになった。同時に李斎は、このことによって大逆の汚名を着ることになったのだが、それよりも辛かったのは、なぜ李斎が二声氏を保護したことが阿選に知れたのか、ということのほうだった。李斎が密書を向けたのは、芭墨《はぼく》と霜元《そうげん》の二名だけ。内容が内容だけに、両者とも迂闊な人間に報《しら》せはすまい。おそらくは驍宗《ぎょうそう》麾下《きか》の限られた人々だけが李斎の報せた内容を知った。そしてそれは、阿選に筒抜けだったのだ。  仮にも驍宗麾下の者たちが、間諜や盗聴に無頓着だったとは思えない。彼らは秘密裏に集まり、十分に注意して密談を持ったはずだ。にもかかわらず、それが阿選に漏《も》れたということは、その中に阿選に通じていた者がいたということを意味しないか。  ──驍宗は、自らの麾下の中に、裏切り者を飼っていたのだ。  李斎は目の前で真摯な目を向けている泰麒を見返す。泰麒にこの忌まわしい事実を知らせたくはなかった。だが、戴は二重に危険だ。戴に入れば、何とか麾下と連絡を取り、手勢を作っていかねばならないが、その中には裏切り者が潜《ひそ》んでいるかもしれない。それは知古の顔をして泰麒の側に現れるやもしれず、そしてその者から泰麒を守る術が、李斎にはない。  駄目です、と譫言《うわごと》のように繰り返すしかない李斎に、彼は困ったように微笑んだ。 「李斎はちっとも変わらない」  李斎は首を傾げた。 「常に僕のことを心配してくれて、恐ろしいことや辛いことから遠ざけようとしてくれる。驍宗様がおられなくなったときもそうでした」 「……台輔」 「僕はとても驍宗様のことが心配だった。なのに誰も本当のことを教えてはくれなかった。いえ……李斎の言ってくれたことが本当のことだったのかもしれません。けれども僕は、周囲の大人たちが、常に僕の目から恐ろしいことや辛いことを隠そうとすることを知っていました。だから、恐ろしいこと、辛いことを耳にいれてくれた阿選を頼りにした……」  李斎は、はっと息を詰めた。 「阿選は、驍宗様が危険だ、と言いました。あの日には……とうとう伏兵に襲われて大変な窮地に陥《おちい》っている、と。僕には無事文州に到着したと報せてくれた、李斎たちの言葉を信じることができなかった。到着する前に急襲を受け苦戦している、という阿選の言葉を信じました。苦境をお救いしたくて、僕は使令に驍宗様の許に行くよう、命じたんです。阿選を疑うなんて考えてもみませんでした。それは僕が阿選を信用していた、そればかりではなく、あのときの僕にとって、恐ろしいことを耳に入れてくれる者こそが、嘘をつかない人物だったからです」  言って泰麒は、微《かす》かに苦笑する。 「……確かに、僕は本当に子供で、何一つ満足にはできなかった。何かをしようとすれば、かえって李斎たちに迷惑をかけた……あの時もそうだった」 「台輔、そんな」 「けれども李斎──僕はもう子供ではないです。いいえ、能力で言うなら、あのころのほうがずっといろいろなことができた。却《かえ》って無力になったのだと言えるんでしょう。けれども僕はもう、自分は無力だと嘆いて、無力であることに安住できるほど幼くない」 「……台輔」 「誰かが戴を救わねばなりません。戴の民がせずに、誰がそれをするのです?」 「では……では、もう一度、蓬山をお訪ねして玄君に相談してみましょう。私や泰麒が戴のために何ができるのか」 「そして玄君が何を施してくれるのか、訊いてみますか?」  李斎は言葉を失った。 「天を当てにしてどうします? 助けを期待して良いのは、それに所有され庇護される者だけでしょう。戴の民はいつから、天のものになったのですか?」 「泰麒……けれど」 「李斎が慶に助けを求めた経過は聞きました。そうやって李斎が救いを求めて慶を訪ねてくれなかったら、僕が戻ってこられなかったことも確かです。人の手には余ることというものがあると、僕も思います。そして、今の戴の現状は、もはや角のない麒麟や隻腕《せきわん》の将軍の手には余るのかもしれません。けれども──李斎」  泰麒は李斎の残された手を取る。 「そもそも自らの手で支えることのできるものを我と呼ぶのではないんでしょうか。ここで戴を支えることができなければ、そのために具体的に何一つできず、しないのであれば、僕たちは永遠に戴を我が国と呼ぶ資格を失います」  李斎は泰麒を見返す。……そうか、と思っていた。  李斎は自分がなぜ、戴を救いたいのか分からなかった。同時に、あれほどの思いを、泰麒を前にして急速に失ってしまっていた自分に気づいた。そう、李斎にとっては、泰麒が無事であれば──自分の手で泰麒を守ることさえできれば、それが戴を守ることだったのだ。たとえそれが、慶の中の安全でも、李斎がその安全に何ら関与できていなくても、泰麒さえ無事でいてくれれば、李斎の中の戴は守られる。そして、戴を守ることがすなわち、戴が李斎のものである──祖国である、ということなのだ。守りきれず滅ぼすならばそれは戴に所属する李斎自身のせいだ。李斎は戴を失うが、泰麒さえ守ることができれば、李斎は戴を失わずに済む。 「僕たちは戴の民です。求めて戴の民であろうとするならば、戴に対する責任と義務を負います。それを放棄するならば、僕らは戴を失ってしまう……」  そして、所属する場所を失うということは、自己を失うということだ。  李斎は、朝《ちょう》を失い仲間を失い、知古を失った。花影《かえい》とも別れ──そして、自分が所属する場所を、もはや戴という国以外には持たなかった。だから、救いたかった。自己を喪失しないでいるために。  いまや李斎には泰麒がいる。泰麒を失わなければ、李斎が戴を失うことはない。慶の中に居場所も得ている。李斎にはもう、ここを去ることのほうが恐ろしい。だが、それが戴に対する──泰の民に対する、驍宗に対する、戴に今も閉じ込められている幾多の人々と、そこで失われた生命に対する裏切りであることは確実だった。  ……そう、確かに李斎らは、ここを出て戴に戻らなければならない。  李斎は涙で歪《ゆが》む視線を自分の手に向けた。それを握る手は、李斎のそれと変わらない。 「こんなに……大きくおなりなのですね……」       6  初秋の未明、李斎は泰麒を伴い、そっと太師《たいし》宅を抜け出した。  よくよく泰麒と話し合った末に、景王には何も言わずにいようということになった。出て行くと言えば、内宰《ないさい》らの起こした事件のせい、自らのせいだと思うだろう。そうでないと説得することはできても、彼女は辛い選択を強いられることになる。それでもなお引き留めるということは、慶の中に戴を抱え込むということであり、送り出すということは、戴を見捨てるに等しいことだ。少なくとも、あの若い王は、そう思わないではいられないだろう。  それに、と李斎は心の中で溜息を零《こぼ》す。  あの王に真摯《しんし》に引き留められれば、決意が揺らがないでいられる自信はない。今も李斎はこれは蛮行だという思いから抜け出せないでいた。戴に戻らねばならぬ、という泰麒の言い分は分かるし、その通りだとも思う。確かに、李斎は泰麒を連れて戴へ戻らなければならないのだ。──だが、その一方で泰麒は戴にとって絶対に失われてはならない希望であることも確かだった。守りおおせる自信はない。想像も及ばないほどの危難が待ち受けていることなど分かり切っている。できれば思いとどまるよう、泰麒を説得したいとは未だに強く思っていた。人としては戻らねばならない。臣としては戻らせてはならないと思う。二つに裂かれて拮抗《きっこう》する心は、泰麒の毅然とした意志の重みで、辛うじて戻るほうへと傾いている。 「李斎……残りますか?」  迷いを見透《みす》かすように泰麒に問われ、李斎は慌《あわ》てて首を振った。 「まさか。御冗談を仰《おっしゃ》らないでください」 「それとも、やはり景王にお別れを? 李斎はとても慶の方々にお世話になったのだから、このまま立ち去るのは辛いでしょう」  労《いたわ》るように言われ、いいえ、と李斎は笑って見せた。 「ほんの少し、名残惜《なごりお》しい気がしただけです。景王も……慶のみなさまも、あんなによくしてくださったのは、戴を救うためなのですから、ここで臆《おく》していては、それこそ顔向けができません」  ──そう、全ては戴のために成されたことだ。李斎は戴の民として堯天に来た。ここで安逸に逃げ、戴を捨てることは、その恩義をも投げ捨てることだ。李斎がそんな見下げ果てた振る舞いをすれば、戴の民の全てが見下げられるだろう。自らが何かの一部であるということ──戴の民であるということは、そういうことなのだと思う。  李斎は改めて息を吐き、太師邸の裏にある厩《うまや》の扉を開けた。塞《ふさ》がっている騎房は、ただ一つ、李斎らを認めて、飛燕《ひえん》は嬉しそうに立ち上がった。 「飛燕」  泰麒は駆け寄っていく。僅かに警戒する様子を見せた飛燕は、だが、すぐにそれが誰なのか思い出したのだろう、勢い込んで身を乗り出し、甘えるような声を上げた。 「……覚えていてくれたんだ」  泰麒に撫《な》でられ、飛燕は目を細める。それを微笑んで見やりながら、李斎は鞍《くら》を乗せる準備をした。そっと手綱を取り、飛燕を厩から引き出す。李斎は未明の空を見上げた。 「……雲海の上を戻ることができれば、どこかの州城に一気に駆け込むことができます。そこも阿選の手に落ちていないとも限りませんが、雲海の下は妖魔が徘徊しておりますから。どのみち排除して進まねばならないのでしたら、どちらでも大差ないかと」  説明する李斎に、はい、と折り目正しく答えて、泰麒は飛燕を撫でる。 「休む場所がなくて、飛燕が大変だろうけど」 「大丈夫でございますよ。飛燕はきっと頑張ってくれます。私を堯天《ぎょうてん》まで運んでくれたのですから」  うん、と泰麒は頷く。飛燕は柔らかく喉《のど》を鳴らして泰麒の肩にその頭を寄せた。  その時だった。 「──こんな時間に何をしてんのかなあ?」  唐突な声に、李斎が振り返ると、園林《ていえん》の暗がりの中に六太が立っていた。背後に見える大きな黒い影は虎嘯《こしょう》のものだろう。 「……延台輔……どうして」  立ち竦《すく》む李斎と泰麒を、六太は淡々と見比べる。 「それは、俺が立ち聞きしたからだな」  言って六太は、にっと笑う。 「悪いな、二人を警護するために使令を張りつかせていたんだ。だから筒抜け」 「……延台輔、僕は」  言い差した泰麒に、六太は手を振る。 「心配すんな。陽子には何も言ってない。だが、そういう勝手なことをされちゃあ困る。お前は今んとこ、うちの太師《たいし》なんだ、分かってるか?」 「それは」 「雁の太師が勝手に戴を訪問しちゃあ、拙《まず》いだろ。もしてやそこで揉《も》め事を起こされたんじゃ、なお困る」  黙り込んだ泰麒と李斎を見比べ、六太は大きく溜息をついて苦笑する。 「……そういうわけなんで、仙籍からは抜くぞ。太師も突然の解職で、暇を持て余して惚《ぼ》け始めてるみたいだからな。でもってこれは、慰労金だ」  六太は白いものを放《ほう》る。李斎は無意識のうちに利《き》き腕を出そうとして受け取りそびれ、自身に苦笑しながら、足許に落ちたそれを拾い上げた。暗闇の中で定かではないがそれは、旌券《りょけん》らしい木の札だった。 「いずれ、いるんじゃないかと思って、作っておいた。旌券《りょけん》が必要になることはないかもしれないが、それについた烙款《らっかん》で界身《かいしん》から金が出る。ただし、戴でどの程度の役に立つかは分からないけどさ。こっちは路銀だ」  李斎は放られた財嚢《さいふ》を、今度はきちんと受け止めた。 「……延台輔」 「あとは最低限の荷物。とらに着けてある。連れて行け」  李斎は目を見開いた。 「その天馬《てんば》だけじゃあ辛いだろ。ま、とらは用が終わったら返してくれると有り難い。たまが寂《さび》しがるからな」  李斎は手の中のものを押し頂く。 「……はい。必ず」  うん、と頷いて六太は両手を腰に当て、泰麒と李斎を改めて見比べた。 「本当は行かせたくない……それは覚えておいてくれ」 「……この御厚情は決して」 「朗報を待ってる」  言って六太は背を向ける。園林《ていえん》の木陰を掠《かす》めて歩みを進め、そして擦《す》れ違いざま、黒い人影を叩いた。樹影の下の夜陰から出てきた虎嘯は、ひどく複雑そうな表情で李斎に禁門のほうを示した。 「騎獣はあっちにいる」 「虎嘯《こしょう》には……本当に世話になった」 「そうでもねえさ」  力なく言って、心なしか肩を落とし、虎嘯は先に立って園林を抜けていく。太師邸のある内殿から禁門へと抜ける間、ずっと沈黙したまま、項垂れて足許を見詰めていた。  虎嘯がようやく振り返り、口を開いたのは、門殿の間近に出てからだった。 「……できることなら蹤《つ》いていってやりたい。俺がどれだけ働けるかは、分からないけどな。でももう、俺も宮仕えの身なんで」  複雑そうな表情のまま言った虎嘯に、李斎は微笑む。 「景王のお側には虎嘯が必要だと思う」 「うん。まあ、……そういうこった」 「くれぐれも、景王にはお礼を言っていたと伝えてもらいたい。できればお怒りにならないでくださいと」  虎嘯は頷き、そして門殿へと歩み寄った。門の内側に控《ひか》えた小臣が、禁門へと抜ける門を開ける。広い露台の向こうには淡い月に照らされた雲海が広がっていた。  内殿から禁門へと抜ける門殿の扉が開き、二人の人影と騎獣の影がひとつ、ひっそりと吐き出されるのを杜真《としん》は見た。傍に立っていた凱之《がいし》が徐《おもむ》ろに、|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》の手綱を引いてそちらのほうへと歩み寄る。杜真はその後を蹤《つ》いていった。  ごく軽々しい旅装の二人連れだった。凱之は、あの女将軍に手を差し出す。 「これをお預けするようにと承《うけたまわ》っています」 「ありがたく存ずる」 「……お気をつけて」  言って一礼した凱之に、彼女は丁寧な一礼を返した。凱之の後を蹤《つ》いていった杜真は、手の中にあるものを彼女へと差し出した。驚いたように彼女は杜真を見る。ずっと以前にお預かりしていた剣です。……その、出過ぎかと思ったんですけど、研《と》いでおきました」  ありがとう、と呟いて彼女は片手でその剣を受け取る。あのとき、深手《ふかで》を負っているように見えた右腕は彼女の身体には最早《もはや》存在しなかった。 「心からお礼申し上げる」 「いえ」 「お顔は覚えていないが、その声は、いつぞや私が転がり込んだとき、声を掛けてくださった方だな?」 「はい……あの、ええ」  杜真が頷くと、彼女は微笑んで深々と頭を下げる。 「お陰で景王にお会いでき、過分な御助勢をいただいた。全ては貴方のお陰のように思う。本当に心から感謝いたします」  杜真は首を横に振った。彼女らがこれから何のために、どこへ向かおうとしているのかは凱之に聞いて知っている。 「……どうぞ、お気をつけて。心から御無事を祈っています」  淡い月光を受けて白く浮かんで見える露台から、二頭の騎獣が飛び立っていくのが見えた。 「……別れを言わなくて良かったのか?」  露台に近い高楼から見下ろし、陽子は傍らに向かって問い掛ける。 「お掛けする言葉もございませんし」 「そうだな。……引き留めてしまっては申し訳ない。李斎にも泰麒にも」 「はい」 「無事に辿り着いてくれるといいんだが……」 「州城までは何とかなりますでしょう。雲海の上には、妖魔は出ないものですし」 「問題はその後、か。せめて使令だけでも付けてやれると良かったんだがな」  景麒は無言で頷いた。  王または麒麟の身辺を離れ、使令だけで他国に入ることは、兵を入れることと同義だと見なされる。六太にそう教えられ、陽子も景麒も諦めるしかなかった。  雲海の上を騎獣が遠ざかっていく。広々とした水面の上、それは痛々しいほど頼りない二つの点でしかなかった。見詰めていると、階段を駆け上がってくる威勢のいい足音がする。 「──行ったか?」  六太が顔を出した。 「うん」  陽子は頷《うなず》き、そして再び雲海を見やると、黒い点はすでに波の影に溶け込んでいこうとしている。 「旌券《りょけん》、渡しといたぜ。用意しといた、って言ったら疑いもせずに仕舞《しま》ってたけど、俺がいつの間にそこまで用意したと思ったのかなあ」 「みんな、延台輔なら納得してしまうんですよ」 「なんだ、それは。……明るくなって裏書きを見たら驚くだろうな」  陽子はただ笑った。  ──もう少し、あとほんの少しでいいから、助けてやれれば良かったのに、と思う。その心情を盾に引き留めることは簡単だろうが、それで救われるのは二人を憐《あわ》れむ自分の心でしかない。戴を救うことができるわけでもなく、救われぬ戴に痛む彼らの気持ちを救うことができるわけでもないことは確実だった。  せめて慶がもう少し豊かで、もう少し朝廷が堅固なものであれば。内紛の起こるような朝廷では、安心し、信頼して身を寄せていることもできるまい。実際のところ、引き留めてそれを後悔させないだけのことは、何一つしてやれないと分かっている。みすみす死なすようなものだと承知で二人を出すことは身を切られるように辛いが、この痛みは受け止めるしかないのだ。 「……まず自分からなんだよな」 「うん?」  雲海を眺めていた六太が振り返る。 「まず自分がしっかり立てないと、人を助けることもできないんだな、と思って」  陽子が言うと、そうでもないぜ、と六太は窓に額を寄せる。 「人を助けることで、自分が立てるってこともあるからさ」 「そんなもんか?」 「意外にな」  そうか、と呟いて見やった雲海には、すでに何者の影も見えなかった。 [#改ページ]  弘始《こうし》二年三月、文《ぶん》州に反《はん》あり。上《しょう》、文州|轍囲《てつい》に争乱の及ばんとすを憂えて王師を率い、之を鎮めんとす。同月、上、文州|琳宇《りんう》に於いて跡を喪《そう》す。時に同じく、宮城に鳴蝕《めいしょく》有り。由《よ》って宰輔|亦《また》跡を亡《ぼう》し、百官、之に失措《しっそ》す。  時に阿選《あせん》、官を謀りて、偽王として立ち、其の権を恣にす。丈《じょう》阿選は禁軍|右翼《うよく》に在りて本姓《ほんせい》は朴《ぼく》、名を高《こう》、兵を能《よ》くして幻術に通ず。非道を以て九州を蹂躙し、位を簒奪す。 [#地付き]『戴史乍書』 [#改ページ] ------------------------------------------------------- 【このテキストについて】 底本:「十二国記 黄昏の岸 暁の天」講談社文庫 2001年4月15日 初版第1刷発行 テキスト化:2005年07月初版 -------------------------------------------------------